私的SNSリテラシー(ver. 0.1)

Dropbox Paperでだらだら書いてたものだけど、おわらないからもうこっちに載せちゃう。最近山口真一先生の『炎上とクチコミの経済学』っていうグッドな本を読んで、また別に書きたいこともでてくるかもしれないし。とりあえずこんな駄文読んでるより山口先生読みましょう。


だらだら。SNSリテラシー、というかツイッターリテラシー。何に気をつけてるかなあ。以下はけっして「うまくいく方法」ではない。うまいくいかない。

話のネタを見てもすぐに「コミット」しない。

ニュースなどを見て、そのときに感じたことを書くのは問題がないが、すぐに誰かを非難するのは避けたい。なにかを人前で書くことは「コミット」することになる。コミット・コミットメントってなんか難しいけど、自己束縛ね。人前で自分の立場を表明してしまうと、いわゆる「首尾一貫性バイアス」ってのが働いて、すでに採用し表明した自分の立場を守りたくなってしまう。また自分にまちがいがあったことがわかってもそれをなんらかの形でごまかしたくなる。ごまかせない場合は無視してなかったことにしたい。この欲求はものすごく強くて、私自身はそれに抵抗できるかどうかぜんぜん自信ないですね。

それに、どうしてもコミットしなければならないと感じることも多い。たとえば暴力反対、性暴力反対、戦争反対、差別反対。こういうのは当然のことだけど、SNSで話がまわってきた最初のうちは事実関係もはっきりしなかったり、一部の人々が勝手な推測を広めていたりする。そうした情報にもとづいて自分をコミットしてしまうと、あとはひどいことになるんじゃないかと思うわけです。事実関係がはっきりするまでは我慢して「へー」「もし〜ならひどいなあ」ぐらいにしておけばすぐにおかしなっことになるのは避けられる。特に誰かを非難するっていうのは重大なことなので、我慢のしどころ。でも私誘惑に弱いから。ははは。

チャルディーニ先生の『影響力の武器』(万人が必読)っていう本のなかに、中国共産党が朝鮮戦争で捕まえた米兵に、資本主義を批判する文章だか、共産主義を擁護する文章だかを筆写しろ、っていう作業をやらせたらしいんですわ。すると、それやらされた米兵は共産主義に共感的になってしまう。まあ写経ってそういうところありますよね。わからないなりに一回自分の手で書いてしまうとそれにコミットしてしまう。リツイートなんかもそうかもしれない。

ツイッタその他で、個人が一方的に「誰それにこんなひどいことされました、言われました」みたいなのは特に用心が必要ですね。聞きまちがい、勘違い、その他人間はいろいろ間違うものです。悪意があればなおさら。ついでに、そうした一方的な断言にすぐにのっかる人はそれなりのマークをつけておいて、「このひとはこういうときにすぐにコミットするひとなのだな」ぐらい記憶しておきたいです。用心深いひとは、「もし〜が本当だとしたら〜はひどい奴だ」みたいな書きかたをしますが、これでもけっこう危険な兆候ではないかと思ってます。こういう書き方は用心はしているものの、特に、敵対的な人々、あるいは親しみのない人々、「エキゾチック」な人々に対してよく使われているような気がする。まあでも避けようもないんですけどね。

すぐに一般化した判断を書いてしまうのを避ける。

誰か個人を攻撃すると、個人攻撃であると読まれるのがいやだったりするので、もっと広い範囲を非難してしまいたくなる。「社会が悪い」とか。でもそれって、根拠がしっかりしてなければだいたい「性急な一般化」の誤謬推理になるし、もともとの情報がただしくなかったら完全に偏見になってしまう。

ニュース記事、特に第一報には用心する。

新聞その他のニュース記事を書いている人も我々と同じ人間で、ツイッターを見ていれば人間というのがどれくらい間違いやすいものであるか、自分勝手なものであるかわかるわけで、ニュース記者がツイッターユーザー以上に優れた判断力をもっていると想定する理由はなにもないわけです。もちろんちゃんと取材している記事には貴重なものですが、そうでない記事もたくさんあるのはみなよく知ってるところ。

一気にリツイートが増えるタイプのは人々の感情に訴えかけるものが多いので特に用心する。

「わー」ってひろがるのは、われわれの感情に訴えかけるから話題になるわけですよね。特に正義や平等にかかわるやつは我々の義憤を促す。でも義憤っていうのはこれは生の怒りとはまたちがうものでまちがいやすいものだと思う。

