ポップスの歌詞の鑑賞レクチャー: aikoの「初恋」

最近とある事情でaikoの「初恋」を聞いて歌詞を分析してみる機会があったのですが、私がどんな風に歌詞を読んでいるのかってのをちょっと書いてみたいと思います。

PVは にあるみたいだけど再生できない。

歌詞は http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=66030 にあるけどコピペできないようにしてるようです。面倒ですね。著作権制度はもうちょっと考えた方がいいのではないかという気がするけど、まあそういうのは置いといて。

この曲については実は石原千秋先生という偉い文学の先生が、『Jポップの作詞術』分析を残しています。もとは高校生向けのフリーペーパーみたいなのに載せてたらしい。これをネタにしてやってみましょう。

石原先生は各曲から三つキーワードをとりあげて解説して、文学作品の読解とかにかかわるコラムを二つ書くって形でやってます。まずこれを検討してみましょう。

石原先生がこの曲のキーワードに取りあげたのは三つ。「妄想」「守ってあげたいな」「わざと」。

あ、ここでちょっと注意しておきたいことが一つあります。中学~高校の現国の教科書や授業とかでは、「キーワードを探しましょう」「指摘しなさい」みたいな課題があるみたいですが、キーワードっていうのは探す前にすでに答が決まってるわけじゃないのね。「あなたが注目した言葉」がキーワードなわけです。読む人の数だけキーワードはあるわけで、そういうんでは「キーワードを答えなさい」みたいなんは馬鹿げている。数も決まってるものではないし。私は石原先生とはぜんぜん違うものをキーワードにしますね。あとで挙げます。

まあとりあえず、石原先生によれば、まずこの曲の作詞者(AIKO)は「妄想」っていう言葉でまずこれが性的なことにかかわる歌だってことを示している。

「恋」と「妄想」なら、結論はアレだ。そう考えて歌詞を読んでいくと、「指が触れた」だけでちゃんと「体は熱くなる」。コレがまったくなくては恋としての魅力が出ないし、露骨に出せば品がなくなる。いかに上手にアレを隠すかが、「初恋」というテーマのミソだと言える。(p.14)

これはまあその通りですね。石原先生は高校生向けに「アレ」の話をするのに苦労している。

二つめは「守ってあげたい」。石原先生は歌詞の主人公が、「よくわからない感情を「母親」の感情に重ねて、自分自身で理解しているのだ」(p.15)と読んでます。

三つめは「わざと」。わざと指に触れることで「相手に振り回されていただけの女の子が、自分から恋を仕掛けられる」(p.15)ようになったと石原先生は解釈してます。

二つのコラムでは、この歌詞が、「成長」というすでにある物語の型にそって成立していること、矛盾した言葉をつなげることによって聞く人や読者の解釈の幅を広げるようにできてることが指摘されてます。

まあこういう読み方は好きなのですが、この歌詞は本当に「少女から(想像上の)母親へ」とかそういう物語の歌なのかな?私はぜんぜん違うと思いますね。

キーワードは石原先生の通りでもいいんだけど、私が三つあげるなら、「指が触れた」「知らなかった感情」「小さな体」の三つかな。

曲を鑑賞する際には、まずとりあえず曲を聴くことからはじめなきゃならない。現代詩とかは読まれるだけですが、歌は聴かれるものだ。メロディーラインや曲の構成を意識しないとまちがっちゃう。んで「初恋」聞いてみると、イントロのギターの凶暴さに圧倒されるはずだわね。作詞作曲はAIKO(作詞作曲は大文字でクレジット)ですが、編曲は島田昌典先生ですか。プロフェッショナルですね。

このギターから「母親」を連想するのは無理ですわね。私には獣が暴れているように聴こえる。まあ一般にロック/ポップスで歪んでサスティンの長い伸びるギターってのは、石原先生の言う「アレ」の象徴ですわね。典型はプリンス殿下のパープルレインですが、ジミヘンとかレッドツェッペリンとかそこらへんからもう本当に長い歴史がある [1]別に悲嘆を表す伝統もあります。 。メロディーラインも上昇一方に高まってく感じで異常な感じがします。

