北田先生から怒られてしまった (6) 言語使用の適切さと道徳的な適切さは別よ

あともう蛇足っていうか、文章読みなおしたりするのも面倒なんでこれ以上書きたくないのですが、発話行為の言語学的というか、会話の上での適切さの基準と、その発話行為の道徳的な善悪の基準はまったく別です。会話の上、あるいは言語の使用においてはまったく問題ないけど、道徳的に悪徳的であるような発言はたくさんある。一方、言語使用において問題だったらそれそもそも(発語)行為として適切じゃないのでその道徳的な善悪とかあんまり言う意味がない。

たとえば、ヨットの命名式があるとします。私がその船を発注したオーナーで(超富豪!)、私が名前をつける権威をもっている。よくしらないけど、船オーナーの儀礼上、ワインだかシャンパンだかを船に命名するのがそうした筋での慣習らしい。(いまでもそうなのか知りませんよ。)

んでその命名式の当日、私は朝からよっぱらっており、命名式の2時にはかんぜんに酩酊状態。「では、命名式です」「某さんがシャンパンぶつけながら命名します」「じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃっじゃ〜〜ー〜ー〜じゃーん」「わたすはこの船をちんぽろすぴょーん号と命名するぅ!」ってやったら、この船ちんぽろすぴょーん号になっちゃう。言語行為としてはまったく適切でも、道徳的にちょっと問題があるかもしれない。

これ、しゃれにならないのは結婚式とかで、特にカトリックで神父さんが「〜と〜はここにおいて結婚した」とか宣言しちゃうと結婚しちゃって原則的に離婚というのはできないので、あとで離婚するときに「あの結婚はなんか不備があってじつは以前から成立してない」みたいな議論しなきゃならないとかそういう話は聞いたことあります。

さっきの船も、私の個人の所有船だったらちんぽろすぴょーん号でもいいかもしれないけど、みんなで乗るものだったら具合わるいから、「あのとき江口は心身喪失状態だったので命名行為は成立していない」とかそういう議論しなきゃならないかもしれない。そこでは権威とか意図とか正常な心理状態とかそういうのが問題にされるでしょうな。

まあ話ずれちゃったけど、こういう言語行為の適切さと、その言語行為が道徳的に問題ないものかどうかは別ですわ。

サイレンシングやトーンポリシングを記述的にどう定義しようと、つまりどういう条件のときにそれがサイレンシングだとか、あれはトーンポリシングだとかって規程しようが、その定義のたびに、それがなぜ悪い行為なのかの説明はしなおさないとならない。当然でしょ。サイレンシングにおいて意図が重要であるならば意図はサイレンシングの悪さに関係しているだろうし、意図と関係なくサイレンシングと言えるのであれば、サイレンシングの悪さと意図はあんまり関係ない、とかそういうふうになるかもいれない。なんにしてもこういうのは言葉をはっきりさせ、それの道徳的価値についてしっかり議論するしかない。「パフォーマティヴィティー」とかって概念について誰かの文献を研究したり、あるいはバトラー様の真意とか意図とか準拠問題とかが理解できたらかといって、サイレンシングやトーンポリシングの倫理的問題が解決するわけではないのです。

北田先生から怒られてしまった (5) 瀬地山先生を非難するには

あとは北田先生の論文のなかで、私とはあんまり関係ないことについてちょっとだけコメントしておきたい。

どうもこの論文で、北田先生は瀬地山先生がいろいろ悪いこと(サイレンシングやトーンポリシング)をしているっていうのを立証したいように見えるんだけど、そういう道徳的な非難をするには、もっと周到な準備が必要だと思うんよね。

先に示したように、まずはサイレンシングなりトーンポリシングなり、そうした行為(その一部は発話行為かもしれない)がどのようなものであるかを明示してほしい。つまり、その記述の条件を明示する。どサイレンシングもトーンポリシングも、日常語ではなく、はっきりとした人工的な術語のはずなので、明晰化するのはさほど難しくないだろうと思う。もっとも、まあ日常的なレベルで使う語としてぼんやり定義するのでもとりあえずかまわん。さらに、それがなぜ不正だったり悪だったりするのかも可能なら説明してほしい。これもさほど難しくないと思う。

手段もそれほどむずかしくない。まず、その言葉で言いあらわしたい事例を二つ三つ考えてみて、それに共通する特徴を考えて記述してみる。さらに、その言葉にはあてはまらないことにしたい例も考えてみて、それがさっきの「共通の特徴」にはまらないことを確認する。共通の特徴がみつかったら、それがなぜ悪だったり不正だったりするのかを、一般的な原則(たとえば功利主義だとか権利論だとか)から説明してみる。

たとえば、「サイレンシング」という非難したいと思ってる行為をまとめあげる言葉を思いついたとする。それに含めたいのは、「私たちはいつもセクハラされている」という学生様の意見を封じこめる大学教員や組織のふるまい、「おれたちも苦しいんだよ」っていう男性の言い分を「男は特権階級!」とかって一言で片づけてしまうような人々のふるまい、などなど考えていく。

その結果、サイレンシングとは、弱い立場の人々の発言や訴えや非難を、(1)文字通り物理的に他の人々に聞こえなくしたり、あるいは(2)その人々の信用や名誉を損うことにって発言の信頼性を落したり、あるいは(3)その人々の倫理的・道徳的な欠点をあげつらうことによって、その人々の訴えや非難はさほど社会が配慮したりする必要はないように誤認させる、みたいなタイプの特徴づけで十分だってことになるかもしれない。

安倍首相が沖縄基地について好き勝手言うのを黙らせるのはサイレンシングにしたくないかもしないけど、そこらへんも上の(1)〜(3)の特徴づけにはまってないことを確認すればよい(今回は面倒なので確認しない)。

適当に特徴づけたら、それを非難したい理由をじっくり考える。こうした他人の発言の効力を下げるさまざまな策謀は、それ事態不快で不正なものであるのはわかりやすいし、また、自由な言論による自由な討議による社会の改善をめざす立場からも非難したい。ね。簡単っしょ。

そこまでやってもらったところで、さて瀬地山先生がやったことはそうした(非難されるべき)サイレンシングなりトーンポリシングなりであるか、という議論になる。これもがんばってやってください。ここで重要になるのは、実際に瀬地山先生がなにを発言したかとか、小説家の人が何を発言したかとかなんだけど、北田先生はそれがはっきりしてないうちに瀬地山先生を非難するこの論文を書いてるように思えます。まあ証拠がそろわなくてもなんか発言しなきゃならないときがあるのはわかるんだけど、瀬地山先生を非難するほどの材料が揃ってるとも思えなかったですね。(現在はいちおう全文書き起しが公開されている)

ある小説家が、現実の事件と現実の人々の集団を背景にして小説書いた場合、あるていどの取材とか迫真性(リアリティ)とかほしくなるものだと思う。とくに誰かを非難するような作品であれば、それが十分に考えぬかれているかは気にななる。単に「東大生はプライドがたかくて、挫折をしらず、女性をモノのように扱うことが平気な連中である」という想像だけから作品が描かれていれば、そら問題があると思う。今回はそういうした話がなされたわけでもなく、三鷹寮の広さがどうのこうのっていうのは誰にとってもどうでもいいけど、主人公たちの心理はもっとつっこんでみてほしい、みたいな話が中心だったんじゃないかと思う。これってサイレンシングやトーンポリシングなの?

