檜垣立哉『食べることの哲学』第5章「食べてよいもの/食べてはならないもの」
檜垣立哉先生の『食べることの哲学』を図書館でふと手にとって、クジラ問題のところだけ読んでみたらいろいろ問題を感じたので、いつものように引用とメモ。
小型のクジラがイルカであるといっても誤りでなく、そのため、DNA検査によってイルカの肉かクジラの肉かをみわけることは困難である。 (p.130)
え、そうなの?意味がわからんです。DNA調べたら種の特定ぐらいはできるしょ。だから時々国内で特定種類の鯨肉(調査捕鯨などの)が流通しているって非難されるんでしょ。まあクジラとイルカは種としては近くて、人間が勝手に大きさで区別してるだけ、っていうのならわかるけど。水産庁もDNAで肉がどの種のイルカ・クジラであるか登録しろと指導しているような気がします。
[『ザ・コーヴ』制作者らの]論理破綻こそに食にまつわる問題の意味が詰っているのではないかとおもわせもする。つまり、クジラ・イルカ漁に反対するひとは、まさしくただ反対したいから反対しているのであり、本当はそれ以外の意味などないのではとおもうからである。(p.133、強調は原文傍点。)
こういう文章を見ると、まあなにかに反対したい人はそれに反対したいから反対しているのでそれはいいんだけど、それが「ただそれだけ」なのか、「それ以外の「意味」」はないのか、そもそも「意味」とはなにか、みたいなこと考えてしまいますね。「反対しているのはまったく勝手な感情にもとづくもので、それ以外に反対する理由や根拠ははない」みたいな文章なんだろうけど。たとえば、奴隷制度に反対しているひとも奴隷制度に反対したいから反対しているわけで、民族浄化や奴隷制度に反対したい、反対すべきだと考えているっていう以上の「意味」なんてないかもしれない。
と。んで本論に入っていくわけだけど、その前に、檜垣先生が『ザ・コーヴ』を非論理的、論理破綻、矛盾、とかなんとか何回も繰り返してディスってることに注意をうながしておきたい。ある人の主張が論理的でない場合にはそれは傷であるわけだけど、『ザ・コーヴ』はドキュメンタリー映画・広報映画であって論文ではないので、必ずしも論述の展開が「論理的」でないかもしれないわけだけど、それって映画やドキュメンタリーの欠点なんかな。もちろん映画での主張が矛盾だらけでよいということではなく、論文のような論理的構成になっていないからといってさほどせめられない、と私は言いたい。ドキュメンタリーで出てくる人々の主張はたいてい論文や書籍や他の場所での発表媒体に掲載されているわけだから、主張の論理的なよしあしを見るには映画ではなく他の媒体のものを見た方がよいのではないか、と思う。
第二に、檜垣先生は論理論理論理破綻矛盾!というわけだけど、私にはさほど主張が矛盾しているとは思えなかったってのがある。これは檜垣先生ができるかぎり『ザ・コーヴ』の主張を整合的な形にした上で、どこに矛盾なり論理破綻なりがあるかを示す責任がある。「論理破綻している!」って何度も言うだけでは破綻していることを示したことにならない。それができているか、これから確かめるわけです。
さて。
……できれば酷い環境のもとで飼われないこと、そもそも人間に飼われないこと、これがいいということは確かだろう。……だが、なぜイルカなのだろうか。……なぜそれがイルカ……に対してだけ向けられるのか、そこの線びきの根拠が、正直明確であるとはいえない。 (p.137)
