『アナと雪の女王』についての私の感想は最高じゃないだろう

やっと気になっていたディズニーの『アナと雪の女王』を見ました。卒論でディズニー(とジェンダー)を扱いたい、という学生様は数年に一人ぐらいはいるので、そのたびに自分でも鑑賞とかしなきゃならんのですわ。『アナ雪』、とてもよかったですね。筋はまあディズニーだけど、なにより音楽とアニメーションがよかった。

歌と音楽はアメリカの伝統的なショー音楽にのっとったもので非常に高品質なもので驚きました。特にオラフやクリストフたちが歌うやつがよいし、エルサとアナが言い争うとこのやつもよい。トロールたちのもよい。ケチつけるところがまったくないですね。あえて言えばアナのメインソングがない(どうもミュージカル舞台版では「True Love」という筋書き的にも重要な曲があるみたいだけど)。

アニメーションの方はさらに高品質なもので、一瞬たりとも無駄にしない!っていう強い意思を感じさせますね。細かいクスグリというか、とにかく動きつづけていて筋が退屈でも目は退屈しません。

さて、ディズニーに関しては若桑みどり先生の『お姫様とジェンダー』という本が有名で、まあその手の話をするときの基本書ですね。この本については前々からちょっと不満がある。

あとアナ雪に関しては、北村紗衣先生の『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』っていう本に収められた批評が有名ですね。

批評家としての北村先生の名前をはじめて意識したのはそのエッセイのオンライン版でした。まあディズニー(あるいは映画)とジェンダーっていう問題群みたいなのはずっと意識せざるをえなかったときに読んだので強い印象があります。いくつかバージョンがあるようですが、とりあえずこれです。

https://note.com/kankanbou_e/n/n02472f8a3ea9

>別に人間嫌いなのは悪いことではないですし、そういう人を無理矢理コミュニティに組み込もうとするのは余計なお世話です。エルサが山でこういう個性的な芸術作品を日々洗練させながら、雪だるまを相手にひとりで世間を呪って暮らしていってもいいんじゃないかと思います。

この一文がすばらしかったですね。こういう発想ができるというのはすばらしい、でもなんか変でもある。

まあ私が見るところでは、『アナ雪』はそんなにフェミニストっぽくもなければクィアでもないように見えました。

アナさんの方はこれはもうほぼ伝統的なロマンチックラブ(?)志向ですよね。ちょっとだけディズニー伝統的でない工夫はされてます。ハンスは王子様だけどあとで悪人であるであることが判明します。クリストフは王子様ではなくただの氷配達人であり、お金ももっていないしたいした力もない。でも勇気と愛はある。そういうのと最終的にはくっついてますね。キスするときもクリストフは性的同意をとりつけてます。そういうのはまあちょっとフェミっぽいかもしれないけど、21世紀の感覚としてはごく保守的なものですね。

主人公は私にとってはとりあえずは陽気なアナの方で、エルサの方は超能力をもち苦しむ姉。
エルサさんが「クィア」かっていうとまあたしかにラメ入りまくりのドレスとか派手ですが、そういう趣味の人でしょうし、男子にそんなに興味がないってのもまあ女王様だしふつうかなあ。王女や女王にとっては王子様っていうのはただの政治のための結婚相手で、恋愛の対象じゃない気がしますし、そんなの最初からあきらめてそう。

エルサさんが女王様として男子にたいして関心がないのはよいとして、ショックだったのは、エルサさんは妹のアナの男性関係にまで否定的だったところですね。アナが素敵な相手見つけて結婚するっていってんのに「会ったばかりなのに?」とかそういうので結婚を許さず(少なくとも祝福せず)、さらにはパーティーを終らせてしまう。なんというかこういうのは、女性のセックスと生殖の管理、みたいな「家長制」を連想させちゃいますよね。王様だろうが女王様だろうが、とにかく配下の者のセックスと生殖を管理することが許されているし、おそらくそれは責務でさえあるんでしょうな。エルサがアナと(新しい彼氏の)クリストフさんの関係を認めたかどうかもよくわからない。実は認めてないのではないか。

ところで、北村先生はこの映画が「自由」についてのものだ、っていう前提に立つみたいです。

『アナと雪の女王』は一見、自由を訴える作品に見えます。しかしながら、この作品が提示している「自由」は非常に限定されたものではないか、というのが私の考えです。

まあこれ自体には同意しますね。でもそもそも私にはこの作品は自由の価値を訴えかけているもには最初から見えなかった。最初から姫二人は自由ではなく(だってお姫様だし)、普通の人々とは会えず子供あらしい遊びもなにもできず(だからお城のなかで氷の魔法で遊ぶ)、子供のころの例の事件からは扉を鎖して姉妹でさえ遊ぶことができない。エルサは成年して戴冠して女王として役目を果たそうとするけど魔力をコントールできずにまともな女王としてふるまうことができない。