この立証は北田先生がやるべき作業であって、そのときにバトラー様の議論がどれだけ役に立つのかわたしにはさっぱりわからない。「パフォーマティブ」だの発語内行為/発語媒介行為とかの区別したって、特に役には立たないのではないか。たしかに、サイレンシングやトーンポリシングっていう行為があるとしたら、それは発語内行為か発語媒介行為か、っていう話は哲学や言語学に興味ある人にはおもしろいかもしれないけど、北田先生がやりたい瀬地山先生に対する非難にはあんまり関係ないんじゃないのかな。関係ありますか?

まあそれより前にやっとかないとならない作業が大量にありそうに思う。たとえば、瀬地山先生の発言は小説家の先生や被害者の人々に対する中傷になっているか、なっているとすればそれはどのようにしてか、とか。こたえられます?

北田先生から怒られてしまった (4) どんなとき行為はパフォーマティヴ?

というわけで今回はまったくなにを怒られているのかわからなかったのですが、一つだけ収穫があったんですわ。「パフォーマティブな行為」。このなにげない表現から、いろんなことがわかった。

前にも書いたけど、この「パフォーマティブ」はオースティン先生たちの意味ではない。それはありえない。んじゃ、ある行為が「パフォーマティブである」っていうのはどういうことか?一番素直なのは「パフォーマンスである」ですね。パフォーマンスとしての行為。この「パフォーマンス」はふつうは演技とか楽器の実演とか、そういうのですわね。でもそれじゃおもしろくない。

たとえば私が学会懇親会で、浪速大学教授たちが性的に活発なことを指摘したら、その「パフォーマティブな行為」の意味はなにか。ていうかそれじゃパフォーマティブじゃない行為っていうのはどういう行為なのか。

こういうのぜんぜん説明してくれないからわからんけど、北田先生みたいなルーズだけどかっこいい言葉づかいする人々は、おそらく、「直接やっているように見える行為と別の行為が同時におこなわれている場合に、その行為はパフォーマティブだ」とかそういう感じになるんだと思う。

浪速大学教授の性的活発さを記述するのは、それによって浪速大学教授たちを貶めたいという江口のパフォーマティブな行為だ、とかそういうふうになるんちゃうかな。

でもこれってほんとにつまらない。だって、われわれの行為って、別に二つ三つの意味とか意義とかがあるのってふつうのことじゃん?誰かとセックスするとき、コミュニケーションしたり射精したり愛を確かめたり、性器を接触させたり、オルガズムスを経験したり不快を経験したり、労働したり、男性優位社会を確認しつつ女性の優位を推定したり、まあいろんなことしてるじゃん。「一つの動作に一つの行為の意味」みたいなふうにはなってないし。行為においても発話においても。だから「パフォーマティブ」っていうのが指摘するのがおもしろい概念や特徴であるとしたら、たんに二つ以上の行為をどうじにやってるってことじゃないと思う。

んじゃなんなよ、って話になるとこれまた面倒ですわなあ。もうちょっとつめられるとは思うけど、もう面倒だからやめ。ヒントだけ書いておくと、字義どおりの発言や行為と、それによって目指されてる全体的な(他者への)影響の違い、とかになるんだろうけど、そういうことになったときに、北田先生とかがなんかやってる「意図にかかわらず」みたいなの可能なのかどうかよくわからん。でもそういうのも、まじめに考えたきゃバトラー様の難解すぎるか、さもなくば無内容であるか、あるいは難解で無内容かもしれない文章いっしょうけんめい読むより、ふつうの行為の哲学とかそういうのやった方がいいんちゃうかな。とにかくバトラー様はうんざりしたし、北田先生のおかげでほとんど理論的なことも具体的なことも考えてないのがはっきりしたと思う。まあでも好きな人はがんばってほしい。

北田先生から怒られてしまった (3) 具体例がないとわからない

そもそも、北田先生の、バトラー様(や北田先生や小宮先生の)「準拠問題」(=問題設定?)を認めるとか精査するとか、そういうのっていうの抽象的にはよいことだと思うけど、具体的にどういうことなのか考えてみるとよいと思う。

北田先生はバトラー様が二つの「準拠問題」を立ててるといっている(と思う)。一つめは、(1) 「中傷的発言の発言者の意図によらずに、その行為を理解し、利用・転用する実践はいかにして可能か」とからしい。

しかし、ふつうの読者はここまでで、ポルノグラフィは中傷的表現である、っていう立場があることを十分説明してもらってないから、話がわからないはず。そもそも「ポルノグラフィ」の定義ももらってないし、「中傷的発言」もどういうのが中傷的なのかはっきりとはわかってないと思う。たとえば「お前は馬鹿だ」みたいなのが一般に中傷的発言かどうか……罵倒ではあるだろうけど、これ中傷(「根拠のないことを言って他人の名誉を傷つける」)なの?なんか具体例考えてくれないとわからん。

さらに、北田先生の「中傷的発言の発言者の意図によらずに、その行為を理解し、利用・転用する実践はいかにして可能か」という定式化は曖昧すぎて使い物にならない。(a) 「理解する」の主語が誰かわからない。私?北田先生?我々?、(b)「意図によらずに」がわからない。「発言者の意図を考慮せずに」ってこと? (c) 「いかにして可能か」はよくつかわれるみたいだけど、「実際やってるけどその理論的背景はどうなってるの」っていう意味と、「どうしたら可能になりますか?」っていう意味が曖昧。このままでは使いものにならない。こんな曖昧で自分たちが書いてる意味さえわからないようなのが「準拠問題」であるとは思えない。

「中傷的発言の発言者の意図によらずにその行為を理解する」は実際わからんでしょ。「中傷的発言の発言者が、どのような意図にもとづいたものかにたよらずに、我々がその発言の内容や発言全体の意味を理解する」、だったら少しまし。

