ミル先生にお願いしてショーペンハウアー先生に説教してもらおう

んで、ろくでなし哲学者列伝のメインはショーペンハウアー先生に決めてたのですが(キェルケゴールも列伝にいれたかった)、ショーペンハウアーとキェルケゴールで終わってしまうと味が悪すぎるので、あんまりろくでなしじゃないミル先生にお説教してもらうことにしました。

アルトゥール君、いいですか、後輩の言うことを聞きなさい。

両性の天性が、現在の職務および地位に、彼らを適応させている、あるいは天性がその職務と地位とを彼らにふさわしいものとしている、という議論も、何の役に立つものでもない。常識からいっても人間の精神の構造からいっても、両性の天性を知っている人、あるいは知ることのできる人はいないと私は考えている。というのは、彼らは誰にしても、自分の現在の地位から他の性をながめるしかないからである。

われわれは男はこうだとか女はこうだとか言うための知識をほとんどもってないのです。せいぜい、私から見たら女性はこうだ、ぐらいなわけですが、それは私から見てる女性一般の単なる勝手な印象にすぎない。

たとえば、地主にたいして小作料をひどく滞納している小作人が、あまり勤勉でないという事実から、それを理由に、アイルランド人は生来怠け者であるという人がいる。……これと同じ論法をもって、女性は自分たちの身の回りのことばかり気にして、政治などには関心をもたないから、女性は公益の問題には天性男性ほどに興味をもたないのだ、という人もすくなくない。

同じ条件のもとで、税金払わない人がいたら、その人は払う人に比べて勤勉じゃないからかもしれない。それを認めても、税金を払わないひとがアイルランド人に多くてがイングランド人に少なかったからといって、アイルランド人の方が怠慢だとかは言えない。税金の割合とか国家との関係とか、その他の条件が等しくないからだ。そういう条件をそろえてはじめて「〜は〜だ」と言える。こういうのは『論理学体系』の正しい帰納の方法とかで延々議論したことなわけです。

同様に、当時の女性が政治に関心を持たなかったとしても、たとえば参政権の有無なんかが影響しているだろうから女性が公益に関心がないのだとか言えませんよ、とそういう話です。環境要因を見ないで勝手に天性の話にしてはいかん!

それゆえ、両性のあいだの生来の相違はなんであるのかというもっとも難しい問題にかんして、現在の社会状態においては、それについて完全正確な知識をえることは不可能である。一方においてはほとんどすべての人がそれについて独断的な意見を持っているのであるが、他方、それを部分的ながらも洞察することのできる唯一の手段をおろそかにしたり軽んじたりしない人はいないのである。

性差やジェンダー差みたいなのについて、はっきりしたことはなかなかいえない。でも、ショーペン君のように独断的な意見をもっている人たちはたくさんいる。まあ独断的だからおもしろいんだけどそれは科学・学問とは別の世界。そして、もうすこしマシな洞察する手段はたくさんあるのに、それを無視しちゃう。我々は独断的な奴らだからだ!

男性と女性との知的および道徳的差異がいかに大きくいかに根絶しがたいものであるとしても、それが生まれつきの相違であるとする証拠はみな消極的なものである。ただどうしても人為的でありえないもの、すなわち、教育あるいは外部の環境によって説明することのできる両性の特徴をすべて除いてそのあとに残るもの、それのみが、生来のものと考えうるであろう。それゆえ、……両性のあいだになんらかの差異があるということでだけでも、それを主張するのには、人間の性格を形づくる法則についての深遠な知識がなくてはならない。しかし、いまだかつてこのような知識を有するものはいない……(70)

「道徳的差異」はわかりにくいかもしれませんが、まあ心理的な差異ぐらいに広くとってOKのはずです。男女の生まれつき・本性的な差とか考えるときは、教育や環境の違いをとっぱらってしまわないとならないけど、実際にはそれはものすごく難しい。実験室で同じ環境で育ててみようなんてのは虐待だし、さらにはそういうことしても環境要因をまったく消去できるかどうかはわからない。そもそも我々は人々の性格やらパーソナリティやらがどうやって形成されるかよくわからっておらんのです。まあ最近では一卵性双生児とかの研究で少し改善してますが、それでも性差についてはわからない。一卵性双生児は少なくとも生物学的には同性ですからね。

こっからがおもしろい。

この問題〔女性の性格や能力〕にかんしては、それを真に知っている唯一の人々、すなわち女性自身がほとんど証拠を提供しないし、またたといいたとしても、それは大抵にせものであるために、決定的なことはなにも言えないのである。むろん愚かな女性を知ることは簡単である。その愚鈍さは世界中どこへいっておたいてい同じようなものであって、愚かな人間の意見や感情は、その周囲の人々がもっているものから十分推断することができる。

