森田成也先生のセックスワーク論批判 (5)

森田成也先生の『マルクス主義、フェミニズム、セックスワーク論』での「売買春とセックスワーク論」の続き。

(4)で「性の人格性」とかって話が出てくるけどあとで議論するって書いたんですが、それは「『季刊セクシュアリティ』問題とセックスワーク論」という論文で詳しく書いたからそっちを見ろ、って先生言ってたので論文取りよせたりしてました。でもこの文章、先生がacademia.eduにアップロードしてくれてましたね。 https://bit.ly/2Pp6wUL

2010年に、『季刊セクシュアリティ』という性教育関係者用の雑誌で売買春の特集をしたけど、いわゆる「セックスワーク論」やセックス産業関係者に好意的だってんで、森田先生や中里見博先生ら、「ポルノ・売買春問題研究会」(APP研)を中心にした反セックス産業論者たちが雑誌に抗議を申し入れたという事情があったようです。知らなかった。これに対する『季刊セクシュアリティ』側の反応(浅井春夫先生)も興味深いのですが、とりあえず森田先生の論文と『マルクス主義〜』の検討おわらせておきます。

『マルクス主義〜』で森田先生は次のように書いてます。

……性をめぐる現代人権論の根幹にあるのは、性ないし性行為の持つ深い人格性の承認である。

私こういう文章の「人格性」がどういうことを言ってるかよくわからないんですよね。性(セックス)と人格は深く結びついてます、ということらしいんですが、どういうふうに結びついているんだろうか。2010年の森田先生の論文を読んだらわかるのかと思ったのですが、ぼんやりしているという点ではあんまり変わりありません。むしろ先生は、「性と人格は切り離せるはずだ!」っていう2000年前後によくやられた議論を批判するという形で性と人格は結びついている、ということを言いたそうです。

私が見るところでは、昔の論文( http://hdl.handle.net/11173/445 )でも書いたように、「セックスと人格は結びついている」という主張はいくつかに分類することができます。

(1) セックスは個人にとって重要である (2) セックスはその人の「人柄」「パーソナリティ」と結びついている (3) セックスはその人の価値(「格」)と結びついている (4) セックスはその人の尊厳と結びついている

(1)は問題ないし、(2)もまあどういう性欲をもってどういう性行動をとるかというのはその人のコアの部分の一つかもしれないと思います。(4)も、ぼんやりした言い方ならまあそうかな、という感じはあるけど、(3)は微妙なところがある。

森田先生の主張の一つに、レイプやセクハラが問題(不正)であるのは、女性の性的人格権が侵害されるからであって、貞操権や男性の所有権が侵害されたからではない、というのがあるんですが(森田2021, p.147)、まあ「貞操権」や男性の所有権はともかく、それが女性にとってあまりにもイヤなことであるからですよね。それは女性の意思に反したことであり、ひどく不快なことだから不正なのだ、という考え方で問題がないと思います。

ふつう人間はなにかを意に反して強制されない権利、自由権をもっていると考えられる。無理やりセックスされたり、電車でパンツに手をつっこまれたり、見たくもないポルノを見せられたりするのは性的な自由権に反するからだ、と解釈されていると思います。しかし森田先生たちは「人格権」という言葉を使う。これは実質的にどういうものだろうか?ふつう、「他人の人格を尊重する」というのは、まさにその人の意思や目的を尊重するということです。それではなぜ、セックス産業で働くことが「人格権」に反するのだろうか?

黒人差別とのアナロジーは成立しているか?

森田先生は、買春が人格権の侵害だということを、「人格」や「人格権」の中身をあきらかにして直接示すんじゃなくて、アナロジーで説明しようとしているわけです。ちょっと一個一個たしかめてみますか。

まず、森田先生は望まないセックス(レイプやセクハラ)と売買春が同じタイプのものだって考えてるみたいなのよね。レイプやセクハラは人格権の侵害であるから、売買春も人格権の侵害である、みたいな論法になってるのだと思う。

……性行為が単なる労働の一種で、そこに何の特殊性も存在しないとしたら、たとえば職場で、上司が部下に「俺と寝たら給料を上げるよ」と言うことは一種の取引関係の提示にすぎなくなり、セクシュアルハラスメントではなくなってしまうだろう。(森田 2021)

これ、慣れてないひとは「そうかな」って思っちゃいそうですが、へんな論法ですよね。まずふつうは上司は部下にセックスの対価として勤務評価する権限をもってないと思います。セックスしてくれたからとか、恋人だからといって業務を高く評価するのは、不公平で、会社や他の従業員に対する不正だ1。仮にこの「上司」が個人事業主だったりしても、会社で働いて給料をもらったり、業績を正当に評価してもらったりするために社員が社長とセックスしなければならないなんていうことを野放しにしていたら危険すぎます。われわれはそうしたものを許すべきではない。従業員はその会社の業務をして給料をもらうために会社で働いているのであって、セックスして社長の機嫌をとるためではない。社長がセックスをのぞまないような社員は不利益=差別を受けることになる、とかそんなことは言うまでもないし。そういうのは別の人を雇ってください!なんでこんなへんなアナロジーを使うのだろうか?