具体的に考えましょうか。たとえば、たとえばですよ、学会懇親会で「浪速大の男性教授たちは性的に活発で偉いですなあ、繁華街でとんでもないお金をつかったりとお聞きしましたし、複数の学生様とも交際したりしているらしいですなあ、いやあすばらしいことです」とか私が発言したとするじゃないですか。そういうとき、私はいったい何を言おうとしているのか、って問題になるときがあるかもしれない。

でもまあおそらく私が浪速大学の男性教授個人、あるいは集団に対して、皮肉とか侮蔑とかの意図がなければ皮肉や侮蔑ではないといえるのかどうか、微妙ですな。また、この発言に根拠がないなら中傷かもしれないけど、十分な根拠があったらどうだろう。つまり、根拠がしっかりしていて侮蔑中傷の意図がある、根拠がなくて侮蔑中傷の意図がない、根拠があるけど侮蔑中傷の意図はない、根拠がなくて中傷の意図がある、みたいなの考えたいわけかね。

北田解釈でのバトラー準拠問題はいったい、こういう具体例にしたときにどういう問題なのですか。別の問題でいいから具体的に説明してください。まあ具体例は、東大の社会学教授が、現実の性暴力を題材にとった小説家に対して、小説が事実とちがっていることを指摘することとなにか関係があるとわかりよい。

なんかわからなくなってきた。私がいいたいのは、北田先生が「江口はわれわれの準拠問題に興味をもたない」とか非難しているように見えるんだけど、その準拠問題だかなんだかがそもそもわけわけわからんし、そんなものにつきあってる時間はない、みたいな。もっと具体的な問題を考えるのと、主語とか目的語とかはっきり書くっていうのを大事にしたらどうだろうか。しかしこれ、私が北田先生におねがいするようなことなのだろうか。あいまいでわけわからん文章で質問されたり非難されたりしても、困ってしまうだけです。

バトラー様の準拠問題(2)は「発語内行為として中傷的発話を理解することは、発話者の意図や、その意図が位置づく文脈の適切さを、認めてしまうことになる」なんだけど、これももう最初からわからんし、やっぱりこういうの文章で書くの無理ですわ。北田先生の頭のなか想像するのも苦しいし。いっておきたいのは、まず具体例を出してほしい。「浪速大学の先生は助平だ」という発言があったとして、それを発語内行為として認めるとは?私が浪速大学の先生は助平だとして侮辱した、でいいですか?助平であることを指摘するのが侮辱することならそれでいいのではないか。私が浪速大学の先生が助平であることを指摘して、その発言において浪速大の先生を侮辱していることを認めたら、私の意図やその文脈の適切さを認めることになるのですか?なにを言ってるのかわからない。こんな準拠問題だか問題設定だか認められるわけがないではないですか。具体的に考えましょ。

というわけでおしまい。話になりませんでした。

北田先生から怒られてしまった (2) 「準拠問題」ってなんですか

これ、たずねられたり怒られたりしていることじゃないから書く必要ないのかもしれないけど、そもそもこの北田先生の論文で何回も使われてる「サイレンシング」とか「トーンポリシング」とか、いったいどういう概念で、ある人の発言や行動がサイレンシングだったりトーンポリシングだったりする基準はなんですか。それにそれは常に不正なことや悪いことなんですか。そういう説明なしに瀬地山先生は小説家や性暴力の訴え(?)をサイレンシングしている!それはバトラー様の準拠問題のもとでわかる!とかっての、ほんきですか。

そもそも、バトラー様の準拠問題ってなんですか。たとえば論文だか著書だからしらないけど、「アセンブリ」まわりの話で、「そこに人間が集るだけでたむろするだけで行為になる」みたいな話があるみたいだけど、そらそうでしょう。別に難しい言語行為論もパフォーマティブもいらんのんちゃうかと思う。必要ですか?

もともとのジェンダーのパフォーマティヴィティとかだって、われわれは社会で男らしいとされている服装したり、そうしたふるまいをすると、男らしいと思われる、ってなぐらいの話でしょ?そこで使われる慣習みたいなのを尊重することもできるし、ちょっとひねりくわえたりするとおもしろかったりする。こんなわかりやすい話のどこに、ラカンだのアルチュセールだの必要なんですか。関係ないじゃないっすか。

私が思うに、傷つきやすさは大事だとか、人権が大事だとか、連帯がだいじだとか、そういうバトラー様が言ってるかもしれないことはそらみんな最初からわかってるわけですわ。問題は、卵が壁に次々にぶつかって割れていくようなとき(そして、壁の向こうがわではその衝撃でやっぱり卵が割れてしまってるとき)に、私らどうしたらいいかってことでしょ? 卵が壁にぶつかって無駄に割れるの気の毒だから、壁に少しヒビでも入れといた方がいい?卵が動けないようにもっと監視した方がいい?それに対してバトラー様やそのフォロワーの先生たちはどうしたらいいか具体的な方策や考え方本当にしめしてくれてますか?

ていうか、そんなシビアな話までいかなくても、北田先生はバトラー様が『触発する言葉』でポルノグラフィーと中傷的発言や差別発言を社会的にどうしたらいいと主張していると考えてますか? 暴力的なポルノもそのまんま制作・流通させてOKなの?中傷的発言そのまま流通させてていいの?それともなんか法的規制をしてもかまわないって言ってると思いますか?どういう規範的判断しているの?そしてその規範的正当化どうしるの?それ紹介できますか? 私あの本何回読んでできませんよ。ふつうできないと思う。

北田先生から怒られてしまった (1) パフォーマティヴってなんですか

『現代思想』のジュディス・バトラー特集号に載ってた、北田暁大先生の「彼女は東大を知らないから:実践のなかのジェンダー・トラブル」という論文で、私が日頃ツイッタやブログで適当にかきなぐってることについて怒られてしまったのでお返事しようかと思ったのですが、先生の論文はものすごく難しくて何を言ってるのか理解するのにとても時間がかかりました。けっこうがんばって読んだんだけど、結局よくわからなかった。バトラー様まわりはほんとうに時間ばっかりかかって人から憎まれるだけでなにもよいことがないので、泥沼みたいなのところにひきづりこむのやめてほしい。

どうも北田先生がやりたいのは下のような議論らしい。

  1. 東大の瀬地山角先生は東大でおこなわれたトークショーで小説家の先生に対してトーンポリシングだかサイレンシングだかをおこない、そしてそれは悪いおこないである。
  2. 瀬地山先生の行為がそうした悪いものであるという北田先生自身の問題意識は、バトラー様の問題意識と重なる。
  3. ところでバトラー様の「パフォーマティヴィティ」について、江口とかいう倫理学チンピラがなにかいっているので叩きつぶすしておく。
  4. ちゃんとしたバトラー様の「パフォーマティヴィティ」やそれに関連する問題意識を理解すれば、瀬地山先生が悪人なのが理解できます。

