有名論説(論文というほどのものかどうか……)。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC300789/ まあたいした内容はないんだけど、日本の「尊厳」関係の論文でもけっこうよく名前は触れられているので訳出してみました。そんなに苦労して読むもんでもないけど、国内論文で見るとなんかすごい重要で難しいもののように思われてるふうがあるから、ネットに追いておく価値あるかもしれないと思ってのこと。著作権はもちろんクリアしてなくて、こういうのって苦しいです。
尊厳は役に立たない概念
尊厳の概念なんて、人々の尊重や自律の尊重でしかない。
人間の尊厳への訴えは、医療倫理の景色を染めている。医療研究や医療実践のなんらかの特徴が人間の尊厳を毀損するとか脅かすといった主張はあちこちで見られ、特に遺伝子技術や生殖技術の発展と結びつけられることが多い。しかしそうした論難は筋の通ったものだろうか? 医療活動の倫理学的分析にとって、尊厳は役に立つ概念だろうか? 主要な事例をよく調べてみると、尊厳への訴えは他のもっと正確な観念のあいまいな言いなおしであるか、あるいは、そのトピックを理解する上でなにもつけくわえることのなり単なるスローガンである。
おそらく、尊厳に言及したものでもっとも目立つものは、国際的な人権規約のたぐいだろう。たとえば国連の世界人権宣言である。ほんの少しの例外をのぞいて、こうした国際協定は、医療措置や研究に対して向けられたものではない。主要な例外は欧州協議会の「生物学と医学のヒトへの応用における人権と人間の尊厳の保護のための協約」である。これや他の「尊厳」文書では、医療倫理学の原則である「人々の対する敬意」によって含意されるものを越える意味は含まれてしないように見える。それは、自発的で情報を与えられた上での同意を取得することの必要、機密を保護することの要求、差別的・虐待的な実践を避ける必要、などである。
尊厳への言及が現われたのは1970年代の死のプロセスについての議論のなかで、特に負担の多い生命維持医療を避けたいという欲求を巡っての議論のなかでだった。しばしば、「尊厳とともに死ぬ権利」という言葉で表現されて、この議論の進展は米国では事前指示を与える患者の権利を公的に承認する法令へとつながった。そうした法令の最初のものは、カリフォルニア州自然死法1976であり、次のような文句ではじまる。「〔カリフォルニア州〕議会は、尊厳とプライバシーを患者が期待する権利を承認し、ここに宣言する。カリフォルニア州法は、成人が書面で、終末期において、医師が生命維持措置の使用を差し控え、また撤回することをあらかじめ書面で指示する権利を承認する。」この文脈では、尊厳は自律の尊重以上のなにものでもないように思われる。
終末期医療に関連してこうした曖昧な用法が現われることへのコメントとして、米国大統領委員会は次のように言う。「「尊厳をもった死」のようなフレーズは、非常に矛盾したしかたで用いられているため、もしその意味がクリアにされたとしても、絶望的なほどぼんやりしたものになってしまっている」。
死と関連した「尊厳」のまたまったく別の用法は、医学生が新しい遺体を使って処置(ふつうは挿管技術)をおこなう練習をするときにもちだされている。医療倫理学者は、こうした教育的努力が死者の尊厳を侵害していると非難する。しかし、このシチュエーションは自律の尊重とはまったくなんの関係もない。なぜならその対象はもはや人ではなく遺体だからである。遺体がこのような仕方で試用されていると知ったら死者の親類縁者がどのように感じるかということを懸念することはもっともなことかもしれない。しかし、そうした懸念は遺体の尊厳とは何の関係もないし、関係があるのは、生きている人々の願いの尊重だけである。
ジョージ・W・ブッシュ大統領に任命された米国大統領生命倫理委員会、2002年7月に最初の報告書を提出した。そのタイトル『ヒトクローニングと人間の尊厳』は、委員会の論議のなかで尊厳の概念が占める重要な地位をあらわしている。「尊厳」に対する多くの言及のうちの一つで、報告者は次のように述べている。「生まれる子どもはその親がかつてそうだったのとまったく同じようにこの世界を訪れる。それゆえ、尊厳と人間性の点で、親たちと同等なのだ」。このレポートは尊厳の分析を含まず、それが人々の尊重といった倫理的諸原則とどういう関係にあるのかについては触れていない。どういう場合に尊厳が侵害されているのかを知らせてくれる基準がなにもないので、この尊厳の概念は絶望的に曖昧である。ヒトの生殖的クローニングに反対する説得的な議論は多くあるにしても、尊厳の概念をその意味を明確にすることなしにもちだしても、それは単なるスローガンにすぎない。
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