『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (6) キリスト教はこわくてあんまりコメントできないけど

第3章はキリスト教

  • これねえ、ギリシアもローマも難しいんですが、ユダヤ〜キリスト教も難しいんですわ。まあ鈴木先生ジェネラリストとしておおざっぱな話を書いて、スペシャリストからつっこんでもらうつもりみたいだから勇気がある。正しい態度だと思います。私もあれやこれや浅くても広い知識もって好きなこと言いたいんですが、むずかしいですよね。
  • 鈴木先生はキリスト教が性的に禁欲的だって言いたいみたい。私もまあそうだろうと思うんですが、旧約聖書にはそういう感じはないですわね。新約聖書のイエスさんの言行にもそういうのはあんまり見あたらない。パウロさんはかなり禁欲的で、そのあとのヒエロニムス先生とかやばい、ってのは私自身もまえに書いてる気がする。そういうんで、あんまり文句つける気はないです。でもあんまりキリスト教の禁欲的な側面を強調すると信者の人々はおこるんちゃうかな。
  • 111頁の「種の保存のため、人間という動物に基本的にインストールされているはずの性欲と快楽のシステム」とかっていうのはこれは絶対だめ!種の保存なんて考えかたは捨てましょう。誰も信じてません。種の保存じゃなくて、「生殖のために進化のなかで〜」ぐらいにしといたらいいと思う。
  • キリスト教の細かいところへのつっこみは専門家にまかせることにして(知識足りなくてこわいから)、この章で問題にしたいのは、姦淫/不倫/浮気が強く非難されるのは、キリスト教の影響だ、って鈴木先生が言いたがってるみたいなところなんですわ。これは本書の最初っからの目標のようで、けっきょく鈴木先生の頭のなかでは「不倫や浮気を非難するのはわれわれの恣意的な「恋愛制度」のためである、単なる文化的なものである、それはたいして根拠がない、それは歴史的に恋愛の歴史を見ればわかる」って言いたそうなんですよね。しかしこの発想は私はあんまりよくないと思う。
  • 他人の嫁に手をつけてはいかん、というのはこれはかなり文化普遍的だと思う。というか、女性に対する性的アクセスの限定というのは「結婚」という制度の核心部分であって、女性のセックスの管理こそが結婚制度の最大の目的である、っていうのはもうものすごく深いところにあると思う(男性の資産管理も大きいけど)。これを理解しないと恋愛や結婚の制度の話はうまく理解できないくらい重要だと思う。
  • たとえばキリスト教以前にも、姦淫は重大な犯罪・非行であったっていうのははっきりしていると思う。たとえば鈴木先生自身が言及しているオウィディウスが皇帝アウグストゥスからローマ追放された話だって、基本的にはアウグストゥスがローマのセックス問題を解決しようとしたためで、アウグストゥスは姦淫を法的に罰するようにしたみたいですね。とにかく女性の浮気は血なまぐさい揉め事のタネになりやすい。古代ギリシア叙事詩の『イリアス』でトロイが滅亡することになるのはそもそもアフロディテさんも認める超美人ヘレネちゃんが浮気したからだし、『オディッセイア』のオディッセウスの奥さんのペネロペさんは、オディッセウスさんが行方不明になってもいい寄る男を拒絶して独身を守り通し、帰ってきたオディッセウスさんが言いよった男を皆殺しにした、みたいな話も有名ですわね。こえー(オディッセウスさん本人は魔女みたいなのとエッチ三昧してたのに)。まあ、ほぼどういう伝統的文化でも妻の不倫・浮気はひどく非難されると思うし、そういうのしない人々はとても誉められる。えらい!
  • ユダヤ民族が「姦淫するな」とか「隣人の妻をほしがるな」って強調したんだって、隣の奥さんに手を出したりする奴があとをたたないからそういう戒めがあるわけでして。
  • 「バレようがバレまいが、浮気それ自体がいかん、という考え方は、江戸以前にはおそらく存在しかったでしょう」っていうのは、たとえば細川忠興の殿様が、ガラシャに見とれた庭師をその場で手打ちにした、みたいな話は誰でも知ってるわけで。こえー。いつぞや学生様の前で、「そういや殿様が植木屋さんを殺したとかそういう話があって」とかって話してたら、「それで刀の血をガラシャの着物でぬぐうんですよねっ!」ってうれしそうに教えてくれる学生様がいて、すごい[1]あれ、血糊の話と庭師の話は別みたいね。
  • というわけで、キリスト教的な伝統が、「放埒な」性的な欲求を強く非難する傾向があった、っていうのは私も賛同したいんですが、不倫や浮気を非難するのはキリスト教のせいだ、みたいな話はあんまりよくないんじゃないかと思う。それにキリスト教のもとでもみんなあんまり真面目に生きてなかった、っていう話はほとんど自明だと思う。ここらへんの西洋セックス・恋愛文化の話になると、かなりたくさんの本がありますね。どれもおもしろいです。
  • あんまり議論できないけど、ルージュモン先生やC.S. ルイス先生とかの「エロスとアガペー」みたいな話は、我々の世代はうたがって読まないとならんと思う。あれはおそらくよくない。
  • でもこの章はOK。こういうふうにざっくり話してもらえば、興味もつひとはそっから本読むだろうし。
  • ひとつだけわりと重大な文句書いておくと、結婚という社会の制度と、恋愛という我々の一部がやってる営みとの切り分けが難しくて、そこははっきりさせてほしいと思う。もちろん先生はその二つがちがうものであることはわかって書いてると思うんだけど、「恋愛「制度」」っていう発想と表現するもんだから、そこらへんがわかりにくくなってるわけです
  • そういや、ここらへんで不倫や浮気の話が出てきているのでもう一つコメントすると、タイトル「束縛の歴史」を見て、たいていの人々は恋愛観による束縛というよりは、男女間(あるいは同性間)の恋愛でのパートナーの行動の「束縛」行為を思いうかべると思うんですよね。鈴木先生はそういうのはあんまり好きじゃないのかもしれないけど、まさに結婚や恋愛関係(それが制度的なものであれば)っていうのの核にはそうした束縛や排他性があって、それ議論してくれないとどうも恋愛論っていう気がしないんですわ。おそらく鈴木先生は、そういう「恋愛もセックスも一対一じゃなきゃ」とか「二股は許さん」みたいなのも文化的なもんだから見直してあんまり重要なものではないし見直してもいいだろう、って言いたいんじゃないかと勝手に推測してるんだけど、それはっきりやってくれた方がわかりやすかったかもしれない。

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References

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1 あれ、血糊の話と庭師の話は別みたいね。

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