とかそういう感じの話なんだと思うけど、全体も細部もよくわからない。あちこちわからなくすぎてどうしようもない。

しょうがないので、とりあえず怒られてるあたりだけコメント返しておきますが、そもそも日本語がわからないところが多い。たとえば「意弁」とか『日本国語大辞典』にも出てきませんよ。「準拠問題」もどういう問題なのかわかりません。主語や目的語などを省略されるとわかりにくくなります。こういうの困るので今後は推敲おねがいします。

  • 一番問題のバトラー様「パフォーマティビティー」なんですが、これ、北田先生自身が「パフォーマティヴィティ」をどういう意味で使っているのか説明してくれないから何を言ってるのかわからないです。私が「パフォーマティヴィティ」について説明しているまともな論文は国内に1本もない、っていってるのを北田先生はどうも非難しているみたいだけど、だって実際まともに思えるものは存在しないんだからしょうがないじゃないっすか。小宮先生の『実践のなかのジェンダー』にだって「パフォーマティビティ」がなんであるかはっきり書いてある個所ないでしょ? あるならいったいどこにあるんですか。どっかに書いてあるならはっきりページだしてくださいよ。なんでページぐらいつけてくれないんですか。1冊ぜんぶまた確認しろって話ですか?
  • んな言葉の説明も出典の表記もできないのに、他の問題設定だか準拠問題だかに興味もてないのあたりまえじゃないっすか。「パフォーマティヴィティーをちゃんと説明してくれてる論文がない」っていってるのに、先生自身が簡単な説明さえしてくれないっていうのはもういじわるなのかなんなのかわからない。
  • そもそも北田先生、「言葉がなくても達成されるパフォーマティブな行為」とかって書くじゃないっすか。パフォーマティヴな「発話」とか「発話行為」とかならまだ理解できますが、パフォーマティヴな行為ってなんですか。それにパフォーマティブじゃ*ない*行為っていうのもなんですか。それは、(言語行為論での意味で)「行為遂行的な行為」じゃないですよね? だって行為が行為遂行してるのはあたりまえだから馬から落馬したりしてしまう。つまり先生の「パフォーマティブな行為」は、そもそも、言語行為論とかとはまったく無関係ですね?しかしこういうのひどくないっすか?説明してください。無関係なら無関係でいいんですわ。そしてそれが私が10年まえからずっと言ってることだし。無関係なのに関係あるかのようなほのめかしはやめてほしい。
  • 江口が「間接発話行為についてどのように解釈」しているか聞いてみたいってんですがなにを聞いてみたいのかわからないです。「塩とれる?」っていう疑問文で、塩を渡してくれるようお願いしているって話でしょ。「マヨネーズありますか?」っていってマヨネーズもってきてもらうんでしょ。なにが問題なのかしら。サール先生はそれなりにうまく説明してくれてると思う。なにが「苦闘」なのかわからんし、サール先生の枠組みのなかで間接発話行為を説明するのにそれなりに手間がかかるからといって、サール先生の枠組みがだめなわけじゃない。複雑で精妙なことを説明するのに複雑になってしまうのはあたりまえっしょ。それとバトラー様のフォロワーの先生たちのよくわからない説明はぜんぜんちがうはなし。
  • ていうか、「マヨネーズある?」ってのを、サール先生的な言語行為論ではなく、お得意のエスノメソドロジーだかなんだかで説明するとなにがちがうのよ。同じようなことしてるっしょ。
  • ツイッタにもごちゃごちゃ書いたけどもういいや。とにかく「パフォーマティブな行為」っていったいどんな行為かぐらい説明してくれたらどうですか。

(続くかどうかわからない)

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レポートの書き方文章編、というか細かくてわかりにくい話

昆虫亀先生が「2018年度レポートに関するコメント、諸注意」ってブログ記事を書いていて、私もこのタイプのお説教まとめておきたいと思ってるんだけど、なんかごちゃごちゃしてうまく書けない。

とりあえず講義やゼミでいつもお説教していることを書いておきます。何回も同じことくりかえしているのでそろそろつらいし飽きたし。おおざっぱなものは古い「レポートの書き方」を、コピペ・剽窃については「剽窃を避ける」を読んでください。

原則

まず、一番の原則を確認すること。大原則は「読者に親切にする」。レポートや論文でのあらゆる約束事は、想定される読者が読み理解しやすいように、また最小限の苦労で読み理解できるように定められていると思ってください。

さて、レポートは、レポートが学内に落ちてたら、それを拾った人が誰が書いたなんの授業のどういう課題か理解できるように書いてください。当然書くべき科目名とか自分の所属とかだけでなく、どういう課題であるか、どういうテーマであるかを、自分の文章で冒頭で確認してください。すると読者(教員)は、「なるほど、私はこういう課題を出したんだった。わすれておったわい」と思い出せるわけです(実は忘れてることがある)。読者に親切にするっていうのはそういうことです。レポート拾った人も、「なるほど、あの講義ではこういう課題が出されており、社会にはこういう問題があり、そしてこのレポート筆者はこういう勉強をしてこういうことを書いているわけだ……ここで参照されている本は……なるほど、〜先生の『〜』か、この引用されている文章は……なるほど〜頁か!いますぐ見よう」というように、そのレポートから多くの情報を引き出せるわけです。これが読者に親切。

まあそうでなくても、レポートというのは他の仲間の学生(ピア)とかに向けて、情報を与えるつもり書くもので、大学教員のために書くものではない。

課題を確認するには、疑問文を使うとよい。たとえば課題が「日本のフェミニストの不倫に対する態度を検討せよ」であったら、「日本のフェミニストは、不倫関係についてどのような見解をもっているだろうか。ここでは社会学者の〜を例にとって検討してみる」のように書きはじめるとよい。