有力な発言者はいちおう傾向を見ておく。「半年ROMれ」ってやつだねえ。

まあ有力な人びとはそれぞれそれなりの癖と傾向があるから有名なのでね。

他の人々、特に集団が怠惰だとか無能だとか(十分な根拠がなければ)想定しない。

これはけっこう気になるやつで、ある種の人びとはすぐに「〜は無能」「おかしい」とかって判断をしちゃうけど、私は公の組織がそれほど狂ってる場合というのは特にワンマンだったりおかしなトップもってないかぎりはそれほど多くないと思ってる。報道や論説の方がなにかおかしい場合も疑わないとならないような。もっともおかしな組織や集団はたしかにあるんだけど。

これは個人的にいくつか印象深いのがあって、「〜省の判断はまちがってる」「〜省はなんでそういう判断するんですかね」「官僚が馬鹿だからだ!」みたいな会話を何回かして(文科省だけではない)、それじゃやっぱりうまい説明じゃないなあ、みたいなことがあって、そういう人々とは距離を置くようになってしまいました。

社会というか人の集団は単純ではない。意思決定がどういうふうにおこなわれてるか本人たちでさえわからないことが多い。

まともな人びとがあつまってると想定できるのに集団がおかしなことをしている場合には、やはりなぜそうなったのかを考えたい、というか知りたい。全員が無能で邪悪だから、ではなくなにか構造的な問題があるのだろうと思うようにしている。

基本的には、長く観察した人でなければ反応しないのが吉。なぜ誰だかわからないひとと交流しようとするのだろう?

まあ私が相手が誰だかわからないと会話する気にはなれないです。もちろんネットになんか書いてる以上、質問されたら答えなきゃならないことは多いけど、知らない人にこっちから接近するってのはあんまりないなあ。

その論者が具体例やデータを出す用意があるのかどうかには特に注意する。

なんか報道されたことについて、単純な原則みたいなのを披露するのは簡単なのよね。それぞれの問題の難しい点、特徴、報道されてない側面、なんかのデータや新奇な発想をもってるのかどうか。そうしたものをもってないのに大声で叫ぶ人、他人を非難するひとはそういう人である。

フォロワー多いひとは有名人なので、少ない人間がお相手する必要はない。

お相手っていうか、なにかお話してみたくなっても、有名人のひとからしたら我々なんか見分けつかないようなもんだしねえ。同じ意見はすでにたくさん寄せられているだろう。

タイムライン見てリツイートだらけの人は無視してよい。

まあリツイート多い人々はなにか政治的な運動を目指していたり、人々をディスることが主目的だったりするわけで、そういうのも目指さない人にはあんまり関係がない。ちょうど「悪口は自分で書くべきだ」っていう意見を目にしたけど、私もそう思う。悪口こそ自分で書きたい。おもしろいから。それにドキドキするし。ははは。緊張感がない悪口はつまらん。まあ良いことにしても悪いことにしても、リツイートするだけで自分のコメント書けない人はチキンである。そして我々は1日にそんなに多くのことを判断できるわけではない。

シングルイシューの人は避ける。

SNSのおもしろさというのは、やはり人々の私的な生活の多面性を見るところにあると思うんですわ。「ああいうことを言う人がこっちではこういうことを感じるのかー、なるほど人生は難しい」みたいな。でも一つの問題だけをとりあつかっている人々はそういう人間の深みを見せてくれることは少ない。それならもっと非パーソナルなメディアの方で見学する方が向いているかもしれない。

全体的なポジティブ/ネガティブな傾向はやはり大事。ネガティブなのは必ずしもわるいことではないけど、やはりそっち向きに歪んでることが多いように思う。まあポジティブなのも歪んでるんだけど有害さは比較的ましか。

ネガティブな気質の人々は、社会その他の問題を発見したり、それを修正方法を考えたりする力があって大事だと思うんですよね。でも毎日毎日ずーっと他人のアラを探している人々はやはり不幸だろうと思う。もちろん、抑圧されたり差別されたり、不幸な状況に置かれているからネガティブになってしまうっていうのもありなので、全体にネガティブだから嫌うっていうのはおかしいことだとは思うです。でもその苦しみみたいなのにずーっとつきあうのも体力や健康が必要よね。みんなができることではないかもしれない。少なくともそれにつきあうことで、利得があるとか、自分もなにか大きなことに参加できるとか、そういう意識がないとつらい人々とずっといっしょにいることはできない。

