「レイプ神話」での性的動機 (11) おまけ: 「定説」とミル先生のお説教

私はフェミニズム思想みたいなのに魅力も感じれば反発も感じていて、まあだらだら読んだり駄文書いたりしているわけですが、今回みたいに「性欲では支配欲」みたいなフェミニスト的スローガンが「定説です」という形でネットや論文で出回るのを見るとき、いつもミル先生のことが思い浮かぶのです。まあいつもミル先生の話になっちゃうわね。いつも書いてることです。

ミル先生は『自由論』で言論の理由が必要な理由として、(1)まちがってると思われてる意見も実は正しいかもしれない、(2)実際に全体としてまちがってる意見も、たいてい部分的には正しい洞察を含んでいて、それは真理や正しい意見をより補強し完全なものにするのに役立つってのをあげてます。まあここらへんは誰でも思いつく。私が好きなのはそのあとの二つ、(3) 討論しないと自分が信じていることの根拠がわからなくなる、(4) 討論しないと正しい意見の本当の意味が忘れられてしまう、ってやつです。

(3)の方は、自分と対立する立場の人と討論するような場合に、はじめて我々は自分の意見の根拠っていうのを見直すことになるわけですよね。相手から攻撃されたら「こういう根拠がある」って提出しなきゃならないし、相手を攻撃するためには、相手の根拠を知らなきゃならない。

自説の根拠しか知らない人は、その問題についてほとんど何も知ってはいない。もちろん、自説の根拠としてあげる点は適切な場合もあるだろうし、誰にも論破されていない場合もあるだおる。しかし、その人も論敵の根拠を論破できないのであれば、あるいは論敵が何を根拠にしているのかすら知らないのであれば、どちらか一方の意見を選ぶ理由はもっていないのである。合理的な立場をとるのであれば、どちらの意見についても判断を留保するべきであり、それでは満足できない場合には、権威にしたがっているのか、世間の人たとがそうしているように、自分の好みにいちばんあうと感じる意見を選んでいるのである。(斎藤訳pp.85-86)

まあ他人の意見をよく考えてみる機会がないかぎり、我々はたんに、自分の好きな意見、耳ざわりのよい意見、自分たちに有利な意見、好きな人が言ってる意見を採用するだけですわ。

(4)の方はもっと深刻で、意見がたんなる表面的な言葉になってしまう。

活発な論争がない場合、意見の根拠が忘れられるだけでなく、意見そのものの意味も忘れられうことが多い。意見を伝える言葉が何の理念も示さなくなるか、当初に同じ言葉で伝えられていた理念のうち、ごく一部しか示さなくなる。活き活きとした概念と信念が失われ、いくつかの語句が記憶されているだけになる。ある部分が生き残るとしても、意味の真髄は失われて、抜け殻だけが残ることになる。(斎藤訳 p.91)

私が授業で例にあげるのは、たとえば法然さんとか親鸞さんとかが「修行しなくても南無阿弥陀仏ってとなえただけで極楽往生だよ」「実は念仏となえなくてもそれでも極楽だよ」みたいなことを言ったとき、それまでの修行仏教とはぜんぜん違うことを言ったわけですよね。異常思想。おそらく彼らとその弟子たちは、自分たちの教義や、「南無阿弥陀仏」っていう念仏についてものすごくよく考えたはずです。そして「南無阿弥陀仏」と唱えることは、まさにその信念を実行することだったと思います。気合はいってる。他のセクトから攻撃されるからみんな勉強する。

でも時代がくだって念仏(っていうよりその言葉)が一般的になって、社会的にに承認され、地位も安定すると、もうあんまり勉強する必要がない。誰も攻撃しかけてこないから。そうこうしているうちに、「南無阿弥陀仏」っていうのは単なる言葉になる。それを唱えることが自分や社会にとってどういう意味かわからなくなる。「誰かがおなくなりになったときはなむなむと唱えればよいのだ」ぐらいね。

「性欲ではなく支配欲」って言われたって、おそらく、「いやでも時々さわってみたいような気がするときがあるなあ」「スカートのなかがどうなっているのかやっぱり見たい」「でもとくに支配したいってほどではないな、むしろ圧倒的に支配されてる気がするなあ」みたいな実感はあるわけで、そういう実感をほっといて、「定説だから支配欲です」みたいなお念仏唱えてもなんもならんわけですよ。数学や自然科学みたいなのはともかく、社会的な問題について「定説」のようなものが成立して、その根拠が忘れられるときこそ危険だ。

「定説だからそういうもん」とはしないで、実感と照らしあわせてみたらいい。「定説」が実感とちがってたら、その根拠を探しにいけばいい。いったい誰がどんな根拠でいいはじめたのか、その背景にはどういう問題があったのか、反論はどのようなものがあるのか、現代ではどう評価されているのか。ネットで「その根拠はどこらへんにありますか?」「ソースは?」って(ていねいに)聞いてみるのも、相手に余裕があればいいでしょう。そのときにソースのヒントぐらい出してくれない人は、まあ少なくともアカデミックな態度、つまり真実を探そうとしている人ではないような気がする。(でも有名人とか忙しい人にあんまりつきまとってはいけませんよ。)

とにかく大学生ぐらいで社会的な問題に関心のある人は、『自由論』だけは読んでほしいです。とりあえず第2章と第3章だけも十分。光文社のやつは安いし読みやすくてよい。岩波のでも中公のでもよい。夏休み残りの1、2週間でぜひ読みましょう。

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