体裁

  1. 見た目は非常にだいじ。そもそも学生様のレポートの文章は読みにくいもので、教員などの読者はそれをがんばって読むわけですが、体裁とかでさらに読みにくくされてはかなわん。勘弁してください許してください。許してください、読みやすくしてください、苦しめないでください、なんとかおねがいします……許してくれないのですかどうしてもその体裁で私を苦しめるのですか、それならそれでかまいません、こちらにも考えがあります!という感じになってしまうのでおたがいによくない。
  2. 様式・体裁はワープロソフトまかせにしないこと。自分でプリントアウトしたものを見て、読みやすいかどうか確認せよ。
  3. 紙で提出の場合、本文はふつう明朝体にせよ。 Pagesがゴシック体を初期設定にしてたら変更する。
  4. 一般にWordやPagesのデフォルト(初期設定)の体裁は読みにくい。自分で調整すること。文字間や行間はそれで適切か自分で判断すること。とにかくパソコンの言うなりになるのは人類として恥ずかしいことであると思うこと。
  5. 必ずページ番号つけよ。Wordの場合はメニューの「挿入」→「ページ番号」などでフッター中央とかに入れておけばよい。
  6. ヘッダーの部分に自分の名前その他ごちゃごちゃいれる必要はない。1行程度ならともかく、ごちゃごちゃしていると読みにくい。あれは冊子などをつくるときのものだと思うこと。
  7. 段落の最初はちゃんと1文字文字下げすること! ネット記事やブログで最初1文字落としせず、かわりに1行文の空行を入れている文書を読みなれていると思うが、それはディスプレイでの視認性とデザインを優先しているから。大学でのレポートは紙に最初が1文字文だけへこんでいる全体に黒っぽい紙が求められている。現状での大学レポートは、ディスプレイのデザインより、紙での読みやすさを優先することになっている。(逆にいえば、全体に海苔を貼ったようなだいたい黒い紙を出せばそれだけで単位をもらいやすい)

  8. これを参考に。 レポートの体裁(PDF)

文字・表記

  1. 英数文字はいわゆる「半角」でABCabc123と書く。なんでかっていうと、日本語文字は等幅で1文字は1マスにはいって同じ幅なんだけど、英数文字はそれではかっこわるいのでABCabcMi123とその文字ごとに幅を変えて美しくしてるんね。いわゆる「全角」はそうならないのでかっこ悪い。ABCDabc123。まのびしてるっしょ。(他にも単語の折り返しやハイフネーションで問題が起きる)
  2. ○のなかに数字が入ってる文字はかっこわるいと思う人々がいる(私)。見た目もかっこわるいし、そもそも1〜9ぐらいならいいけど、(101)とか(102)とか数が増えたらどうするつもりなんだろうと思ったり。
  3. 「?」のうしろは空白を空けるという約束があるらしいんだけど、よくわからない。
  4. <>は数学記号であって文章でつかう括弧ではない。〈山括弧〉を使う。
  5. 半角の「,」(カンマ、コンマ)と「.」(ピリオド、ドット)の後ろには必ず半角空白を入れる。ちなみに記号の名前と、それぞれの用法を知らないと大卒としては恥ずかしいので http://www.type-labo.jp/Mojinonamae.html を見ておぼえておくこと。

タイトル・見出しまわり

  1. 文書には必ずタイトルがあります。タイトルそのものには「」は必要ない。 タイトル指定されている場合はそれを、指定されていない場合は文書の内容を示すタイトルをつけてください。「応用倫理学第2回課題」とかつまらんので、内容を表すやつに。気のきいたタイトルを勝手につけて減点されることはないでしょう。
  2. タイトルや見出しに説明を頼らない。タイトルや見出しは本文ではない。 見出しとタイトルを消した本文だけですべて理解できるようにすること。(これ説明しにくいんだけど、見出しは目印であって、リストや箇条書きではないっていうのを理解してもらう必要がある。)
  3. 「読んだ本を紹介せよ」という課題であって、あなたが芳賀茂『あなたのその「忘れもの」コレで防げます』をタイトルに入れたとしても、「この本は」から書き始めてはいかん。
  4. タイトルに書名があっても、「忘れ物と言うのは困りものだ。芳賀繁は『あなたのその「忘れもの」コレで防げます』で次のように述べている。」のような形にする。本文でも書名などを必ず明記する。
  5. 「序論」「本論」「結論」という見出しは勘弁してください。もちろんレポートは序論本論結論という順番になっていなければならないが、それは「見出し」ではない。特に「本論」だけは許さん(絶許!)。中身に対応した見出しにする。
  6. 何度も書くが、見出しは目印にすぎない。見出し(目印)が多すぎるのも読みにくい。1ページに1個あれば十分。

文献リスト

  1. 出版物は基本的に出版年だけでOK。月日はいらない。 (新聞やオンライン情報は年月日必要。)
  2. 株式会社岩波書店→岩波書店。「株式会社」はいりません。
  3. 参照文献リストでは、参照した箇所(pp. 74-95)のようなページ表記は基本的にいらない。参照したページは本文中か、脚注で示す。リストは単なるリスト。 参考文献リストにページ表記が必要なのは、雑誌に掲載されている論文。
  4. 見よう見まねでは正しく書けない。必ず手引きを参照すること。どの手引きにしたがえばいいかわからない場合は教員に確認すること。(指定しない教員も悪い)
  5. 「第〜版」(はん)は初版(第1版)以外は必ず必要。第2版、第3版と版が変わるにつれて内容はかなり変化する。
  6. 「第〜刷」(すり)は不要! 「刷」というのは、出版社がその「版」で何回刷ったかをあらわしてるもの。同じ「版」で印刷するので、原則として誤植などの微修正があるだけ。ちなみに「刷」が多い本を出してる著者の人はもうかっていることがわかる。たとえば戸田山和久先生の『論文の教室』は20刷とか軽く越えてて、先生はおそらく出版長者であることが推測できる。

人の呼び方・文献の参照

  1. レポートのなかには数多くの情報や他人の意見が入るので、それらが自明なものでないかぎり、いちいち情報源をつけること。また本文でもその情報源に言及する。「生命倫理学者の霜田求によれば、〜である」のような表現になる。
  2. 文献を参照するときは、その文献の著者がいったい誰で専門はなんなのかはいつも意識しておくこと。カントや安倍首相などの有名人でないかぎり、名前だけ出されても読者はそれが誰であるかわからないので、ごくごく簡単な紹介をつける。
  3. 人の名前は一回目はフルネームで読んでおく。 「尾木直樹は」でもいいのですが、「教育学者の尾木直樹」とか「教育評論家の」ぐらいの説明つけるとさらにグッド。2度めからは「尾木によれば」でOK。ちなみに最近どういうわけか、「作家である百田」「倫理学者である霜田」とか「である」使う文章がめだつが、「の」でいいです。「作家の」「倫理学者の」でいいじゃん。ちなみに、肩書のようなものは「鳥辺野女子大学教授の〜は」より「心理学者の〜は」の方がグッドな場合が多い。大学教員の所属は頻繁に変わるし、所属より専門の方が大事。新聞などでは肩書の方が大事なので鳥辺野女子大教授の〜になることがある。もちろん、「鳥辺野大学教授の倫理学者霜田求は」でいいけど、大学の所属はあんまり重要ではない。
  4. 文献(論文や書籍)は「作り物」ではないので、それを書いた人は「作者」ではなく著者。しかし「著者」と読んでも誰だからわかにくいので、原則的にぜんぶ名前で呼ぶこと。
  5. 著者は〜と述べている」はやめて、「芳賀は〜と言う(出典表記)」「芳賀によれば〜である」にするレポートでは学者が1人だけでなく3人とか10人とか出てくるので、「著者」では誰のことかわからないし、わかるとしても不親切。
  6. 「授業で聞いた」は典拠にならない。その講義で教員が使ったテキスト、資料、論文などを確認する。典拠は教員が授業で提示しているはずだが、曖昧だったら質問する。典拠なしに大学教員がしゃべってることはすべてヨタ話なので、そんなものはなにをするときも根拠にしてはいかん。

