『猿の惑星』についての私の感想もやっぱり最高じゃないだろう (3)

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退場した人物に注目すると見えるもの

あと惑星に不時着する前の宇宙船で、乗組員で唯一の女性のスチュアートが死んじゃうじゃないですか。特にそのことが回収されることもなかったので、いったいなんだったんだ? と思ったんですよね。

しかも、そのあと現地人と初めて遭遇したシーンで、乗組員で黒人のドッジが猿に射殺されていますよね。つまりこの映画って、白人男性以外はすぐ退場させられているんですよ。

これってプロット上、女性や黒人がいるとまずかったってことだったんじゃないですかね。猿によって差別される人間がいて、そのなかで男性と女性、白人と黒人の間の差別を描く、という難しいテーマに取り組むのを避けたのかもしれません。

そう、白人女性も、黒人男性も退場させられ、もう一人の白人男性も脳ミソ切り取られちゃう。1 まあそういうわけで、いちおう人種性別わけへだてなくひどいめにあってますね。いかにもな白人男性だけ生きのこってるわけですが、まあそれは主人公をどうするかって話になり、60年代ハリウッドだったら白人男性残すかな、って感じですかね。もちろん白人女性を残してもいいし、白人男性のかわりに黒人女性を加えておいてその人を主人公にしてもいいわけですが(あるいはラテン男でもでもアジア女でも中東ノンバイナリーでも)、当時としては先進的すぎますかね。

とにかく(ハリウッド)映画というのは2時間ぐらいのあいだに観客を楽しませないとならない、という外的な制約があって、いろいろそうした制約との戦いであり、選択だと私は考えています。

基本的には私が理解するところでは、主人公以外の3人は科学者であり、黒人も女性もちゃんとした科学者であり2、科学者が科学調査するときはグループでやるものだと思うんです。だからまあ4人いて3人殺しちゃうっていうのも筋としてはそんなに悪くない。「描くのを避けようとした」っていうのもあるかもしれないけど、2時間ではそんなに描けないんじゃないでしょうか。スタートレックみたいなテレビシリーズだったら時間を気にせず描けるわけですが、白人と黒人、あるいは男性と女性の「差別」の話がこの映画のテーマだ、っていうのは本当だろうか、って考えてみてもいいんじゃないでしょうか。

昔の映画なんで、こういうふうに「男女/人種がアンバランスだ」ってやるのは ものすごく簡単 なんですよ。白人男性が主人公だったらそれだけで「描いてない」になっちゃいますもん。簡単すぎます。1960年代ぐらいまでなら、映画を実際に見なくても「性差別的だ」「人種差別的だ」って言えちゃうじゃないですか(少なくとも、「差別」じゃなくて「白人男性中心」だったら、見なくてもまず当たる。そういうものに価値があるのかどうか……そういう「感想」が重要なら、そもそも見る作品が間違ってんじゃないですか)。

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脚注:

1

インターセクショナリティからすると黒人女性も存在しているべきだったか……んじゃアジア系男女も……

2

1970年代から現在に至るまで、映画では科学や分析的な仕事をする人はあえて黒人や女性に割りふられることが多いと思います。この映画でもその程度の配慮はしている。

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