まあ実際私が聴き読むところでは、この曲はまさにアレの曲なんよね。最初は偶然指が触れてウハッとなって、次は「不器用なりにわざと指に触れたとき、小さなあたしの体は熱くなる」。この「小さなあたしの体は熱くなる」が誰も間違えようのない曲の頂点 [2]追記。どこに曲の頂点があるのかってのはやっぱり重要だと思う。そういや昔「野ばら」について とか書いた。 。そのあとにやっぱりギターが暴れて、aikoもアッハンウッフン言ってるわけで、これが「母親」なんてものだとはどんな意味でも思えない。「おまえの熱くなった小さな体ってどこやねん、言ってみい!」とかたずねるとセクハラになりますね。「知らなかった感情」は(ささいな出来事として/わざと))「指が触れた」ことによって引き起こされた性欲そのものだろう。私の解釈だと、主人公は中学~高校1年程度、学校かバイト先の相手を最初は見てるだけだけどなんかちょっかい出されて指さわられてウハっときて、自分からも指からませたりして。まあ指とかテーブルの下の足とかでそういう反応しちゃうと、結果はあっはんうっふん以外にはありませんわね。ここらへんが石原先生のいう「主体」。先生は高校生向けにぼかしてるけど、「性的な主体」ですよね。自分からセックスしに行く、そういうちゃんとした現代的少女~女性。

一般に、暴れたギターソロの間奏はなにか言えないこと/歌えないことの時間の経過を表わしています。もう言葉にできない世界を楽器が引き受けるのが伝統。そのあとも「あたしはこれからもきっと」はなにかが起こったあともこれからね。「これ以上もう2人に距離が出来無い様に」はまあ1回距離0cmになってみたんでしょう。

だから、石原先生があげてる「成長」っていう物語はおそらく正しいけど、「母親」とか関係するんじゃなくて、おそらく少女から性的に自覚的な女へ成長したことを歌ってるんですわね。

問題は石原先生がひっかかった「守ってあげたい」なんだけど、私はこれ石原先生のように文字通りには読みませんね[3]追記。一流のアーティストはクリシェもふつうには使いません。。そもそも石原先生は歌詞カードにひっかかってる。石原先生が挙げてる歌詞カードでは「あなたを守ってあげたいな/あたしなりに知らなかった感情が生まれてく」になってるけど、これじゃ「あたしなりに」が「知らなかった」か「生まれてく」にかかってるのかわからん。「曲をよく聴くと、この部分は「あなたを守ってあげたいな、あたしなりに/知らなかった感情が生まれてく」なんよ。歌詞カードのようにメロディーをまたいで意味の通じるフレーズを続けることは滅多にないんじゃないだろうか。

さて、少女が知らなかった感情とは何か?「守ってあげたい」とかってのは少女はよく感じるものじゃないですかね。人形とか猫とか犬とか赤ちゃんとか。そういう感情を知らずに少女が生活しているとは思えない。この「守ってあげたい」は人形や猫や犬や赤ちゃんに感じるのとは違う、ずっと見つめてたり指が触れたりした相手に対して感じる「守ってあげたい」なわけで、ここに女性の攻撃的な性欲を感じますね。「あたしなりに守りたい」。もしかしたら、もとはもっと露骨な歌詞だったのかもしれず、それを見かけの上で上品にするために「守ってあげたい」にしただけなんじゃないかね、って私は考えちゃう。「あたしなりに、あなたを喜ばせてあげたいな」とか「あたしなりに、あなたをウハウハ言わせたい」とか、まあそんな感じ。まあ「とりあえず一回やりたい」では歌詞にならんです。

まあ私の解釈では、曲想からしても歌詞からしても、これは初恋というよりは初性欲の歌ですわね。それまで漠然としていて、対象の定まってなかった性欲が、特定の相手を見つけてそれだと自分にもわかる状態になった、そしておそらく実行した、それを歌った歌。いやまあ恋と性欲の区別がないところがすばらしいとも言える。もっと別のタイトルの方が適切かもしれないけど、あえて「初恋」にするところがaikoというアーティストの意志とか覚悟とか感じてそれはすばらしいと思う [4] … Continue reading

まあ石原先生は「守ってあげたい」に目眩しされてしまったか、あるいは媒体読者が高校生であることを配慮してなにかを抑えたかどっちかでしょう。私の見るところでは、ポップスの歌詞っていうのは、性欲とか憎しみとか嫉妬とかそういう下品ではあるけれどもどうしようもない思いをどうやってポップで口あたりのよい曲にして聞かせるかってので、鑑賞する上でもそういうのをよく考えて聞きたいっすね。その方が楽しめる。

女性の性欲をあつかった歌では”Feel like makin’ love”ってのが有名だけど、これはかなり成熟した女性の歌だし、国内ではこういう少女が最初っから積極的なのはあんまり見たことないですよね。そこらへんがaikoの魅力なんだろうと思う [5]でも正直わたしはよくわからんです。

コメントにお答えして追記

あ、すぐにコメントいただきました。私の書いたものにコメントもらうなんてめずらしい。うれしいなあ。

はじめまして。

歌の分析、なかなかいい感じでした。他人事に分析があるのは当たり前ですから、あなたの分析には素直に面白かったと思いますよ。ただ、私のはあくまで「歌詞」の分析ですから、観点が違います。その点は、きちんと書いてほしかったなあ。

