セックスの概念分析 (4) からセックスの形而上学へ

まあ「セックス」とか「性的活動」とか「性的欲望」「性的快楽」みたいな言葉の分析は「我々はなにを言おうとしているのか」ってのははっきりさせる時には重要だけど、それだけではあんまりたいしておもしろい話は出てこないかもしれない。

「セックス」がなんであるかとかやっぱりすごく広範囲で、「これがセックスだ!、そしてこれ以外はセックスではないのだ!」みたいなクリアな線は引けないかもしれない。

たとえば前にも書いたように、性的活動が(当事者の)性欲(性的欲求)をともなっている活動だとしても、性欲ってのがどんなものかをはっきりさせるのはかなりむずかしい。「これが性欲だ」みたいに示せればいいけど、対象もわからん。異性の身体(や、その一部)に対して性欲を感じる人もいれば、同性に感じる人もいるだろうし、パンツとかハイヒールとかランドセルとかに感じる人もいるかもしれない。パンツは好きですがそれを履く人には興味がありません、みたいな人もいるかもしれない。そういう人がパンツを片手に性的興奮を感じたり性的欲求を満足させたりしているときに、それが性的活動なのかそうでないのかよくわかんなくなる。あるいは、自分の性的快楽に関心はあるけど他人のそれにはまったく関心はない、とか。

それに、たとえば「食欲と性欲はどう違うの?」って聞かれたら「ぜんぜん違う欲望でしょ、もし食欲と性欲が区別つかなかったら変態さんでしょう。厚切りの肉に対して性的欲望を感じたり、性的な興奮を感じながら肉を食べたりしたらやっぱりおかしいでしょ」って答えていいのかどうか。

ちなみに、食の快楽と性の快楽がわけわからん感じになっている名作小説が谷崎潤一郎先生の「美食倶楽部」。(あれ、まだ青空文庫に入ってないのかな。)歯茎を美人の指でなでまわされて気持ちよくなっているとその指がいつのまにかスープでゆでた白菜の軸になっていて噛み切れる!ははは。読みましょう。

でもこうなってくると、なんか「それってたしかに性的活動かもしれないけど、倒錯 perversion なんちゃうか」みたいな、ことを考えたくなる。

「倒錯」っていう概念は今時はかなり評判が悪いです。一時期は同性愛や性同一性障害とかが倒錯って言われてましたし、オーラルセックスとかも倒錯的って言われてましたしね。マスターベーションでさえ倒錯的って呼ばれたころがあったはずです。まあ「倒錯」っていう概念がなにを含んでいる(あるいは何も含んでないのか)のかもこの文脈ではかなりおもしろい話になります(っていうか、「セックスの概念分析」に含まれる問題のなかでも中心的な問題であります。)。

でもこれって、もう言葉や概念の分析を離れてしまってるかもしれない。つまり、人間の生活のなかでセックスとか性的欲望とか性的快楽はどのような地位をしめていて、どういうのが普通で、どういうのが(統計的に)異常かみたいな話になってくる。

そこでまあ「「セックス」って何なの?」という言葉についての疑問は、「セックスってのは人間にとってどういうものなの?」っていう問いにつながってくるわけです。そのためには存在論とか認識論とか神学とか心理学とか人類学とかを参照しなくてはならくなってくる、かもしれない。ソーブル先生はこういうのを「セックスの形而上学」って呼んでるけど、まあ私は「形而上学」って言葉はあんまりうまくないと思ってる。彼のこういう用語法はよくわからんです。まあとにかくそんな感じで話は進む。

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