え、そっちに行くんか。
ある社会運動家が、ある問題に関心をもち、ある局所的な事象をとりあげて問題視することはよくある。個人や団体の力には限界があるので、世界の不正や問題をぜんぶいっしょにとりあつかうことはできないからだ。世界をよくするには、それぞれの人が小さくても局所的な問題をとりあげ活動し改善していく方が全体としてはうまくいく見込みが大きい。
ただし、イルカの飼育に関心をもっている人に対して、豚の工場畜産はどう考えるかたずねてみるのはもちろん悪くない。クジラやイルカに豚とは違うなにか特別なところがあると考えているのかどうか聞いてみたらいい。それに対する答はいろいろありうる。「豚についても懸念しているけど私はイルカに特に興味がある」っていうのもまあ一つの答だし、「豚問題もやりたいけどとにかくイルカから」っていう答もありうるだろう。また、「イルカはかわしいけど豚はかわいくないから」という理由であった場合には、「かわいさってそんなに道徳的に大事なのですか」と聞いてみてもいい。でもこれってそれ自体は論理破綻とかではない。しかしまあ檜垣先生が「なぜイルカなのか」と考えること自体はそれでOK。
あと、一般に、なにかが論題になっているときに、別の話にそらしてしまう論法は、「イグノランチアエレンキ」(論点相違)の詭弁/誤謬推理って呼ばれていてあんまりよいものではない。
たしかにオリバーにとって、……それと同種のイルカも、かけがえなのない「伴侶種」であることは理解できる。しかしながら、……他の無数に存在しうる「伴侶種」にも同じことをしなければならないはずだ。 (p.138)
オリバー先生というひとがイルカはコンパニオンだから救うべきだと主張しているかどうかは未確認(この本でもわからん)。でもこれはこれでいい。
でも、たとえば(「伴侶種」である)イルカを大事にするなら、(伴侶種である)犬も大事にしなければならないはずだ、っていうことから、イルカ漁反対運動と、犬虐待反対運動を同時にやらねばならない、っていうのは出てこない。どっちかかたいっぽうだけでいい。
日本でイルカ漁をおこなっているのは和歌山だけではない。……では、太地町の何が問題なのか。 (p.138)
これも同様。和歌山でもフェロー諸島でもクジラ漁がおこなわれているってことから、「同時に」それらに反対しなければならないってことはない。もちろん「フェロー諸島のにも反対しますか?」って聞かれたらおそらく『ザ・コーヴ』の人々は「(条件が同じなら)反対します」って答えると思うけど、同時に映画とらねばならないわけではない。
「〜に反対するなら〜にも反対しろ」は社会運動家たちに対してよくやられる反論で、意見の整合性を見るために質問するのはよいかもしれないけど、実際の運動をいっしょにやらねばならないわけではない。そもそもそんなのリソース限られてるからできないっしょ。
まあでも、この種の疑問自体はOK。こういう疑問を感じたら、『ザ・コーヴ』の人々がどういう立場なのかよく調べてみればいいと思う。もし私の学生様が『ザ・コーヴ』見ただけで彼らの主張について勝手なことを言おうとしたら、「まずちゃんと調べてみたら」ぐらいの話はしますね。オバリーさんとかの文章は日本語では見つからないかもしれないので、しょうがないからクジラ関係の書籍やweb記事とか調べてもらいますかね。できれば英語その他の外国語でも調べてみたいですね。
