シジウィック先生にセックス倫理を教えてもらおう (3)

んで、ここまではまあふつう。実はこのあとがおもしろい。でももう疲れちゃったから(やっぱり訳は借りるべきだった)簡単にするです。

当時の西洋でも男性の不貞や買春は公には非難される、世間通(men of the world)の男性は、それは本当はそんな悪いもんでもない、みたいなことを言う。こういう偽善っていうか、本音と建前のように規範が二つある状態になってる。これはなぜだろうか、と。

シジウィック先生よれば、一つには、若い男性の性欲を抑えるのは実質的に無理だと(一部で、あるいは一般に)考えられていて、まあ裏でこそこそやって家族の幸福には影響ない分にはゆるしてしまっても便宜にかなっているからだ、とか言われる。もう一つには、そういうセックスが売買春のような形でやらられるぶんにはあんまり害悪がなくて、むしろ全体の幸福を増やしているかもしれない、と。買春する女性の生活も、もっと恵まれない階層の女性と比較してそんな悪いとはかぎらない、みたいなことも言われる。

ただこの(エセ)功利主義的な見方はおかしくて、それが一見してうまくいってるように見えるのは、売春者に対する厳しい道徳的非難があるから女性がそうした職業につかないためだし、不倫とかも家族の維持に支障がない程度に世論によって抑制されてるからだよ、それを忘れてはいかんよ、と。どうも功利主義的にはやっぱり夫婦間の愛情は大事だし、そのため純潔とか貞操とかって大事だよ、世間通の人々の言うようなことは実は功利主義と同じではないってな釘を刺してます。

あと不倫にまつわるセックス道徳については奇妙なことが一つあって、それは浮気とか不倫とかいやらしいものはだめだっていう感覚はものすごく強烈なのに、どっからが非難されるべき不倫かとか、どっからいやらしいものかとかってのの境界がぼんやりしていて、あんまりはっきり決まってない。同じ西洋キリスト教国でも、文化によってずいぶん違う。なんでなの、と。これも功利主義からすればうまく説明できます。不倫その他のセックスに関する不品行を引き起こす誘引みたいなのは服装とか行動とかいろいろあって、それを一律に決めることは不可能だから、だいたい邪悪なエッチな欲望を引き起こすものはつつしまれるべきだって考えられるようになって、どこからがエッチでだめなものになるかってのは時代や文化でちがってきます、みたいな。

まあこんなふうにして、常識道徳みたいなのの大部分は功利主義と矛盾しません、むしろなぜそういうことになっているのかを説明するのは功利主義です、みたいな結論になるようです。

シジウィック先生の売買春に対する見方はもうちょっといろいろありそうな気がしますね。「売春者・不倫者非難みたいなのがあるから社会がうまくまわっているように見えるのだ」みたいなところは、現代の論者だったらもっとつっこんで議論するところだろうと思います。売春者に対する道徳的非難とかどの程度正当化されるのか。一部の人を犠牲にして社会全体の幸福を増進させるってのはどうなのか、そこらへんシジウィック先生の態度がはっきり見えないところがある。おそらく功利主義的にはもっとはっきりした答がありそうではあるんだけど、まあここは常識道徳を功利主義で分析・擁護するみたいなところなのでそれ以上のことはつつしんでいるのか。

まあとにかくシジウィック先生ありがとうございました。またよろしくおねがいします。

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