「女性自身がほとんど証拠を提供しない」がいいですね。一つには、女性にたいする教育その他が男性とは大きく異なっているので、どんな能力をもっているかとか男性と比較することができない、ってのがあるわけですが、その他に、女性自身が、どんなことを考えているか、どんなことができるかをはっきりしたことを言わない、というのもある、ということだと思うです。まあ教育ちゃんと受けてない人が多いので、文章とかスピーチとかで表現するのが苦手だっていうのもあったのかもしれませんが、それだけではないかもしれない。ニセモノ、つまり嘘を言うこともけっこうあるというわけです。でもこれは男性についてもそうよね。

「愚かな」人々、つまり子供やあんまり気のきかない人々は観察してれば、その人々が何を求めてなにができるか、だいたいわかるわけですが、人間、賢くなってくるとお互いにだましあいするのでそんな簡単ではない。

ところが、自分自身の意見と感情とかみずからの性質みずからの能力から発露する人々の場合には、そうはいかない。だから、自分の家庭内の女性についてすら、その性格をかなりの程度にしっている男性はめったにいない。

おもしろいのはこれです。自分のママや姉妹がなにを考えているのか、どういう生活をしているのか、たとえばムダ毛はどのように処理しているか、知っている男性はめったにいないということだと思います。特にミルの生きていたヴィクトリア朝時代は女性にいろんな抑圧が加えられていた時代なので、なにをしているのか男子にはさっぱりわからない、そういう感じだったんじゃないですかね。ご家庭も今理想とされているような和気あいあい、みたいなのではなく、自分の旦那に「ロード、今日は召使いのメアリが粗相をしたので私がきつくお仕置きしました」「なるほどレイディー、それは正しいことだ」みたいなそういう会話だったかもしれんし(『高慢と偏見』の映画とか見ると、実際旦那をミスターで呼んでますわね)。

多くの男性は、自分こそは女性を完全に理解している、なぜならば、自分は二、三の女性と、いやもっと多くの女性と恋愛関係にあった経験があるから、という。もし、彼が立派な観察者であり、その経験が量と同様質にまでおよんでいるならば、彼は女性の性質の狭い一面についてはあるていど知りうるかもしれない。

アルトゥール(そしてセーレン・キェルケゴール君!)、聞きましたか?頭よい人が女遊びしたら、たしかにそれなりのことはわかるかもしれません。

しかしそれ以外のあらゆる部面については、彼は他の人と同様無知である。というのは、女性は、恋愛関係にある男性にたいしてはそれらの性質をきわめて用心深く隠すものであるから。

でもミル先生はなんでそんな事知ってるんでしょうか。

そこで女性の性格を研究する場合、男性にとってもっとも都合のいい場合は、自分自身の妻を研究することである。というのは、こういうことは機会も多く、女性にたして十分な同情をもってする場合もそれほど稀であるとは言えないからである。

ほう。研究するわけですか。まあ自分の奥さんとなればシンパシーもあるから研究しやすいというわけですな。

そして事実これこそは、この問題にかんして立派な知識をえることのできる唯一の源泉であると考えられる。しかし多くの男性がこのようにして女性を研究する機会はただの一回であった。

わはは。女性についての知識を得たときはもう遅い、そういうことですね。

ソクラテスとそれを引用したキェルケゴールが、「結婚するがいい、君は後悔するだろう、結婚しないがいい、やっぱり君は後悔するだろう」みたいなことを言っているのですが、まあ結婚が1回だとだいたいわかったときは手遅れなので、離婚や再婚できたほうがいい、そういうことですね。でもそれってその女性についての知識だから次は違うだろうし、やっぱり後悔するんじゃないんかなあ。

っていうかそもそもミル先生結婚したのはハリエットさんと20年以上おつきあいしてからじゃないっすか。いったいそんな晩年に結婚して何を経験したのですか、みたいな心配が浮かんできますけど大丈夫ですか。ははは。

まあそういう意味じゃなくて、結婚したりっていうのは当時だったら1回、離婚できたとして2,3回なので、女性一般にについて知るのは無理でしょ、一般化の誤謬推理避けられないから「女性とは」みたいなのするのはやめましょ、って話ですわね。

ミルの(初版は若い時の)『論理学体系』は、主にドイツ観念論とかの頭でっかち、独断的な哲学の方法はよくない、ちゃんと実験や観察して証拠を集めていきましょ、じゃないとまちがいますし、特に社会科学(道徳科学)では独断的方法はやばいです、ということを主張するために書かれたそうな。ショーペンハウアー先生みたいに、自分の身の回りの女性を見て「女は」ってやるのは典型的にだめな方法。つつしみましょう。(でもつつしめない)

上の本読むときは下の本の解説もいっしょに読みなさい。名著。

上の水田先生の本、『論理学体系』の誤謬推理/詭弁推理の話にもがっつり言及していて感心しました。

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