食料とする動物に対して穏当な殺し方は構わず、残酷な殺し方はまずいというのは、これもまた、いかなる基準で判断すればよいのかわからないことである。穏当であるというのは、端的にいえば相手に「痛みを与えない」ということであろう。……しかし、どのように考えようとも、これは人間という種の感覚器官に依拠した感情移入でしかありえない。もちろんこの感情移入にはある程度の根拠がないとはいわない。しかし「相応」の根拠しかないといえば、どうなのだろうか。 (p.138)
あらー。ツイッタでよくやられている議論ですね。でもこれはよく考えてみる必要がある。
「食料とする動物に対して〜」なんだけど、いまの先進的な屠畜工場では屠殺は一瞬でおこなわれてかなり苦痛は少なくなってると考えられてるみたいですね。テンプル・グランディン先生とかが動物の心理を推察してなるべく苦痛が少なくなるような施設を設計したり、とか聞きます。
クジラやイルカについて「残酷な殺し方」が問題になるっていうのは、クジラやイルカはそうした施設で苦痛が少ない形で殺すことが難しい、どうしても海で追い込み漁やったり、浮き輪つきのモリを何本も打ち込んだりしなければならない、ってところにあるんだと思ってます。まわりで仲間が殺さてるのも知覚するだろうからそれの恐怖もあるだろうしねえ。まあそういうんでイルカクジラ漁は、牛や馬の屠畜とかに比べて批判が多い。
鹿や兎を鉄砲でとってくるのはどうなんだ、とかの話ですが、まあ鉄砲でさっさと片づけるならそれほど苦痛はない、とか考えられるのか、そうでもないのかはよくわかりません。ただイノシシの罠猟とかはかなり問題があると考えらていて、よく知らないけど24時間以上ほうっておいてはだめ、とかいろいろルールがあるみたいですね。あと鳥のかすみ網とかも苦痛が大きそうだから禁止されてるはず。『山賊ダイアリー』とかで解説してくれてるかな。
んで「これは人間という種の感覚器官に依拠した感情移入でしかありえない」がちょっとわかりにくくて、罠に足挟まれて足の骨くだかれてそれでも半日ジタバタする、みたいなのは人間だろうがイノシシだろうがものすごく苦痛な感じがするんですが、先生これ「人間という種」の感覚器官に依存するもので、イノシシは痛くないと思いますか。イルカが太いモリを打ち込まれてなかなか絶命せずに逃げようともがくのもものすごくたいへんそうですが、先生これ人間の種の感覚器官に特有ですか。特有じゃなくて「依拠」ですか。でもそれってどういう意味なんだろう?
まわりで同類のがばんばん殺されてたら、わりに賢くて将来の見通しがあり、共感能力とかが発達していてグループで活動する種の動物はいろいろ動揺しそうですが、これってどれくらい人間の感覚器官に依存しているんだろう。
「相応の根拠」しかないからどうなのですか。我々が他の人間が苦しんでると思うのでさえ、この意味では相応の根拠しかないではないですか。こんなの動物倫理の初歩の初歩だと思うんだけど、そういうのに興味はないですか?
「数々の誤謬」のところは誤謬といいながら事実認識の話で私はあんまりコメントできないんだけど、檜垣先生の方がおかしいように思う。
コーヴ側をC、檜垣先生をHとして表記すると
C「日本がまだイルカ漁やってることを日本人すら知らなかったよ」← H「食べてることは知らなかったよ、政府が隠してるってことはないと思うよ」(?) 論点ずれてる。
C「肉の種類ごまかして流通してるよ」← H「物々交換や儀礼にかかわるものだよ」 いやそれ以上に流通しているからニュースになったんでは?