まあ(森田先生が好きな)非常に極端な空想的な事例を考えれば「我が社に入社してもらったら昇給のために社長とセックスしなければなりません」とかあきらかにしていたら別かもしれんけど、そんな会社に誰が行くかね。まあこんなこと考えなくても、(組織での権力関係を前提とする)セクハラやパワハラと売買春をアナロジーにするのはかなり用心が必要だ。

森田(2021)のはこのていど。詳しくは森田(2010)でやってます、ということなのでそっちを見ましょう。

森田先生はこっちでは一つおもしろいアナロジーを提出しています。もしアメリカで、白人雇用者が黒人従業員を「ニガー」と呼んで奉仕させ靴をなめさせたりするならどうだろう、セックスワークというのは男性が経済力で女性に屈辱的な奉仕をさせるのだからこれと同じだ、というわけです。

森田先生のこの仮想はおもしろいと思う2。反ポルノの人々はこういうのが好きですね。たしか森田先生の盟友らしい中里見博先生が、ポルノを「白人が黒人を虐待するビデオをこっそり見る」みたいなのと類比していたように思います。

キーワードは「屈辱」なんだろうと思います。白人の靴をなめたりするのと同様に、好きでもない人間にフェラチオしたりセックスするのは女性にとって屈辱だ、という発想があり、これはけっこうな説得力があると思います。

本来はやりたくないことをお金のためにやらされるのは屈辱であり(実は私ですらそういう経験ががあります)、人間の尊厳を毀損されることである、少なくとも強くそう感じられる、というのはこれはそう思いますね。そらくこれが、セックス産業に反対する人々の最大の論点なのではないかとさえ思います。

しかし、このアナロジーの難点をあげれば、まずは「やりたくないことを事情でしかたなくやる/いやだけどやらされる」にも程度の問題がある、ってことですね。医療や介護、清掃その他のいわゆるエッセンシャルワークみたいなのは多くのひとはあんまりやりたくないような業務を含んでいるわけですが、それでもその仕事に社会的な意義があり、それを自発的に選択するならばあんまり問題がないと考えられているわけです。そういう仕事は、多くの人に人気がないとしても、金銭的な報酬も含めて、当人にとって自分の全体的な価値観として見あうものならばそれにチャレンジしたいと考える人々はいると思います。

もう一つ、上の森田先生の黒人差別エンタメ業の雇用者や客というのは、まさに単に黒人差別をし、黒人を侮辱したいがためにその業界にお世話になっていると想定されているのだと思うわけですが、セックス産業が女性を侮蔑することを目的としたものかというと、それはまったく明らかではない。それはたしかに娯楽産業の一部かもしれないが、一部のひとにとってはもっとやむにやまれぬ基本的な欲求の充足の場かもしれない。もしそうだとすれば、それなりの社会的意義はあるのかもしれない。

ラジフェミ的には売買春どころか男女間のセックスの多くが、性的な欲求や必要性というよりは、女性を従属させたり支配したいという欲求を満足させるために行動である、すなわち差別行為そのものである、みたいに解釈する傾向があるわけですが、それってどうなんでしょうね。「セックスワーク論」の人々は客の方の欲求をそうは見ておらず、性的欲求という基本的な欲求のはけ口、みたいに見る傾向があると思います。まあこれはお客の心理とかそういう話なのである程度実証研究が必要だし可能なのではないかと思います。前のエントリで触れたワイツァー先生たちはそううした研究をしていて客もワーカー、サービスの形態も多様だ、っていう話をしていますね。

でもまあ森田先生のこの黒人差別アナロジーは、他とはちがってあるていどのレトリックとしての力があることは認めておきます。セックス産業におけるセックスサービスにはたしかに他の種類のサービスとはちがう面があって、これがなんであるのか、というのはいくつか案はあるのでそのうち論じたいです。

スティグマと人格

先の論文(森田(2010))で、「人格」という言葉が頻出するのは「スティグマ」のところで、これは森田先生が「人格」をスティグマと関係のある何かだと考えていることを推定させます。私の読みでは、森田先生の「人格」はおそらく「人間の格」、なんらかの人間の価値という意味の人格じゃないんかな。人間の(社会的な)価値、他人からの評価なのかもしれません。