引用まわり

  1. 日本語の引用は「」(鍵括弧)でおこなう。”引用”は日本語では使いません(そもそも“ ”と向きを合わせないとならんし。)。二重括弧『』を使うのは本のタイトルだけ、と思ってよい。括弧のなかの括弧も最近は鍵括弧「」でよいことがおおいのでそっち推奨。引用符は引用符で奥が深いのでwikipediaを見よ
  2. 長い引用(おおむね4行以上)は、「」でくくるのではなく字下げして引用だとわかるようにする形で書く。
  3. 学問の世界では、文献(本)のタイトルより、その情報をもたらした人が誰であるかの方が重要な情報なので、名前を優先する。「『日本国記』によれば〜」ではなく、「作家の百田直樹によれば〜」がベター。もちろん「作家の百田直樹の『日本国記』によれば〜である」でもOK。
  4. 誰かがなんか言ってるのを参照したら、基本的にページ番号もつける。読者がその資料・文献のどのページを見たらいいのかすぐにわかるように。基本的に読者のことを考えて読者に親切にする、という原則。
  5. 私はいわゆるAuthor Yearを推奨しているので、(百田 2008, p. 16)のように。
  6. ページ表記に「p」記号を使う場合、pのうしろには必ず.をつけること。p12も12pも12PもP12もどれもだめ。複数ページはp. ではなくpp. 。pp. 5-8 のようになる1)(百田 2008:16)のような書き方もあって、これだとピリオドのことを考える必要なくなるからいずれこれ指定するかな。
  7. なんでも直接引用(「」などでそのまま転載する引用方法)すればよいというものではない。基本的にはレポートでは、他人の主張もパラフレーズ(自分の言葉で書き直す)して出典つけた方がいいと思う。
    1.直接引用(「」でくくってそのまま書く)が必要なのは、(1) 批判する場合(「ほんとにこんなこと言ってるのだ!」の意)あるいは意外な内容の場合、(2) 表現が特殊・印象的な場合(うまい表現だ!)だと考えておくとよい。
  8. (1)の批判する場合は、批判の対象なのでまちがいなくその対象がそう述べていることを明示する必要があるから。勘違いしやすいものだし。「ほんとにこいつはこんなこと言ってるんですよー、信じられないっしょ」ってやる。 (2) 表現が印象的・オリジナルな場合は、その表現がその人のものだと明示するため。 (3) 意外な内容の場合もほんとにその人はそう言ってるんだと明示するため。
  9. ふつうに参考にするだけなら、自分が理解したところを自分の言葉で述べて参照ページを書くのでOK。
  10. 「〜には〜と書いてある」「〜には〜とある」は大学では禁じ手だとおもってもよい。 書いてあるんじゃなくて誰かが書いたのです。 それを書いたのが誰か、っていうのが大事なのです。
  11. 辞書や法文や中高での教科書や資料集などは、誰が書いているかは重要ではないので「〜には〜とある」は許されるが、大学で使う文献は誰が書いているかがまさに重要。
  12. 高橋祥吾先生の「引用の作法について」も見てください。

注について

  1. わざわざ手で「※」記号などを使って注をつけるひとがいるけど、WordやPagesのアプリの脚注・後注機能使ってください。便利なものですわ。Wordの場合は、メニューバーの「挿入 → 脚注」とか。
  2. 掲載媒体にもよるところもあるけど、基本的には文献参照や注は、「。」の前に記号をつける。「。」のうしろだとどこについているかわからない。
  3. 語句に対する注は必ずその直後。どういうわけか低学年だと前につける人がいるけどぜったいに許さない(いわゆる「絶許」)。
  4. 語句の説明を注でやってはいかん。本文で説明するべし。

箇条書き

  1. 箇条書きは便利だが、地の文(箇条書きでも引用でもない、自分の文章)での説明なしに使ってはいかん。「〜。この点について要約すると、次のようになる」など、「箇条書きにするぞ!」と宣言してから使う。
  2. ワープロソフトが適当にやってくれるかもしれんが、「インデント(字下げ)」や「ぶら下げ」という概念を理解しておくこと。

文章

  1. 自分自身のことも「筆者は」とか書かないで「私は」。「筆者」は自分自身を指しているのか、言及している文献の筆者(著者)を指しているかわかりにくいことがある。
  2. 体言止めは徹底的に避けよ。 体言止めつかうのは文章書くのに慣れてから。
  3. 前の文章にある語句でも、「これ」「それ」はわかりにくいことがあるので注意する。「その体験」「この主張」のように名詞を加えるとわかりやすくなることがある。
  4. 「〜と書いてある」「〜とある」はかっこわるいので避ける。「〜は〜と主張している」の形にすべし。
  5. 接続詞は積極的に使う。というより、原則的にはすべての文章の先頭には接続詞がついている、ぐらいのつもりで書いてよい。もちろんそれではかっこわるいが、その文が、それ以前の文章や段落とどうつながっているのかを明示する。主語は省いてかまわないとか接続詞はない方が軽快な文章になるとかそういう文章指南もあるが、ああいうのはエッセイや文学作品や軽い雑誌記事などを書くときの作法。
  6. 文章は短く。ふつうの大学生は4行以上になる文章を書くと文がねじれる。そうなってしまったら切って接続詞でつなぐ。
  7. 「冬、雪が多く日照量が少ない山形県で育った私は」のような名詞や代名詞の前にごちゃごちゃ形容句がついてる文章は読みにくいしねじれた文章の原因になる。「私は山形県で育った。山形県は冬には雪が多く晴れの日が少ない。だから私は〜」と「形容句 + 名詞」を名詞を主語にした文にするとよい。
  8. 「私は〜思った」「私は〜と考える」はあってもいいのではなるべく削りたい。「私が一番興味深いと思ったのは」もNGではないが、「もっとも興味深い点は〜だ」でOK。こっちの方が大人っぽい。「私は〜は思う」→「〜だろう」「〜かもしれない」「〜のようだ」とかいろいろ、「私は〜思う」以外の表現はある。特に、「私は〜と考えた」「〜と思った」「〜と感じた」と過去形にすると、大学レポートとしては非常に子どもっぽい印象を受けることがあるので特に注意。