C「イルカ肉には水銀たまってるよ」← H「健康被害が出てるってのは確認とれてないよ、水俣病みたいな公害と「自然的な淘汰作用」でたまった水銀は別だよ」なに言ってるかわからない。
でもよくわからない。なんか三つとも論点相違になってる気がするけどはっきりしない。『ザ・コーヴ』の言い分にも問題ありそうなんだけど、あれ見直すのいやなんよね。
ここらへんの話はいろいろあって評価がむずかしい。
http://www.econavi.org/weblogue/webtra/kurita/32.html
から、いろいろリンクがあるので見てみるとよいと思う。
もっと問題が多いところへ。
彼ら自身はヴェジタリアンかもしれないが、そもそも牛肉を山のように喰い、動物を殺すことにかんしてはかくも残虐なヨーロッパ系白人であることは確かである。(p.144)
いやこれは……ちょっとコメントしにくいけど、ヨーロッパ系白人だからなんだというのか。いわゆる対人論法(アドホミネム)であり、人種差別的であると思う。人種じゃなくて個人で話してください。こういうのは本当によくないのでやめてください。本当にやめてください。筆がすべっただけですよね。
ごく好意的に読めば、これは我々が感じるオバリーさんたちに対する嫌悪感の説明で、われわれってこういうふうに考えちゃいますよね、ってな解釈ができる。でもその次は
彼らこそが白人中心主義の独善的価値観にもとづいて、異民族・非ヨーロッパ系民族の風習に「野蛮」というレッテルを貼り付け、晒し者にしているのではないか。
ってな形で疑問文の形ではあれ、かなり一方的な議論をおこなっていて、単なる嫌悪感に関する洞察とも思えない。嫌悪感の因果的・記述的説明であるだけなく、それを正当化しようとしていると読むのが、必然ではないにしてもふつうの読みだと思う。それにしても、これって『美味しんぼ』の雁屋哲先生の議論とまったく同じよねえ。(下に前に書いたののリンク貼っておきます)
知性をもった動物を食べてはいけないならば、ではもたない動物は殺してもいいのか。そこで知性は誰が何の基準で判断するものなのか。 (p.145)
これも『美味しんぼ』論法。この手の基本的なやつを「議論されなければならない問題、どう考えても誤謬としか思えない主張が混在している」の一例にあげるのではどうしようもないのではないか。これらの論点はすでにものすごく大量に論じられていて、ネット上にもいろんなものがころがっているし、書籍も多い。
ふつうのヴェジタリアン系統の主張は「知性」ではなく「苦痛」に注目することが多くて、クジライルカな人々はたしかに知性や共感、コミュニケーション能力、推論能力なんかについてもコメントすることが多い。そうした能力が高いほど苦痛や欲求の挫折を多く感じるのではないか、みたいな発想がある。『ザ・コーヴ』の人々がどうか私はまだ調べてないけど。
うしろの「知性は誰が何の基準で判断するものなのか」もよく見るけど、人間が人間の基準で、あるいは共感してるっぽいなーとか、この刺激あるときこういう行動をとるのでこういう認知してるんだろうなーとかでかまわんのではないか。哲学なんだから疑問文なげっぱなしににしないで、先生もいちおう読んだり考えたりしてみてほしい。
殺し方が残虐だからダメだというのであれば、殺し方が穏当であればいいのか。少数種であるから守るのか、では多数種であれば殺していいのか。 (p.145)
残虐な殺し方より穏当な方が望ましいのはたいていの人が認めると思う。「少数種」ってのはわかららんけど、「種の個体数が少ない」の意味かな。まあ絶滅の危険とかそういうのはあるていど考慮しないと。
『ザ・コーヴ』の映画に登場する誰もが、こうした諸問題を、まさにたたみかけるように主張するだけで、本質的に何が問題なのかをまともに論じているようにはみえない。これ自身は、ヨーロッパ人であろうが誰であろうが、常識的におかしなこととおもえる。
まあ『ザ・コーヴ』で主張とその根拠が映画内で完結しておらず、他の資料を読まねばならないっていうのはその通りなんだろうけど、だからこそ学者先生なんだから映画見ておわりにしないで言い分聞いてやってくださいよ。映画にそんないろんなの詰め込めっていう要求は、誰であろうが常識的におかしなことと思えるはずですわ。
動物種と人間との関連を考え、その暴力性を考えるとき、白人であり、それゆえ紛れもない世界支配者集団の一員であるオバリーやシーシェパードが、日本の和歌山県の太地町の漁民という、経済的にも弱小で日本のなかでさえマイナーな地域の集団を「威嚇」することは、何かがおかしい。しかしこの「何かがおかしいが、それをしないと問題が示せない」点をこそ考えるべきではないのか。 (p.146)
まず白人とかに対する偏見をさらすより、普通の勉強をしたらどうか。なぜ「威嚇」にカッコがついているのか。
私なりにパラフレーズすると、白人は世界の支配階級なので(本当に?)、マイノリティである東洋の島国の村とかの弱者になにも言うべきでない、ぐらい?あっってますか?なんでそんなこと言えるの?
