マーガレット・ミードの名前を使ったニューギニアの3部族についての表問題。
Amazon から本が届いた。
まず、井上知子・新野三四子・中村桂子・長嶋俊介・志水紀代子『生き方としての女性論』嵯峨野書院、1989 ISBN:4782301375 では、この表はp.129にある。
内容は伊藤公雄先生の『男性学入門』のp.163と同一。ただし、気になっていた部族名はそれぞれ「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャムブリ」になっている。したがってこれは伊藤先生の本で単に誤植されただけかもしれない。
しかしショッキングだったのは、前にも述べたように伊藤先生の本では出典は
出典: 村田孝次、1979年(井上和子ほか『生き方としての女性論』より)
とされていたので、この表を作成したのは村田孝次先生で、彼の文章が『生き方としての女性論』に収録されているのだろうと思いこんでいたのだが、この本には村田先生の文章はなかった! この表が使われているのは井上知子先生の第5章「女性と男性のありかた」で、井上先生が村田孝次先生を引用しているのである。表には
(村田孝次、1979より引用)
とだけ書いてある。そして、さらに悪いことに、この村田孝次先生の文章がどこの論文であるか、『生き方としての女性論』には載っていない(!)のである。それに、表の上の方、「Mead, 1935」って書いてる! それは『サモアの思春期』ですがな・・・いや、違う。Sex And Temperament In Three Primitive Societies っていう本か( ISBN:0688060161 )。これは見てない。おそらく村田先生の論文は、『男性と女性』ではなく、この本の紹介か解説かそういうものなのだな。で、それを伊藤公雄先生は『男性と女性』だと思いこんだ、というのが真相に近いかもしれん。
とにかく伊藤先生は井上先生からの孫引き。伊藤先生の出典の書き方から孫引きだとは思いもよらかなったが、私の早合点だったか。
それにしてもこれは・・・。とにかく村田先生の論文はどこのなんという論文なのだろう?
続いて、諸橋泰樹先生の『ジェンダーというメガネ:やさしい女性学』フェリス女学院大学2003 ISBN:4901713027 では、『生き方としての女性論』での表と同様のものがp.44にある。ただし、左右が逆になっている。『女性論』で「男女」と表記されていたのが「女男」になり、「女性的」が「いわゆる女性的」のように語句が変更されている。出典は、
出所 マーガレット・ミード「男性と女性」 1935
これも「1935」!とりあえず諸橋先生は有罪。剽窃決定。真っ黒。
部族の表記は「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャンブリ」。この表は奇怪で、他の三つの表では「パーソナリティー特性」に入れらているアラペッシュ族の「女男とも子供の世話をする」「きびしいしつけはほとんどしない」「子どもには寛大でむしろ溺愛する」「子どもの成熟を刺激しない」が「パーソナリティ」の方に入れらている。誤植?
伊田広行先生の『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店2004 (ISBN:4272350188)は、この本とミードの『男性と女性』が出典だと主張しているが、それを(「正しく」?)修正しているのだから、伊藤先生か井上先生か村田先生を参照して出典が怪しいことに気づいているのにそれを書いてない。おそらく幇助?
これひどすぎる。インチキ! 諸橋泰樹フェリス女学院大学文学部教授は剽窃野郎で有罪。伊田先生は出典を隠して灰色、井上先生はもっと薄い灰色というかほぼ白(村田先生の文献の参照を忘れただけかもしれない)。伊藤公雄京都大学文学研究科教授は無批判孫引き野郎で学者としてまじめに相手するに値しない。と考えてしまってはちょっと言いすぎかな。
まあしかし、ちゃんと自浄できないまま引用しあう学者社会はだめだ。
あんまりあれだから、伊田広行先生のブログにトラックバックしておこう。トラックバックってしたことないからわかんなけど、リンクするだけでいいのかな? http://blog.zaq.ne.jp/spisin/
最近スキャナを入手したので、PDFにしてあげておこう。あら、hatenaにPDFは上げられないのか。
ぐえ。井上先生は「知子」でした。
と、ふと本を読みなおすと井上先生は和子じゃなくて知子(ともこ)先生。こりゃひどいまちがいをしたなあ、と思って上は修正した。しかし、これ実は上の伊藤公雄先生の表がすでにまちがってるからだよ。なんなんだ。伊藤先生は井上先生の本の出版社や出版年も書いてないし、文献表にも出さないし、これくらい色々重なるとなにか出典を探しにくくするための意図的なものではないかとか思ってしまう。そういうことを考えさせられるのがたまらん。
ちなみに諸橋先生の『ジェンダーというメガネ』も、あるアフリカの部族ではイニシエーションに失敗した男の子は「女」として生き男と結婚することがあるとか、別の部族では生まれる前から占いによって性別が決まってるとか、あやしい調査を出典出さずに紹介している。この本ではさまざまな文化人類学の知見が紹介されるのだが、実際に名前が出るのはミードだけ。(それも実は確認してないわけだ。)
なんというか、こういうことが重なると、「ジェンダーフリーバッシング」とかが起きるのはある程度しょうがないという印象を受ける。女性学とか男性学とかジェンダー論とかって科目名で大学の授業している人々は、いったん自分たちの研究を見直してダメな研究をちゃんと排除して浄化しなきゃならん。まあいわゆる学際的な学問領域が立ちあがるときは、伝統的な領域から難民のような人々がまぎれこもうとする傾向があるようだ。別の分野でもそういうのを見たことがある。そこでがんばれるかどうかがその分野がちゃんと成立するかどうかの分かれ目なのだろう。先行研究を信頼して参照できないのならば学問として一本立ちできない。まあ伊藤先生や伊田先生や諸橋先生が権威として信用されているわけではないだろうが。ジェンダーな人々もここは踏ん張り所だな。
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コメント
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