出版物に騙されるな
ふつうの学生さんは、インターネットとかでは不確かな情報が拡大される傾向にあって困ったものだ、ということはもう耳にタコができるくらい聞かされていると思います。そのことについては以前にちょっと書いたことがあるのですが、最近では書籍についても注意をうながしておかなければならないことに気づきました。
最近の出版ブーム、新書ブームというやつで、世の中にはたいへんな量の書籍が出まわっています。どうも人々は「本」に書いてあることは「本当のこと」と思いこみやすいようですが、まったくでたらめなことが書かれている本や雑誌も多いものです。でたらめとまでは言えないまでも、著者の思いこみ、単なる伝説や噂話をまにうけている本も多いものです。
まあどの本が正確でどの本がだめなのかを見わけるのは非常に難しいのですが、以下のようなことは頭の片隅に置いといてください。
タイトルや表紙にだまされるな
タイトルや表紙カバーなんてのは編集者やデザイナーが作るものです。奇抜なタイトル、かっこいい表紙の本はいかにも信頼できそうですが、そういうものを信用の目安にしてはいけません。
まあこれはたいていの人は大丈夫でしょうが、本屋さんで目立つところに置かれてるとか、売れてるらしいとかってのを判断の基準にするのは危ない。
出版社にも注意しろ
どの出版社から出されている本か、というのは非常に重要です。信用ある出版社は信用できる本を出そうとしますし、逆によい本を出している出版社が信用ある出版社です。
必ずしも大きな出版社、名前の知れている出版社が信用がある出版社であるとは言えないのですが、名前も聞いたことのない出版社は自費出版だったりするので注意しなければなりません。
たとえば売れている新書シリーズでいえば、私が一番信用しているのはまずは中公新書とNHKブックス、次が岩波新書や講談社現代新書です。ちくま新書ぐらいになると玉石混交、それ以下の新書(集英社、洋泉社、文春新書など)はとりあえずすぐに信用することはできないと思って読んでいます。
著者の経歴に注意しろ!
必ずしも東大や京大で勉強したひとや教えている人が偉いわけではないですが、著者がどういう経歴の人かは本を見分ける大きなヒントになります。
「博士」と書いてあってもどの大学の「博士」かってのは重要です。世の中にはお金を出せば「博士号」をもらえる「大学」もあるのです。
さらに、「教授」「博士」だから大丈夫と思ってはいけません。アメリカ文学が専門の京都大学文学部博士や名誉教授が、アメリカ文学について書いていれば、それはかなり信用してよいのですが、 進化論 について書いてたらそのまま信用するのはちょっと待ってみなければなりません。
もちろん、学際的な立派な研究をしている人はたくさんいます。あくまで用心しておくってことです。
著者の評判や人間関係にも注意
その本を書いた人は他の人々からどう評価されているのか。信用や評価の高い人が評価しているのなら信用できるし、そうでないなら信用できないかもしれない。まあ結局はわたしたちは「信用のネットワーク」の上でしかものごとを判断できないわけです。書評とかが重要なのはそういうわけで。
極端な主張には気をつけろ!
「だれでも儲かる10の方法」「食べるだけで痩せる」「男は皆狼だ!」「女はこうすれば落ちる!」なんてありえないですよね。
そうでなくても、従来の考え方をまるっきりひっくりかえそうとするような主張を簡単に行なっているような本、難問を簡単に解きあかしてしまったりする本は要注意です。まあだいたいゴミ。
もちろん、たとえば哲学なんて分野で研究したり執筆したりしている人は、なるべく極端な主張をしたいと思っているわけですが、そういう極端な主張をするために細心の注意を払うものです。
筆者は自分の立場への批判に注意しているか?
よい本の著者というのは、実は自分の主張したい立場への反論がどんなものがありえるかについてよくよく考えているものです。「こういう反論もありえるかもしれないが〜〜、こういう反論について〜〜」、そして「自分の立論でまだ未解決なところは〜〜」とやっている本は信用できることが多い。自分の主張を言いっぱなしの本はたいていだめね。J. S. ミルという偉い人は、
複雑な問題、すなわち、道徳、宗教、政治、社会関係、生活上の問題になると、問題とされている意見を支持する議論の四分の三までは、支持しようとしている見解と異なる意見に有利な状況を排除することからなっている。古代においてデモステネスに次ぐ偉大な雄弁家〔キケロのこと〕は、つねに、彼の論敵の主張を、自己の主張に(いっそう熱心とはいえないまでも)、劣らぬほど熱心に研究した、と記録に残している。キケロが弁論の成功の手段として実行したことは、真理に到達することを目的としてなんらかの問題を研究するすべての人によって、見習わなければならない。問題の自分の側しか知らない人は、その問題についてほとんど何も知ってはいないのである。(J. S. ミル『自由論』,早坂忠訳, 関嘉彦(編)『ベンサム・J. S.ミル』,中央公論社.p. 256。訳文は一部江口の責任で変更してある。)
と言っておられます。
専門家集団に文句をつけてたらかなり要注意
「専門家は頭が堅いからわからん」とか「従来の学問には隠された権力性がどうのこうの」とかやってるやつはたいていだめです。そういう著者はちゃんとした専門家集団からはじき出されているわけですから。
証拠を確かめろ!