ポジ/ネガの他に、ネタのあつかいが主体的/反応的っていう分類もあって、反応的なのはだいまちがってしまう。なんかネタが外部にある。

ネタというか、テーマや話題について、それ自体に興味があるというよりも、他の人を攻撃する道具として反応している人々がいるように思う。私が優れていると思っている人々は、たいてい、新しいテーマや話題を提供する力がある人々で、そのテーマはみなが見てない資料や書籍、論文、あるいは自分の本当の体験なんかからとってきている。

健康にわるい人々はとにかくミュート。人間はたくさんいます。

いずれどっかで見ることになるのだから、毎日フォローしている必要はない。

アイコンはけっこうな手掛かりになります。アイコンを見てストレス感じるようになったら、ためらわずミュート。

アイコンがいやな感じになるのは、もともとも趣味があわない人のときと、その人の発言見てるうちに連想が働いて嫌いになる場合があるように思う。アイコン見て「いやだな」って思ったらまあもう見ないのがいいと思う。ふつうは見慣れて単純接触効果とかで好きになるものなわけで。

ツイッタ検索はデフォルトではいろんな癖があるので注意。検索しないのが吉、だけどそうもいかんわよね。

web版や公式アプリでは注目浴びたものを選択しているみたいで、拾い落しも多い。

まあやっぱり傾向まで記憶して見物できるのは200人ぐらいまでだと思う。

そんなにたくさんの人に関心をもつことはできないし、共感的な読みや善意の読みをすることができるのはやはり関心もってる人だけだろうと思う。

前にも書いたけど、私の感じでは、興味ある人は最初50点ぐらいに評価しておいて、長く見てるうちに次第にプラスマイナスしていく感じ。まあここに自分の好みが反映されるわけだけど、それはそれでOK。

頭のなかでこうい評価の上下やってるから、あんまり多くの人はフォローできないのよね。

あきらかな言い掛かりや大きな誤解みたいなをして訂正もしないのを何回も目撃したらすぐに評価がさがっていく。

やっぱり失敗したときにどうするかってので人間の価値はわかる。

まちがった発言をしてしまったときの対応はいつも考えておきたい。我々は非常によくまちがうし不道徳なことをするので、それがバレたときの対処が大事。「すみませんすみません」ぐらいで逃げてしまうのがいいと思うけど、そのさい何がまちがったのか、なぜまちがったのか書いた方がよさそう 。

これほんとうにむずかしい。私も頻繁に誤解・誤読にもとづく違和感や非難の表明や、おかしな知識や古い知識の披露なんかしてしまうんだけど、修正するのはとても心理的負担が大きいのよね。負担を感じずに修正する決まり文句みたいなのが必要かもしれないと思ってる。

リツイートは非表示に。

そんな沢山の人々の意見を見る必要はない。私はあらかた「リツイートは非表示」にして、数人の特に興味ある人々だけ表示するようにしてるです。

ツイッタにいる人々よりは、書籍や論文とお話する方が楽しい。

ツイッタは反応があるし、ふつうの人々がおもしろいことを言ったり、自分では体験できないような個人的な経験や思考を語ってくれたり、ふつうにまちがうからおもしろいけどね。

言葉づかいが特殊な人々、ツイート内部、あるいはツイート間の論理的・連想的なつながりが理解できない人々を無理に理解しようとしない。

ときどきひどく難しい人々、思わせぶりだけどよくわからないことを言う人々がいて、一部はどうも知的に優秀な人々らしいのですが、それを無理に理解しようとしてもあんまり益はない感じです。これはまあ私の長年のネット生活での反省。けっこう長いこと観察してもけっきょくよくわからないままだったりするし。ぜんぜん別のことを考えいたり、基本的なところであいいいれなかったりしそう。

人の集団にレッテルを貼る人々、定義されていない言葉をつかう人を避ける

「ネオリベ」みたいなの定義も例示もせずに使うひとはまあそれだけで私はパスかな。ネオリベの代表者の名前を数人出してくれりゃいいんですけどね。その他の蔑称を使う人は論外なのですぐにミュート。


2018/09/13 余計な論争みて余計なことを書いて勢いのある先生に火をつけられそうになってしまった。ははは。




Visits: 110

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です