たとえば(壊滅したらしい)イスラム国が他宗教の女子を奴隷にしているときに、イスラム国はまだすごくマイナーな集団で世界的には弱者だからメジャーな白人社会がそれに文句言うべきでない、とか言えないでしょ。
最後のところは意味がわからないんだけど、考えてほしい。っていうかこの問いでこの節が終ってて、その答がどこにあるかっていうのはぱっと見ただけではわからんのですよね。でも本人は書いてるつもりなのはわかる。
なぜオバリーは、イルカの「痛み」を感受するが、太地の漁民の「痛み」は感受しないのか。 (p.149)
そもそも危険人物としてあれほどマークされながらも、太地町に、そして熊野に何度も来る彼は、熊野や太地町のことが、本当は相当に好きなのではないか。そもそもそうでなれば、ここまでの攻撃性は出せないのではないか。 (p.150)
すごいすごい。そう、檜垣先生の解釈では、上の「それをしないと」つまり映画を撮影して上映しないとできないことはなにか、っていうのの答は、オバリーさんの個人的な事情にすべて還元されてしまうのです。オバリーはイルカと太地町が好きだから映画をとったのだ、と。それはそれでいいけど、それだけなんかいな。
まあ制作者の個人史にいろんなものを還元する、っていうのは、解釈の方法としてまったくだめってのではないけど、倫理的な主張の解釈としてよいものではないし(アドホミネム)、映画の鑑賞法としてもさほど優れたものではないと思う。
まあ好意的に読めば、オバリーさんたち「エコテロリスト」たちが、イルカの味方をしているつもりで不法なことや現地の人々が嫌がることをするのは正当化できないのではないか、っていうことだと思うけど、ソロー先生だってガンジー先生だってキング牧師だって、社会の多数派が嫌がることをしているわけです。オバリーさんたちやシーシェパードなどの行動が正当かできるかどうかは微妙で、そんなに簡単に正当化はできないけど、彼らが太地町の人々の痛みをわかってない、と主張するのはそんな簡単ではない。
と。ここまで読んできて、最後の方で私の苦手なポストモダンのデリダ先生が出てきて、予想はしていたのですが驚きました。「やはり出たか!」みたいな感じ。
人間に人間は殺せない。それは顔があるからだ。それはわれわれのロゴス的説明すべてに先だつ。こうした主張をなすレヴィナスに対し、それを正義論の観点から認めながらも、では動物はどうなのかとデリダは問うのである。 (p.151)
ふんふん。んでどうなるんですか。
ちょっとレヴィナス先生にもコメントしておくと、顔(哲学用語)があるから人間に人間は殺せない、っていうのはこれは事実ではないですよね。いったいどういうたぐいの主張なのだろう。人間は人間を殺せないはずだ、もよくわからないし。もちろん私は殺せないけど、殺せるひとはたくさんいるし歴史的には殺す方がふつう? こういうの説明してほしいんですよね。
一見すると揚げ足とりにみえるかもしれない。人間の殺戮と正義の議論をただちに動物に適応[ママ]してもよいのかといわれるかもしれない。だが最晩年のデリダは、かなり素朴に、ある意味では力強く、これらの論点を強調する。 (p.151)
「適応」→「適用」かな。私には「では動物はどうなのか」は揚げ足とりには見えない。まじめに問うべき問いだと思います。
で問題は、「論点を強調する」のはわかりましたが、デリダ先生はさっきの問い「動物はどうなのだ」にどう答えてるんですか? これ説明してもらわないとデリダがなにをしているのかわからないです。デリダ先生のむずかしい文章をわれわれ下々のものが読むのは困難なので、もったいぶらずに教えてください。
(1) 動物にも顔があるから殺してはいけない。
(2) 顔のある動物は殺してもいいのだからレヴィナスの言い分はおかしい。
(3) 動物に顔があるかどうかわからない場合、人間に顔があるかどうかどうやってわかるのか。
とかいろんな議論がありえると思うんだけど、デリダ先生は論点を「強調」してどう話をすすめてるのですか。
もちろんこれらの問いは単純に答えられるものではない。……[デリダの答なし]。
もしかしたらこれがデリダ先生の答?
