フィガロの結婚からケルビーノのアリア二つ

大人数の教養科目みたいなので1時間半の授業は長いので、途中で5分ぐらい休憩して音楽とか流すことがあるのですが、今日はフィガロの結婚のケルビーノ君で。この人は思春期にはいったところの美少年お小姓って設定ですね。年齢は知らないけど14才ぐらい?15才?まあイケメンだからなにしても許されるわけです。

「自分で自分がわからない」

歌詞とかはこの歌詞対訳プロジェクトさんがすばらしいですね。→ 自分で自分がわからない

「愛」 amor って言葉を聞いただけで興奮するんですわ、ってときのこのアモールは、単にあこがれてますとか好意をもってます、とかそういうアモールじゃなくて、もっと女性の身体に対するアモールですわね。なんかしらんけど女の体を見るとどんなのでもむらむらして自分がよくわからなくなるのです、へたすると犯罪してしまうかもしれません、どうしたらいいでしょう、ぜんぜん経験しことのない感覚なのです、でも相手がいなくてしょうがないので自分に対して「アモール」を語りますよ、見ててもらえますか、みたいなそういうやばい感じ。でも美少年だから許されてしまって大拍手をもらうわけです。これはやばい。

モーツァルトの音楽はもちろん天才中の天才で、長調と短調がいったりきたりするのが心理的・生理的な浮き沈みを反映していてあれですね。こういう短調(マイナー)なのに性欲をのっけるっっていうのはここらのモーツァルトから、70年代の歪んだギターロックまでずーっと続きます。天才。

「恋とはどんなものかしら」→対訳プロジェクトの歌詞はこっち

これは美少年ケルビーノ君、さっきよりすこし成長している感じですよね。別の演出ではありますが、さっきのシーンのケルビーノ君は多動がはいってるかんじで体を動かすのですが、このシーンいろいろあって軍服みたいなの着てお行儀よく歌う、っていう演出が多いように思います。

さっきの「わからない」のときは実際なにもわからないで興奮して自分にアモールしてたのですが、このタイミングでは少し相手がさだまってきて、行儀よく、「ご婦人がた」っていってスザンナさんと伯爵婦人に「アモール教えてくださいよー、もう自分に語るのやめて外に向かってアモールなんすわ、自分以外とアモールしたいのです、どうにかしてください奥さん、おねがいしますよー」っておねだりしてます。やばい。でもやっぱり美少年だから大拍手。これくらい行儀よいと伯爵婦人も「まあお歌がうまくなりましたね」ぐらいのことは言ってくれるわけです。それが何を意味するのかはよくわからない。

まあオペラとかこういう下品なもので、お上品にスーツにネクタイ、ドレスとか着てこういう下品なものを見てうふふ、って言うものなわけで、なんか西洋人やばいですよね。

このケルビーノ君のみさかいのない性欲、っていうかまだ対象がはっきりしてない性欲については、キェルケゴール先生が『あれか‐これか』のなかの論文で詳しく論じているのですが、ふつうは読んでもなにやってるかわからんと思います。

日本でキェルケゴールが有名なのは、下の河上徹太郎先生の『ドン・ジョヴァンニ』で紹介されているからですが、これもそんな読みやすいものではないかもしれない。キェルケゴール解釈としても微妙かな。でも音楽ファンなら目を通しておきたいですね。

この本は読みやすくていいですよ。おすすめ。

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