その本はちゃんと証拠がどこで手に入るか明記していますか?どういう実験や調査をしたのか、そのデータはどの程度信じられるのか。事件ならどの新聞に載っているのか、科学情報ならその情報をどこから手に入れたのか。「〜は〜ってことになっている」で済ませちゃうような本はだめ。
リファレンスは十分か?
その本にはちゃんと文献表がついてますか?従来の研究をしっかりとおさえていないまともな研究なんかありません。
専門書を読め
子ども向け、一般向けの本ではなく、なるべく専門書を読むようにしましょう。
あなたの先生・先輩に聞け
大学教員というのはあんまり世間のことは知らないことが多いのですが、その専門分野の知識だけは馬鹿にならんものです。まともな先生は正しい情報だけでなく、よくある間違った情報についてもよく知っています。話を聞いていれば、どういう著者が信用があり、誰が信用ならないのか教えてくれるでしょう。
実は
こういうことを考えるようになったきっかけは、今年のゼミで岩月謙司『女は男のどこを見ているか』(ちくま新書)をとりあげて発表してくれた学生がいたからでした。
この本はベストセラーになったのでその前に目を通していて、ひどい本だなとは思っていたのですが、まさか学生さんが取りあげるとは思ってもいなかった。だって、この人はいちおう香川大学教育学部教授らしいのですが、心理学や教育学の専門家ではなく、東京農大で動物行動学かなんかを研究して博士をとった人なわけで[1]で、男女の心理的な問題などに関してはなんの権威にもなっていないからです。
内容も「女はこういう男に惹かれるものだ」とか断定するばかりで、なんの根拠もないし、先行研究の検討もしていなければほとんど文献を参照していない。
さらに悪いことに、本を売りまくったあとに、岩月先生は資格もなにもないのに勝手にカウンセリング行為なるものををして、女性から準強制わいせつで訴えられて懲役2年の判決を受けているはずです(控訴しているらしいですが)。
まあ、上のチェックリストの多数にひっかるような本だったわけです。気をつけましょう。他にも私が気になっている有名有害ライターはけっこういます。
ずっとあとに追記。これを書いた数年後、ものすごいやつを見つけたのでした。 https://yonosuke.net/eguchi/archives/921 これの星の王子様。
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コメント
「専門家集団に文句をつけてたらかなり要注意」
すみません、江口先生のこのお説教に反省を促される出来事があったので、くだらない者ですが、懺悔と感謝の意を込めてコメントさせてください。
当方、大阪大学文学部倫理学専修で、あと1週間先で締切の卒論に向けて、キルケゴールの『おそれとおののき』と格闘している者です。私は分厚い著作を読むのが苦痛なので、そうでないもので『おそれとおののき』について書いてあるものを探していたのですが、藤野寛著『キルケゴールー美と倫理のはざまに立つ哲学』と、近年現代思想から出たキルケゴール特集、そのたいくつかのものしか手に入りませんでした。
その中で、藤野氏の実存三段階説への反論がかなり魅力的でした。高校時代から『「美的実存」「倫理的実存」「宗教的実存」とはなんなのだろうか?そもそも例えばファッションにうつつを抜かしているJK(女子高生)でさえ、信号は守るではないか?』などと現代社会の資料集を片手に悩んでいた私にとって、キルケゴール自身は「段階」ではなく「領域」を使っていた、ということ、そして何より彼の生がいかに世俗的なものであったかという指摘は、希望でした。この希望で舞い上がってしまい、「おそれとおののき」は実は美的著作ではない、むしろ倫理や宗教に絡む著作である、ということをあれやこれやの形で文章にしようと格闘していました。
ところがその背景にした知識がほぼこの藤野さんの情報だったので、江口先生の著作をたった今徹夜で読み、私の卒論が藤野氏の二の舞でしかないことに気づかされ、愕然としております。実は先週、キルケゴールの著作はデンマーク語で読まないといけない、という指摘を、たまたま研究室で手にした千ページを超える専門書で目にして、(藤野さんは独語全集を参照されているため)その指摘の説得力に対してへなへなとなっていたところで、ここにあの書評の衝撃は大きすぎます。
加えて、京都大学学術情報リポジトリ紅から、『沈黙のヨハンネスはなぜ眠れないのかーキェルケゴールの『恐れとおののき』における倫理的なものについて』という江口先生の1991年の論文に目を通し、私の主張がいかに無謀なもので、それを成し遂げるには二次文献も多く視野に入れないといけないと知りました。
藤野寛の一般書に舞い上がっていた私があほでした。すみませんでした。
また、加えて懺悔しますと、当方聴覚障がいがありまして、2回生の時にP. シンガーの動物解放論を英語の授業で読み、そこで障がい者と動物の優劣を論じる論調に拒絶反応を起こし、功利主義アレルギーになっていたのです。ですからJ. S. ミルすら読めていませんし、その影響で江口先生のブログは拝見しても、論文は毛嫌いしておりました。そこへたまたま江口先生のものとはしらず、先述の論文を拝読したのです。すると、私が漠然と感じていた『恐れとおののき』に対するわからなさが丁寧に記されていて、非常にーもちろんしませんけどーできたら丸写ししたいという衝動に駆られるくらい、参考になるものでした。毛嫌いしていたことも、すみませんでした。
以上、「専門家集団に文句をつけてたらかなり要注意」ということは私もわかっているつもりでしたが、しかしそれをやってしまった、ということになります。お恥ずかしい限りです。それに気づかせてくださったこのブログに重ね重ね謝意を示します。長文失礼しました。