デリダは「痛み」という主題にも触れている。……デリダが考える痛みは、シンガーとよく似てる……だがデリダとシンガーとではおおきな違いがあるように感じられる。 (p.153)
だからデリダ先生はなんていってるのか教えてくださいよ。もったいぶらないで。
デリダの議論はむしろ、人間と動物とが、そして痛みをもつ動物ももたない生き物も、すべて連続しているのではなういかという混交を目指しているとおもえる。それによって、人間とそれ以外だとか、食べてよいもの/よくないものという区分自体を懐疑に晒そうとしているとみえるのである。 (p.153)
「混交」っていうのはふつうは区別すべきものをいっしょにすること、ぐらいですか。 https://www.weblio.jp/content/%E6%B7%B7%E4%BA%A4
これでおわりっすか。ハゲとフサのあいだにはっきり線がひけないからみんなフサだとかハゲだとかそういう話っすか? それとも、人間も結核菌も同じように殺してよいってこと? 人間と動物が、そしてその他の動物が遺伝的に連続していて、さまざまな能力や感受性、生活様式、生殖などにしても連続しているというのはこれはもう現代人の基本知識ですわよね。デリダ先生はそれを言ってるだけなの?
そして、生物種がこの意味で連続しているからといって区別ができないとか不必要だってことにはならんです。さまざまな点で性質や能力が連続しているとしても、もし人間やイルカやチンパンジーが、他の動物とは違ったレベルで自分の将来を考えたり、苦痛を感じたり、死を恐れたりするなら、他の動物とはちがう配慮が必要だということになるかもしれない。
『ザ・コーヴ』の滅茶滅茶な論理設定を支えるものは、実は最初にオバリーが語った一点だけである。それはオバリーが、自分の友人(「伴侶種」)にほかならないイルカを自死させたことへの自己懺悔である。この映画はある意味で一貫してオバリーの自責の映画なののではないか。 (p.154)
『ザ・コーヴ』がそれほど滅茶苦茶なのかどうかは、ここまでの檜垣先生の記述でよくわからない。それほど滅茶苦茶ではないのではないか。もうすこし好意的に解釈してあげてもいいかもしれない。
そうしてひきおこされるさまざまなことは、確かに他人迷惑である。だが一面では、それこそがオバリーの強味となる。なぜならば、彼にとって結果はどうでもいいからである。 (p.155)
いやあ、そういうのって本当にそう思って書いてるのなら人間ってのを馬鹿にしていると思う。先生の解釈はものすごく勝手ですよ。勝手に製作者の個人史から勝手に製作意図を推測し、「彼にとって結果はどうでもいい」までもってきちゃう。これって本当に哲学なんですか。
オバリーとその仲間が、熊野の海で撮った最大のものは、残忍な漁に抗する政治的指向を含んだ映像というよりも、オバリー自身の悲しみとかさなる「声」なのではないか。……どの特定の生物が声をもつか、という議論をするべきではない。声は生けるすべてのものの声である。特定の生物が、痛みの声をもつかという議論にはいるべきではない。いかなる生物ももつ声がある。 (p.156)
なぜ特定の生物が痛みの声をもつかという問題を考えてはならんのだろうか。みんないっしょだからなにを殺してもいいです、あるいはどれも殺してはならんです、ですか。
読んだ章の前の章は『ブタがいた教室』の論評なんですが、あれはひどい話で、豚を飼うことにした教師が最後は生徒にどうするか決めろ、みたいにして丸投げしちゃうんですよね。これについて檜垣先生はこう言う。
正しく無責任であること、これが食と殺すことを目の前にした人間が、社会のなかで平穏に暮らそうと思ったときになせる唯一のことではないだろうか。(p.120、原文強調)
書店のアオリなんかはこういう感じ。