References[ + ]

1. (百田 2008:16)のような書き方もあって、これだとピリオドのことを考える必要なくなるからいずれこれ指定するかな。

レポート課題を課す時期について

講義とかの最終レポートは、講義最終回終ってからゆっくり書いてほしい、などと思っていたものですが、いまそういうのはあきらめました。

フィードバックしないレポートは出すべきじゃないと思うようになって、最終回以降に出して採点して返却するってことにしてどっか置いといても、それ取りに来ない学生様が多くてつらいし。

今期やってる講義A(3回生、中規模)では、(1) 講義数回やったところで、主に体裁(段落の最初は1文字下げろ!へんな空行入れるな!)とかやるごく短くてあんまり調査必要ない課題、(2)正月あけ提出で、ある程度調査してほしい長めの課題、ということにして、それ急いで採点して最終回で返す予定。体裁や文献とかちゃんとできない学生様には (3) 同じ課題での再提出を命じる予定。とにかく体裁ができてないと読もうとするとストレスがかかるので、それができるまでがたいへん。体裁がちゃんとすれば添削してみようという気にもなる。3回生なので情報ソースの示し方とかきちっと教えたい。

講義B(全学部・全回生、大規模)は同じように(1) 体裁の確認のショートレポート、(2) それなりの長さのを年末に出させて正月空けに返却。さらにできてない学生とボーナス加点が欲しいひとのために (3) 1月末締切で電子的に提出。これはわりと自由にやってもらうつもりで「〜という条件のエッセーを書け」みたいな感じですね。エッセーって何かとかそういうのも授業内でモンテーニュ先生までさかのぼってやってる。

講義Cは複数教員によるオムニバス授業(全回生、全学部、大規模)で、これは3回短い講義ノートみたいなの出してもらって体裁とかちゃんとできるようになったところで、レポートの書き方について時間かけてお説教してから、全講義終ってから長めのレポートを電子的に提出、と。これはあんまり厳しく採点しないけどどれも授業用ポータルサイトなるもので電子的にフィードバックって形にしてます。

まあできてない学生はできるまでやってもらう、っていうのが必要ですよね。いきなり単位落とすっていうのも問題になりそうな今の時代、これくらいなら文句はつかないだろうと思うのです。でもこれってやりすぎで、すごく時間かかってしまってどうしたもんですかね。

若い女子はルソー先生や秋元康先生ではなくウルストンクラフト先生の言うことを聞いたほうがいいかもしれない

私の考えているセックスの哲学史では、あのふつうは偉大だとされているルソー先生はスケベなレイプ魔みたいな人なんですが、それはその次の世代の女性にははっきりわかっていたんですよね。

そのわかってた人、メアリ・ウルストンクラフト先生についてはこのブログでほとんど何も書いてないみたいで驚きました。関連する授業ではけっこう大きく扱ってるし。っていうか女性思想家が表舞台に出てくるのはこの先生からぐらいですよね。

ルソーは次のように言明する。女性は、瞬時といえども、自分は独立していると感じてはならないと。そして、女性は、生まれつき持っているずるさを発揮するためには恐怖によって支配されるべきであり、自分を欲望の一層魅惑的な対象にするために、すなわち、男性がくつろぎたいと思う時にはいつでも彼のもっとも優しいお相手になれるように、コケティッシュな奴隷にならねばならないと。彼は更に議論を進め──自然の命ずるところに従ったふりをして──次のことをほのめかす。誠実と不屈の精神は、すべての人間的美徳の基礎であるが、女性の性格については、服従を厳しく叩きこむことが大事な教育なのだから、誠実や不屈の精神はほどほどに教えるべきだと。

これに対応するルソー先生の著作はもちろん『エミール』。

女性の教育はすべて男性に関連させて考えられなければならない。男性の気にいり、役に立ち、男性から愛され、尊敬され、男性が幼ないときは育て、大きくなれば世話をやき、助言をあたえ、なぐさめ、生活を楽しく快いものにしてやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であり、女性に子供のころから教えなければならないことだ。(『エミール』)

かっこいいっすね。ウルストン先生はこれを思いっきり張り倒します。

何と馬鹿げたこと! 男性の高慢と好色のために、この問題の上には、こんなにもひどく煙が立ち込めてしまった。これを吹き払うに足りる程の知力を持った偉大な男性が、いつの日にか出現するであろうか! たとえ、女性には生まれつき男性には及ばない点があるとしても、彼女たちの美徳は、程度においてはともあれ、質においては男性と同じでなければならないのだ。(pp. 55-56)

この「男性の高慢と好色のために」がいいっすね。ウルストンクラフト先生『高慢と好色』ってフェミニスト小説書けたかもしれませんね。原文はどうなってるんだろう。

What nonsense! When will a great man arise with sufficient strength of mind to puff away the fumes which pride and sensuality have thus spread over the subject!

いかにもエッチな感じ

こうですか。「ナンセンス!」。まあルソー先生の好色と高慢を見抜いているのはさすがです。

このあと、とにかく人間の「美徳」っていうのは強弱の違いはあってもどの美徳も男女ともに求められるものなのだから、男女同じように教育するべきだ、というまったく正しい主張を先生はなさっておられます。

でもこの時代、「でもやっぱり女の子って恋愛に興味あるっしょ?サインコサインより目の大きさ、アインシュタインよりディアナアグロン」っていう人はいたわけですわね。それに対して先生はこう言うわけです。

恋愛に重きを置かずに論を進めるのは、情操や繊細な感情に対して大逆罪を犯すものであることは承知している。だが私は、真理の持っている単純な言葉を語りたいし、心よりもむしろ、理性に話しかけたい。この世から恋愛をなくそうと説得に務めることは、セルヴァンテスのドン・キホーテを追い出すことであり、ドン・キホーテと同じように常識に背くことを行うことになろう。しかし乱れ騒ぐ情欲(パッション)を抑えようとする努力は、そしてまた、次元の高い能力を下位に置いてはならぬことを証明しようとする努力は、あるいは、知性が常に冷静に保持すべき大権を奪い取ることは許されないことを証明しようとする努力は、それ程暴論とは思えない。

