北田先生から怒られてしまった (5) 瀬地山先生を非難するには

あとは北田先生の論文のなかで、私とはあんまり関係ないことについてちょっとだけコメントしておきたい。

どうもこの論文で、北田先生は瀬地山先生がいろいろ悪いこと(サイレンシングやトーンポリシング)をしているっていうのを立証したいように見えるんだけど、そういう道徳的な非難をするには、もっと周到な準備が必要だと思うんよね。

先に示したように、まずはサイレンシングなりトーンポリシングなり、そうした行為(その一部は発話行為かもしれない)がどのようなものであるかを明示してほしい。つまり、その記述の条件を明示する。どサイレンシングもトーンポリシングも、日常語ではなく、はっきりとした人工的な術語のはずなので、明晰化するのはさほど難しくないだろうと思う。もっとも、まあ日常的なレベルで使う語としてぼんやり定義するのでもとりあえずかまわん。さらに、それがなぜ不正だったり悪だったりするのかも可能なら説明してほしい。これもさほど難しくないと思う。

手段もそれほどむずかしくない。まず、その言葉で言いあらわしたい事例を二つ三つ考えてみて、それに共通する特徴を考えて記述してみる。さらに、その言葉にはあてはまらないことにしたい例も考えてみて、それがさっきの「共通の特徴」にはまらないことを確認する。共通の特徴がみつかったら、それがなぜ悪だったり不正だったりするのかを、一般的な原則(たとえば功利主義だとか権利論だとか)から説明してみる。

たとえば、「サイレンシング」という非難したいと思ってる行為をまとめあげる言葉を思いついたとする。それに含めたいのは、「私たちはいつもセクハラされている」という学生様の意見を封じこめる大学教員や組織のふるまい、「おれたちも苦しいんだよ」っていう男性の言い分を「男は特権階級!」とかって一言で片づけてしまうような人々のふるまい、などなど考えていく。

その結果、サイレンシングとは、弱い立場の人々の発言や訴えや非難を、(1)文字通り物理的に他の人々に聞こえなくしたり、あるいは(2)その人々の信用や名誉を損うことにって発言の信頼性を落したり、あるいは(3)その人々の倫理的・道徳的な欠点をあげつらうことによって、その人々の訴えや非難はさほど社会が配慮したりする必要はないように誤認させる、みたいなタイプの特徴づけで十分だってことになるかもしれない。

安倍首相が沖縄基地について好き勝手言うのを黙らせるのはサイレンシングにしたくないかもしないけど、そこらへんも上の(1)〜(3)の特徴づけにはまってないことを確認すればよい(今回は面倒なので確認しない)。

適当に特徴づけたら、それを非難したい理由をじっくり考える。こうした他人の発言の効力を下げるさまざまな策謀は、それ事態不快で不正なものであるのはわかりやすいし、また、自由な言論による自由な討議による社会の改善をめざす立場からも非難したい。ね。簡単っしょ。

そこまでやってもらったところで、さて瀬地山先生がやったことはそうした(非難されるべき)サイレンシングなりトーンポリシングなりであるか、という議論になる。これもがんばってやってください。ここで重要になるのは、実際に瀬地山先生がなにを発言したかとか、小説家の人が何を発言したかとかなんだけど、北田先生はそれがはっきりしてないうちに瀬地山先生を非難するこの論文を書いてるように思えます。まあ証拠がそろわなくてもなんか発言しなきゃならないときがあるのはわかるんだけど、瀬地山先生を非難するほどの材料が揃ってるとも思えなかったですね。(現在はいちおう全文書き起しが公開されている)

ある小説家が、現実の事件と現実の人々の集団を背景にして小説書いた場合、あるていどの取材とか迫真性(リアリティ)とかほしくなるものだと思う。とくに誰かを非難するような作品であれば、それが十分に考えぬかれているかは気にななる。単に「東大生はプライドがたかくて、挫折をしらず、女性をモノのように扱うことが平気な連中である」という想像だけから作品が描かれていれば、そら問題があると思う。今回はそういうした話がなされたわけでもなく、三鷹寮の広さがどうのこうのっていうのは誰にとってもどうでもいいけど、主人公たちの心理はもっとつっこんでみてほしい、みたいな話が中心だったんじゃないかと思う。これってサイレンシングやトーンポリシングなの?

この立証は北田先生がやるべき作業であって、そのときにバトラー様の議論がどれだけ役に立つのかわたしにはさっぱりわからない。「パフォーマティブ」だの発語内行為/発語媒介行為とかの区別したって、特に役には立たないのではないか。たしかに、サイレンシングやトーンポリシングっていう行為があるとしたら、それは発語内行為か発語媒介行為か、っていう話は哲学や言語学に興味ある人にはおもしろいかもしれないけど、北田先生がやりたい瀬地山先生に対する非難にはあんまり関係ないんじゃないのかな。関係ありますか?

まあそれより前にやっとかないとならない作業が大量にありそうに思う。たとえば、瀬地山先生の発言は小説家の先生や被害者の人々に対する中傷になっているか、なっているとすればそれはどのようにしてか、とか。こたえられます?

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