結局ぶちぎれて「ありのまんま/なげだしましょう!」ってなことで氷の城にひきこもる。なにも自由になってないですよね。むしろこの作品は、自由ではなく不自由についてのものだと思われます。そして、その不自由を解決するのは「愛」です、ってことになる。あれほど「愛の専門家」の話をして、それがトロールたちである、本当の愛っていうのは男女の性愛ではなく家族愛だ、っててな話が筋じゃないですか。そして愛とは相手を思いやること、相手のために犠牲を払うことだ、っていう結論。自由の話じゃなくて愛と家族としがらみの話の作品ですよ。自由より愛=自己犠牲が優先するべきだ、っていう強いメッセージがあって、まあこれはディズニーらしい。たしかにディズニーは自由なんてものはたいして重視してない。

そういう観点からすると、先の私にショックを与えたことの文章がショックだった理由がわかる。

別に人間嫌いなのは悪いことではないですし、そういう人を無理矢理コミュニティに組み込もうとするのは余計なお世話です。エルサが山でこういう個性的な芸術作品を日々洗練させながら、雪だるまを相手にひとりで世間を呪って暮らしていってもいいんじゃないかと思います。

たしかに人間嫌いなのは悪いことではない。でも人間嫌いな人々っていうのは、いろいろいやな目にあったりして嫌いになってしまっていて、「本当は」、単に他の人の邪魔にならないだけでなく、他の人々となんらかのかたちでかかわりたい、誰かの役に立ちたい、って思ってるもんだと思うんです。多くの人嫌いな人はなんらかの理由で他人とうまくいかない、他人を傷つけてしまう、そういう思いから「人間嫌い」になってしまうんだと思うんですよね。そういう点からすると、エルサに感情移入する人がけっこういるだろうってことはわかる。

でも、エルサがどんな高級な芸術家であろうが、氷の城その他の誰も見ない芸術作品を一人でつくりつづけて、自分が作った雪だるま相手に世間を呪って暮らす、というのはエルサ自身が望むことでもないだろうし、ほとんどの芸術家が望むことでもないと思うんですわ。私が思うには、芸術作品というのは基本的につねに鑑賞者や聴衆に開かれているもので、誰か鑑賞してくれる人を常に求めてると思うんです。作品を作り続けながら、それが鑑賞されることをまったく望まない、っていう制作態度っていうのが私には理解しにくい。音楽練習したら誰かに本番を聞いてほしいものだし(少なくともアンサンブルという形で誰かと交流したい)、美術作品作ったりイラスト描いたら誰かにそれを見てほしい、論文やエッセイ書いたら誰かに読んでほしい、そういうものなんじゃないでしょうか。

エルサが雪だるま相手に芸術作品作りつつ世間を呪って暮らすのはよくない。エルサは女王であることに価値を見ていて、女王というのはやはり民草のことを配慮するのが正しい女王だし、権力と権威をもち、税金もらうためにも民草から尊敬され、愛され、それが無理なら恐れられなければならない。氷の城の建築に夢中になって国中が厳しい冬になって国民が凍えそうになっていることにも気づかないってんだから、女王失格です。芸術家生活したいのなら、さっさと愛されキャラのアナにでも譲位するべきだ。女王様がひきこもって国民をほっといて芸術活動をする、なんて選択肢はないのです。

それはそういう不幸な存在についての芸術作品にはなるかもしれないが(むしろかっこいい、作曲家のワーグナーさんも呼びよせて専用の氷の劇場も作りましょう)、少なくともディズニー映画のように、お金と時間をかけて作りあげるポピュラリティを目指す作品にはなりようがない。

北村先生は、そうした不幸な芸術家についての道徳的な評価(不幸な芸術家が孤独に作品続けることにはなんらかの価値があるだろう)と、作品についての美的な評価(それが楽しい作品か、あるいは芸術的・文学的・哲学的な意義のある作品か)というのを混同しているように見えるんですね(実際にはそうじゃないと思うんですが)。

しかしまあ芸術作品あるいは大衆芸術にはいろんな「ジャンル」があり、そのジャンルにあった鑑賞態度っていうのは必要なんじゃないかと思うのです。ディズニーアニメみたいなものは子供を中心に多くの人に楽しんでもらうという大前提があり、特にミュージカル的な形式をもったものは歌に時間とられるからあまり複雑な内容をこめることはできない。みんなそうした前提の上で作品を楽しもうとすると思うんですよね。そこで音楽やアニメの品質を批評するとかっていう活動には意味が出てくるわけですが、映画を見てプロットや背景にある理念のような骨の部分だけしか扱わないと、おいしい肉の部分のおいしさがわからなくなってしまうんじゃないかという危惧があります。

若桑先生の『ジェンダーとお姫様』にもそういうところがあって、鴬谷花先生の『姫とホモソーシャル』っていう本を見ていたら、冒頭でディズニーの白雪姫はけっこうタフで、苦境で歌いだしたり七人の小人と交渉したりこきつかったりしてるし、シンデレラもこっそり大量の手作り服を作ったりして主体的な女子だ、みたいな話があり、そうそう、そういう細かいところまで見るのがおもしろいよな、とか思いました。よくできた作品はそんなに単純ではない。

まあよくできた映画とかそういうのについて、「あそこがよい/ここがだめ」「あなたの批評のここがよい/よくわからない」ってやっていくのはおもしろいことなので、ぜひそうした批評が盛んになるといいですね。

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