クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』はたしかにモヤモヤする (1)

ベンジャミン・クリッツァーさんの二冊目の本『モヤモヤする正義』が出版されて、社会やネット社会における正義/正しさについて考えておられてたいへんめでたい。買ってあげてください。クリッツァーさんとは少し面識もあって応援しているのですが、今回はちょっとモヤモヤする論説になってしまっているので、少しずつコメントしておきたいと思います。

この本は、「まえがき」にあるように、「正義についてわたしたちが抱くモヤモヤ」にとりくむ本です。「わたしたち」は誰か。おそらく「すこしでも物事を正しくして社会を良くする」ことを願う人です。賛成です。社会は欠点が多いので、すこしでも改善しましょう!

ただしこの本には批判するべきターゲットになる人々がいるようで、それは「女性たちを「感情的」と罵り彼女らの意見や主張に向かい合わず、自分たちのことを「理性的」だと思っているが実際には理不尽で独り善がりになっている男性たち」p.7です。これは実在の人物(学者やライター)がいるなら明示してほしいところですが、まあ事情によって明示はできないのでしょう。これはいろいろしょうがない。んじゃはじめましょう。

第1章キャンセルカルチャー

1-1では、いくつかの事例があげられます。「キャンセルカルチャー」の定義はしっかりしていていいですね。

この言葉は……著名人の過去の言動やSNSの投稿を掘り返して批判を行い、本人に謝罪を求めたり、出演や発表の機会を持たせないようにメディアに要求したり、その地位や権威を剥奪するよう本人の所属機関に要求したりする運動のことと、そのような運動が活発の行われるような「風潮」や「文化」のことを指して使われる (p.18)

海外ではウディ・アレンとJ. K. ローリング、国内では東京オリンピックで「キャンセル」されたミュージシャンの小山田さんや、コメディアンの小林さんが例になってます。ネットではもっと話題になった強烈な例がいくつかあったような気がしますが、まあ今回はおいときます。

1-2ではインターネットに特有か?というと、以前からあった話だ、ということが指摘されます。ただし、 具体例はない

1-3では、「キャンセルカルチャー」が非難する側からのレッテルとして使われていることが指摘されます。クリッツァーさんとしては、キャンセルにはいいところがあった、という評価のようです。

リベラルであろうが保守であろうと、わたしたちは過去に実践されてきた民主主義運動≒キャンセルカルチャーの恩恵を受けながら生きている (p.27)

これはかなり強い主張のように見えますが、これも 事例の表示はなし 。この主張の成否は、「キャンセル(カルチャー)」の定義にも依存するわけですが、そうした運動が本当に民主主義に役立ったことがあったかどうか、私はすぐには具体的な例はあげられません。クリッツァーさんはどれくらいあげられるだろうか。それに「民主主義」に役立ったキャンセルがあったとして、たとえば小山田さんやローリングさんの「キャンセル」と共通している部分はどれくらいあるだろうか。

2-1ではキャンセルカルチャーのよくないところとして、それがデュープロセスの侵害であることが指摘されています。これは妥当な議論です。ただし途中で、「民主主義的な営み≒社会的制裁」(p.32)という文言が出てきて驚きます。これはp.31で

「前節では、他人に対するキャンセルを求める行為を「民主主義的な営み」と表現した……同じ行為を「社会的制裁と表現すれば」

と記述しているところを受けてるわけですが、「キャンセル」(カルチャー)が民主主義的であるっていう大前提の説明がないのでよくわからない。本当にそれ民主主義的ですか? たとえば古代アテネであった陶片追放が「民主主義的」だ、っていう意味ぐらいならわかるんですが、ふつうの民主主義ってデュープロセス遵守は絶対の条件なんじゃないでしょうか。これはけっきょく、クリッツァーさんが「民主主義」をどう理解しているかに依存します。 陶片追放やソクラテスの民衆の多数決による死刑でさえ、いちおうルールは決まっていたはずですが、ネット民のキャンセル要求と、当該組織による実際の雇用キャンセル(国内で実際に生じた!)にルールや基準がありますか?そんなことさえ考えない「民主主義」にどんな価値があるのでしょうか。

2-2では「#MeTooの功罪」として、#MeToo運動は法律と価値観の両方を変えた、その変化は基本的には良いもの(p.34)だという評価があります。これもそんなに簡単に言えるのかどうか。どういうよい変化があったのでしょうか。説明はなく、直後に、しかしデュープロセスは大事だという話にもどります。

2-3は社会的制裁が恣意的ないじめになるという危険を論じています。ここはまともですね。けっきょく実際に「キャンセル」されてしまうのは、ほぼ弱者だけなのです。

3-1では、アリストテレスの「中庸」が論じられます。まあ過激なのはだめですね。 そして3-2では「称賛のためのネットリンチ」が論じられます。我々は他人から称賛されるために、「美徳シグナリング」としてネットリンチに加担してしまうのです。たいへん危険ですね。

3-3では「ふつうの人がネットで他人を非難しない理由」として、他人を非難することにはコストやリスクがつきまとうから普通の人はそんなに簡単に他人を非難しないのだ、と説明されます。これもまあそうなんでしょうね。この節の最後で、「ネット上では毎日のように繰り広げられている光景なのに、現実の世界における自分の周囲でキャンセル行為に加担している人の顔はさっぱり思い浮かばない」という一部がありますが、これ本当でしょうか。私が呉座さんのキャンセルに、名前を知っている人々が大量に含まれていてショックでしたよ。

3-4では「キャンセルに加担しなければそれでいいのか」という話になります。そしてその結論は、

「「おかしな人たち」によってなされているキャンセル・カルチャーは、弊害を生じさせると同時に、世の中を良くしている面もあるのだろう」

「おかしな人のおかげで救われる人がいたり社会が改善したりする可能性について、そして自分が民主主義的な営みにタダ乗りしてしまっている可能性について、考えを巡らせてみるべきだ。」p.50

という結論でむすばれます。ここまでの論旨をたどると、「おかしな人」はおそらくアリストテレス的な「中庸」をめざさない人々、美徳シグナリングをすることがある人々なんでしょうが、なにより、 「キャンセルカルチャー」がどういう良いことをしているのか の説明がまったくなくてショックを受けました。それはほんとうによいことをしているのでしょうか。けっきょくこの章は、 クリッツァーさんが考える民主主義の定義、および「キャンセル」が実際によい影響をおよぼした事例が欠けています

そういうわけで、わたしとしてはたいへんモヤモヤする章だったのですが、しばらく時間をかけて読んでいきます。おそらく私のモヤモヤは次第に晴れていくはずです。

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