翻訳ゲリラ:ピーター・シンガー「最も小さな赤ちゃんを治療するべきか(そうでないか)」

ピーター・シンガー「最も小さな赤ちゃんを治療するべきか(そうでないか)」

ちょっとシンガーの障害者に対する立場について気になるところがあるので訳出してみた。最後のところはちょっと味が悪いかもしれない。


Peter Singer (2007) “Treating (Or Not) The Tiniest Babies”, Free Inquiry, June/July, 2007. https://secularhumanism.org/index.php/articles/2912

この2月、新聞各紙は「ミラクルベイビー」アミリア・テイラーちゃんを絶賛した。彼女はこれまでの記録でもっとも未熟で生まれながらもサバイブしたのだ。10月にたった妊娠21週と6日(日本の数え方とちがうはず)で誕生した彼女は、出生時に体重280グラム(10オンス)しかなかった。これ以前には妊娠23週未満で生まれた赤ちゃんで生存したケースはなく、医師たちもアミリアちゃんが生き延びるとは予想していなかった。しかし、マイアミの病院でのほぼ4ヶ月のNICU暮しのあとで、彼女は1800グラム(4ポンド)にまで成長し、医師たちは帰宅してよいと判断した、というのである。

このケースには少し誇大なものが含まれている。アミリアちゃんは体外受精で妊娠されたため、受精した日時は正確にわかっている。通常はこのようなことは不可能であり、妊娠週は母親の最後の月経日から計算される。赤ちゃんは通常月経周期のなかほどで受精されるため、受精の日には2週間が加えられることになる。したがってアメリアは〔通常ならば〕妊娠の23週目に生まれたと見なされている。この妊娠週の赤ちゃんが生き延びることはまれではない。しかしながら、アメリアはたしかに非常に未熟であり、非常に小さい赤ちゃん(ある情報源によれば、生き延びたなかで4番目に小さな赤ちゃん)である。もちろん、両親が待ち望んだアメリアがすばらしくうまくやりとげたことは喜べることだ。しかし、現代医療のあらゆる手段を使ってますます小さな赤ちゃんを救いつづけることは、論議すべき問題を引き起こす。

The Medical Journal of Australiaの11月号に掲載された論文で、シドニーの王立女性病院院長のケイ・ルイ博士は、112人の専門家が参加したワークショップの結果を報告している。これは、新生児に対して最高度の集中治療を提供しているニューサウスウェールズ(オーストラリアでもっとも人口の多い州であり首都キャンベラを含む)の10の医療機関の専門家たちである。

このワークショップは関連分野の専門家医師だけでなく、助産婦、新生児看護師、親やコミュニティの代理人たちを含むものだ。まずなんらかの提案を検討する前に、参加者は、1998年から2000年までの間に、妊娠26週未満で生まれた赤ちゃんの誕生とその経過の資料を提示された。この調査によれば、23週未満で生まれた赤ちゃんで生き延びた子はいなかった。23から25週のあいだでは、生き延びるパーセンテージは29から65パーセントだった。

生存者は追跡調査され、2才から3才の間に検査を受けた。23週で生まれた子供のうち、2/3はなんらかの機能障害をもっており、このこの妊娠週で生まれ生きのびたうちの1/3は、その障害のレベルは「シビア(重症)」であった。これが意味するところは、受傷の発達の遅れ、視覚障害、脳性麻痺による器具を併用しても歩行不可能などである。一方、25週で生まれた子供のうち1/3しか機能障害をもっておっらず、13パーセントだけが重度の障害であった。あきらかに、2週間のあいだ母親の子宮ないでいることによって、子供が障害をもたずに生き延びる確率には大きな違いが出るのである。

こうした状況下で、医師──そして社会──はどうするべきだろうか?医師たちはすべての子供を可能な限り治療すべきだろうか?あるいは彼らは、たとえば妊娠24週で線を引いて、その一線より以前に生まれた子供は治療をしないと言うべきだろうか?24週以前の赤ちゃんを治療しないという方針によって、コミュニティは無益であると判明することにありそうな医療措置のかなりの額を削減することができる。また、生き延びた重度の障害児をサポートする費用も削減できる。しかし、それは、妊娠することが難しく、未熟児がおそらく彼女らが子供をもつ最後のチャンスであるようなカップルに対しては残酷なことでもある。アメリアの両親はこのカテゴリーに入るだろう。もし両親が置かれている状況をを理解して、重度の障害児を家族に迎え、子供にできるかぎりの愛とケアを与えるつもりであるなら、比較的裕福な先進国は、「だめです、あなたたちの子供は早過ぎました」と言うべきだろうか。

こうした可能性を念頭に置いて、厳密な一線を引くかわりに、ワークショップは治療するかどうかを両親の希望に剃っておこなう「グレイゾーン」を設定することにした。もし23週で生まれた新生児の両親が赤ちゃんの治療をしてほしくないとすれば、参加者はそのリクエストを受けいれるだろうとした。また、積極的な治療〔active treatment、医師の側が積極的にということか?〕の可能性についても検討されたが、それは非推奨とするコンセンサスが生じた。25週でも参加者の72%は両親が望まない場合には治療を始めないだろうとされた。しかしながら、26週までには、例外的な状況を覗いて、新生児は治療されるべきであるというコンセンサスがあった。

米国では、米国小児科学会は23週未満で生まれ400グラム以下の赤ちゃんは生育不可能であると考えられていると述べているが、同じ人間の生命すべてに対して可能な限りの努力をするべきだという主流のレトリックを疑うことは難しい。親たちと選択肢についてオープンに議論するかわりに、医師たちは治療は「無益」であり「なにもできることはありません」と言うだけである。実際のところでは、こうしたケースでは積極的治療はしばしば生命を延ばすのだが、重度の障害の高い可能性がある。この状況では、治療が「無益」であると述べることは、実はそうした障害の高い可能性をともなった生命は生きるに値しないとか、あるいは子供を生き延びさせるために両親とコミュニティに要求される努力に値しないといった倫理的判断を下すことなのだ。

医師のなかには、すべての人間の生命は限りない価値をもっており、重度の障害を負うであろうことになる可能性がどれほどであろうが、すべての赤ちゃんを救うためにあらゆることをすることが彼らの義務だと考えている。

上のどちらの状況にしても、両親は自分たちの子供についての決定に参加するチャンスを与えられていない。これは彼らの責任の重みを軽くすることになるかもしれないが、この子供が彼らにとってどれだけ貴重なものか、また、彼らが思い障害を負った子供を愛し仮定に迎え入れることができるか、ということを発言する機会を否定することにもなっている。これが、生存が不確実で重度の障害のリスクが高いグレイゾーンの未熟児生と死の決定において、両親の意見が生命維持治療をするかどうかの決定において重要な役割を果たすべき理由なのである。

アメリアの生存はグレイゾーンの範囲を延したが、それを消去したわけではない。われわれはまだアメリアの極端な未成熟での誕生が長期的な障害につながるかどうか知らない。だが、どちらにせよ、他の両親がリスクをとることを望まず、また小さな新生児の生存を保証するためにあらゆる手段をとるために必要な公共の出費をを望まないという決定をするとしてもそれはもっともなことだろう。

http://www.afpbb.com/articles/-/2185369

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