活動の「目的」とかそんなにいっしょうけんめい考える必要はないかもしれない

前のエントリで「セックスの目的」みたいな話に触れてみたけど、こういうのってなんかやっぱりあやしいところがあるわよねえ。

ちょっと前にツイッタとかで「学会の目的ってなんだろう?」みたいな書き込みを見かけた。まあ人間関係とか組織的活動とかうまくいかないと「〜はなんのためにあるんだろう?」なんてこと考えちゃいますよね。「人生ってなんだろう、なんのために生きてるんだろう?」とか。ははは。「セックスの目的」みたいなのについて考えるのもだいたいそれがうまくいってないときとかそれができないときとか、まあとにかくうまくいってないときだわよね。まあ一般に反省したり哲学したりするのはなにかがうまくいかないときだ。セックスの哲学している人々はだいたい哲学はたのしくやってるだろうけどセックスを楽しくしているかどうかはわからない、ははは。

まあとにかくたとえば「学会の目的」みたいなのを考えたときに、「学会の本来の目的は学術的な意見を交換し、もって知識の拡大を図るのだ」みたいなご立派な目的が提示されるわけですが、実際の我々の活動をみるとそれだけが目的ではない。

知識を求めてくる人もいれば、酒を飲みに来る人もいる。研究仲間や子分を探しに来る人もいれば、自分が偉いことを示したい人もいるし、嫌いな教員の弟子をいじめに来る人もいるし、まあほんとにいろいろ。っていうかなにか組織や活動が一つの「目的」のためにあるのだと考える必要はない。上のすべての目的を同時に果たしている人もいるだろう。

セックスという活動もそういうことがありえる。子どもを作りながら快楽を味わいつつお金も稼ぐセックスもあるかもしれんし。まあそんな話。

ソーブル先生なんかはセックスってのは多義的 polysemic だ、みたいな話をするのがいつもの手段。まあわれわれはいろいろしているのです。

あと書きそびれたけど、なにかを定義しようとするときに、その活動の目的——何を目指しているのか——を問うのはソクラテスやアリストテレス以来の伝統だってのも書くべきだったかもしれないけどまあいいや。

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