動物や植物を殺して食べる後ろ暗さと、美味しい料理を食べる喜び。この矛盾を昇華する
まあたしかに植物はともかく動物を食うのはいろいろ後ろ暗いところがあるし、社会のなかで平穏に暮したいし、うまい肉も食いたい。でもその唯一の選択肢が無責任とか、なんでもいっしょだからなんでもいっしょ、ってのではないと思う。まあここはむずかしいですね。
ツイッタで檜垣先生御本人から、「平穏にくらそう」というより「平穏に暮すより致し方がないのではないか」の意であるという趣旨のコメントをもらったんだけど、そら気持ちはわかるんですわ。われわれはやっぱり自分がかわいい、自分の子供はもっとかわいいかもしれない、だからどうしても利己的になるし、危険よりは安全を、苦痛よりは快を、悩みよりは楽しみを求めちゃう。でも同じ論法が、たとえば奴隷制とか民族浄化にもつかえるだろうか。
身近に多くの人が奴隷にされたり、民族浄化ってんで虐殺されたりしているときに、我々は実際には恐怖でなにもできないかもしれない。でもそれしか致し方ない、っていう考えかたはないと思う。危険を冒してそうした悪と闘ったり、そうできなくとも一部こっそり逃したり、屋根裏にかくまったり、まあみんなに要求できることではないかもしれないけど、そういうことをする人々はいるし、そうする彼ら彼女らは英雄だ。少なくとも「平穏に暮したいからなにもしません」っていうのは、我々がとってしまう選択肢ではあるけれどもそれほど正しい選択肢ではないかもしれない、ぐらいは考えておきたいところです。
まあそういうわけで、私は『食べることの哲学』のこの節は、哲学としても評論としても非常によくないと思います。少なくとももっと他の人々の言い分をちゃんと読ん紹介してあげてほしい。
と書いたので、私自身も檜垣先生がなにをやろうとしたのかを最大限好意的に読むとすれば、以下のようになるんだとおもいます。
全体は宮沢賢治その他の文学者や『ザ・コーヴ』や『ブタがいた教室』といった「食う」ことに関する倫理的問題を扱った作品をとりあげて、それと大きなネタ本のレヴィストロースあたりの文化人類学と、それ以降のいろな現代思想を紹介しつつ哲学しよう、だと思うです。そしてそうした「食う」ということにまつわるいろんな問題や、我々の負い目の意識、そして負い目を感じながらも、七条大宮「ゆう」のミソラーメンをうまいうまいと食ってしまう我々のありかたを追求してみたい。直前でも書いたように、そうした目標はよくわかるし、価値があるとおもう。ぜひやってください。
でもそうするときに、他にいろいろ思考しそれぞれ哲学している人々に対する敬意みたいなのを示すつのも大事だとおもうんです。他の人々のまじめな思索や活動を、ほとんどなにも調べないで論理破綻だの矛盾だのとディスりつつ話のツマにする、みたいなのはやっぱりまずいと思います。少なくとも私にはそう見えました。
そして『ザ・コーヴ』のようなものを批判したくなる我々についてよく考えたらいいと思います。彼らはほんとうにそんな「滅茶苦茶」なことを言ってるのだろうか? 私は哲学ってそういうお互いの敬意とか反省とかがあるもんだと思うんですよ。もちろん我々の能力には限界があるからそんなたいしたことはできないわけですが、そういう敬意だけはもちたい。
『美味しんぼ』について昔書いたのはこれ。書きなおしておくべきだったかもしれない。倫理学や応用倫理学の授業でもよく使ってるんだけど。書きなおすとなると面倒なのよね。
https://yonosuke.net/eguchi/archives/909
https://yonosuke.net/eguchi/archives/910
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