そりゃ恋愛とか性欲とかは強いもので、そういう感情や欲求を抑えるってのはむずかしいけど、パッションばっかじゃだめですよ、と。ここらへん啓蒙時代を感じますね。恋心やエッチな好奇心にふりまわされてはいけません。

青春は、男性にとっても女性にとっても、恋愛の季節である。けれども、思慮に欠けるこうした享楽の時代においても、人生のもっと重要な時代——その時には、熟慮が興奮に代って登場する——のために、準備がなされなければならないのだ。それなのに、ルソーや彼を見習った大抵の男性著述家たちは、女子教育の趣旨はひたすら一つの点——男性を喜ばせる女になること——に向けられるべきである、と熱心に説いてきた。

人生って、現代の女性にとっては80年以上あるけど、恋愛とかに頭いかれてる時期っていうのはそれほど長くないはずだ、青春とかってのよりもっと大事な時期、もっと大きなことをなしとげる時期があるので、教育っていうのは若いときの恋愛とか就活を目指したものではなく、もっと先の(仕事も仕事以外のも)キャリアを考えた教育をしなければならない、というわけですな。まったくお説もっとも。

このような意見の支持者で、人間性について何らかの知識を持っているような人と議論しよう。彼らは、結婚は生活習慣を根こそぎ変えうるものである、と想像するのであろうか?ただ男性を喜ばせることだけを教えられてきた女性は、彼女の魅力が落日の夕日の如く沈むことを、いずれ知るであろう。夫と毎日鼻を突き合わせてばかりいる時には、また女盛りが過ぎ去った時には、自分の魅力が夫の心をあまりつかむことができなくなるということを、やがて知るだろう。その時になって女性は、他人に頼らず自分で楽しみを見出していくために十分な、また自分の潜在能力を磨くためにも十分な、本来のエネルギーを持てるであろうか?持てないとなると、別の男性を喜ばせようと試みると考える方が、もっと合理的ではないであろうか?そして新しい愛を獲得する期待から生まれた感情の中で、彼女の愛や自尊心が受けた屈辱を忘れようと考える方が、もっと合理的ではないであろうか? 夫が自分を愛してくれる人ではなくなった時——その時は必ずや来るであろう——には、彼を喜ばせたいという彼女の願いは暗礁に乗り上げるか、あるいは、悲嘆の源となるであろう。そして恋愛、恐らく、あらゆる情熱(パッション)のうちで最も移ろいやすい愛は、嫉妬や空しさに席を譲るのである。

ここがいいんですよね。誰かを喜ばせることだけを教えられた人は、その誰かあんまり喜ばなくなってしまったら、しょうがないから別の誰かを喜ばせようとするだろう。これは行動分析学とかで言う「強化」の原理ですね。誰かに喜んでもらのはよいことであり楽しいことであり満足いくことですから、喜ばせましょう。ただ、美貌やエッチな能力だけで他人を喜ばせつづけるのはかなり難しいので、いろいろ工夫も必要でしょうな1)ルソー先生も嫁は美人でない方がいい、って言ってるし。。それに次々に相手を変えて喜ばせていく、というのもありかもしれんし。少し前にうしじまいい肉先生が、「私はいつも上の世代と遊んでいるから、50才になったら老人ホームの70才の男性を喜ばすつもりだ」(大意)というのを書いていて、これはこれですばらしいと思いました。ただちょっと出典見つからんな。

私は今、何かの信念、もしくは偏見によって抑制された女性について語る。このような女性は不義密通というようなことは大嫌いであろうが、それにもかかわらず、彼女たちだって夫からひどく冷淡にあしらわれているのがはっきりした時には、他の男性からちやほやされることを望むのだ。そうでなければ、夫と意気投合した魂が享受した過ぎし日の幸福を夢見ながら、毎日、毎週を過ごし、ついには、彼女たちの健康は蝕まれ、精神は不満のために傷つくのだ。そうだとすると、男性を喜ばせるという大変な技術を学ぶことは、そんなに必要な学習でありえようか?それは、ただ情婦にとって役に立つだけである。清純な妻や、真面目な母は、人を喜ばせる能力は彼女の美徳を磨くことによってのみ生まれる、と考えるべきであり、夫の愛情を、彼女の仕事を容易にし彼女の人生をより幸福なものにするための励ましの一つとしてだけ考えるべきである。——しかも、愛されていようが無視されていようが、彼女の第一の望みは、自分自身を尊敬に値するものに成長させることであって、幸福のすべてを、彼女と同じように弱さを持っている人に賭けてはならない。(pp.58-60)

てな感じですばらしいっす。

まあこの時代、女性向け小説とかすごく流行ってたんですわ。ルソー先生だって『新エロイーズ』っていう当時のベストセラーもってたし。これは身分の差恋愛ありの不倫よろめきかけありの小説ですね。(岩波の古い訳がありますが普通の人は読んでもおもしろくないと思う)

ウルストンクラフト先生は、小説とかエッチなことや人間の感情みたいなのしか書いてないから読書としてはあんまりよくない(だめだとは言わないが)、だから哲学書(ここでの哲学は学問全部、物理学とかも含む)と歴史書を読め、みたいなことを言ってます。

ていうわけで、ディアナアグロンじゃなくてアインシュタインしますか2)でもこういうのもこれはこれでどうだろう。https://lite-ra.com/2016/04/post-2157.html 。まあそうもいかんですかねえ。


これ書いてみたいのは、最近中公新書の『マリー・アントワネット』を読んで、ウルストンクラフト先生が指摘している女子教育の問題というというのはまさにマリアンさんたちの問題だったのだな、と気づいたから。人を喜ばせることを学び、それが自分にできるなら、人を喜ばせたいっていうのは当然の欲求な気がします。そしてそれしかできなかったら、なんとかして喜ぶ人を見つけたい。世界で一番喜ばせがいがあるはずの王様が喜んでくれなかったら、貴族仲間喜ばせたいだろうし、国民も喜ばせたいだろう。もし自分がいるだけで喜んでくれるなら、フェルセンも喜ばせたいですよね。ウル先生はマリアンさんのこととかある程度知ってたろうしね。それはまわりにある問題だった。まあウル先生はそうとうキレてる人だったのであれだったですが。そういうの考えつつ読むとおもしろいです。


References[ + ]

1. ルソー先生も嫁は美人でない方がいい、って言ってるし。
2. でもこういうのもこれはこれでどうだろう。https://lite-ra.com/2016/04/post-2157.html