実はここの議論はめんどくさくて、セックスと「人格」の関係は、90年代後半から2000年代にかけて、社会学の先生たちを中心に「性=人格論」というかたちで議論されたんですよね。私はあれも筋が悪いと思っています。昔書いたブログはこれ → https://yonosuke.net/eguchi/archives/830

森田先生は直接にはこの日本の社会学者の先生たちの「反・性=人格論」をさらに反駁するという形で「性=人格」論を展開したいようです。

んで、中身を見ると、(1)はいわゆる「性的モノ化」論で、社会的スティグマがなくなってもモノ化の不正さは残ります、って話のようです。これはOK。さらに(2)セックスと人格を別のものと考えるとますますセックス(そして人格の)の性的モノ化になります、かな。(3) 口ではセックスと人格は別っていったって、心理的にはみんなのなかで結びついてるっしょ、かな。(人格ってなんだろうね)こういうの見てると、カジュアルセックスや、売買春とはいえないけど対価をもとめてのセックスとかは人格を毀損しますか、みたいなことを聞いてみたくなる。また、(4) セックスと人格を関係ないと考えると女性を搾取しようとしているピンプとかを利する。(5) 社会的強制による「自発的」モノ化を当事者の意思によるものとみなして、スティグマをむしろ強化する。こんな感じでしょうか。

この「スティグマ」の節の最後がセックスと人格の関係に関する結論っぽいのですが、やっぱり「人格」ってなんであるかははっきりとはわかりませんでした。

彼女ら〔セックスワーカー、売春者〕は、ジェンダーの不平等ゆえに人格的なものとしての性を日々侵害されている(されてきた)被害者であり、そうした被侵害行為を日々生き抜いている(生き抜いてきた)サバイバーであると認識される。

買春されることによってワーカーは人格を日々侵害されている、とくりかえされるばかりです。なぜ売買春が人格を侵害する/されることなのだろうか。

やっぱり私には「人(女性)の価値」という雰囲気があるように思えます。セックスを「売る」人、セックスを「買われた」人、それにおそらく感情的なつながりのない性的経験が多い女性は、人として、あるいは女性としての価値が下がるとか、そういう発想が背景にあるように見える。

さっきのアナロジーを利用して、もっとものすごく好意的な解釈をすると、屈辱的な経験を受けてしまったり、それを甘んじて受けようとする人はそれによって人格を回復不可能なかたちで毀損される、とかそういうことかもしれません。これはもとの社会学の先生たちの「性=人格論」批判でとりあげられていた問題で、「性=人格論」よれば、レイプとかの性暴力にさらされたひとは不可逆なかたちで人格を毀損される、みたいな議論になるんだけど、おかしいですね、という話です。それってパーソナリティでもキャラクターでもない「人格」、「人物の(値段に準じる意味での)価値」の意味でしかないように思う。そしてそう考えるのはおかしい。

まあ、愛情その他を抜きにセックスする女性が女性としての社会的価値が下ると思われている、みたいなのはそうだと思うんよね。でもそれをそのまま当然視や正当化して大丈夫でしょうか?たしかに現代社会においては、セックス産業で働く人は、おそらく男性からはコミットメント関係の相手としての価値が若干下がるかもしれないし、女性からも(前にバウマイスター先生に関するエントリで書いた)セックスの価値を高くしようとする女性カルテルに反するセックスダンピング行動として非難されるかもしれない。しかしそれが「人格」とかっていえるものだろうか?

森田先生はマッキノン先生あたりの売買春もポルノもセックスも男女不平等の結果、っていう想定をまにうけすぎてると思う。なんでもそれで説明しちゃう。女性の自由意志なんてのも認めないわけだし。そして不平等の解消は人々の自由に優先すると考えている。人々を各種の強制によって「平等」にしようとしている。私はこれはそのままでは認めたくないですね。

前にも貼ったけど「性=人格論」については論文書いてます。

上の森田先生の論文とまったく同じ時期で、参照したかったなあ。

脚注:

1

大学教員がお気に入りの学生様とかの点数を高くしたりするのも当然不正です。

2

あくまで思考の上での類比としての話。正直なところ、こういう類比はけっきょくセックスワーカーの人たちは人種差別主義者みたいなへんな奴らの邪悪な欲求を満してごきげんうかがうために靴の裏を舐めるような仕事であり、客のほうも女性にそうしたことをさせて満足するような連中だ、と森田先生が考えていることを示していて、私自身はこうした類比は非常に不適切で不快で、侮蔑的なものだと思います。

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