不思議なのは、ある分析に別の分析を批判的に対置する当たり前の批評行為がなぜ「ディする」と表明されるかです。あなたは、批評と批判の区別が付いていないのではないでしょうか。

どうもありがとうございます。ありゃもしかして石原先生ご本人かしら。だったらすみませんすみません楽しく読ませていただきました。先生本人じゃなくてもなんか不愉快な思いをさせたらごめんなさい。でもまあとりあえず石原先生本人かどうかってのとテキストは切り離して考えたいと思います。

石原先生の立場は「テクスト論」で、生身の作者とテキストを切り離して、テキストだけを見るって立場なんですよね。作品のテーマみたいなんも作者の「意図」みたいなのと関係なく、読者の方でテキストから読みとれるものを勝手に読みとるってわけで、こういうのは私は好きですね。

また石原先生のこの本での分析が、「「国語」という括り」でのもので、「……僕にその能力もなかったから、メロディーラインへの言及はいっさいなく、歌詞だけの分析となった」(p.8)ってのも残念だけどやむをえない選択であるかと思います。

私にとっての問題は、そういう「いくらでも自由な解釈が可能である」とか「ポップスの歌詞は楽曲と切り離して論じることができる」ってのがどうなんかなあ、ってことで。私は文学批評とか文学鑑賞とかそういうのはまったく疎くてよくわからんのですが、少なくとも歌詞を楽曲から切り離して論じちゃうのはどうなんだろう、それはおかしいのではないか、という批判として上を書いたつもりです。「解釈は多様でかまわない」って方はちょっと微妙。それでいいと思うんだけど、「より優れた解釈」みたいなんはあるんではないかという気はするですね。

私の言いたいことは、歌詞の分析をするときに楽曲の構造やメロディーライン、バックのコード進行、アレンジなんかから切り離してしまうとあんまりよい鑑賞にならんのでないか、ってことですわ。とんでもなく勘違いした解釈をしてしまう可能性がある。

実は昨日は面倒で途中でやめちゃったんですが、他にもこの曲はいろんな仕掛けがしてあって、さすがにNo.1ヒットになる曲は凝ってるものだな、とか思いました。ちょっとだけ書いときましょう。

  • 曲の構成はA B C(サビ)、A B C、A(間奏) B C って形になってる [6]ちょっと不正確です。数えるの面倒だからあとまわし。
  • Aの部分のコード進行がかなり異常で、Bm7 C#m7 CM7 Bm7 BbM7 AM7とか半音階でうろうろしていて、まあどうやって思いついてるかわらかん感じ。おそらくこういう機能的じゃない不安定な進行で少女の混乱した志向を表している。メロディーラインはいったん上ってから次第に下ってくるいわゆる「ウツパターン」。逡巡している。非常に不安定で歌いにくい、っていうか私正直歌えないです [7]初めて聴いたときは再生装置がショボかったので、この人音痴なんじゃないかと思いました。
  • Bの部分はアレンジが頭の拍を強調していて、なんか「決断」「決意」「確信」とかそういうのを連想させる。コードやメロディーラインも安定している。
  • Bの終りからCメロは上昇一方でワーグナーの「トリスタン」みたいな感じ。性欲高まっております。カラオケ好きなひとはここウワーって歌うのが好きなんでしょね。
  • 「守ってあげたいな」あたりは2回目のBメロの先頭にあって、まあさっきも書いたようにとても不安定だし、それほどリスナーの耳には意識されない。

とか。まあ非常に複雑な曲ですわ。AIKOとアレンジャーの緊密な打合せとかも感じる。けっしてやっつけの仕事ではない。

で、まあこういうわりと完成度の高い歌をカバーするときは、こんどは歌詞を踏まえた上でアレンジやコードをどう料理するかってのが問題になる。こんな凶暴な曲にしないで、ギターやピアノ弾き語りとかであえて清純な「初恋」の曲にしちゃうってのもありかもしれんようになるわけです。そういうところでミュージシャンの腕や解釈が問われることになる。

石原先生のこの『Jポップの作詞術』は実はあんまり類書がない。こういうちょっとアカデミック風味の利いた立場から歌詞を鑑賞するってのがどういうことかってのをやってくれている本は他になかなか見つからんのです。でもそういう数少ない貴重な本の最初の分析例がこれではちょっと困っちゃうんではないか、と。

歌詞と楽曲ってのは、石原先生が考えているよりもはるかに密接に有機的に結びついているものではないか。やっぱり歌詞の分析っていうのは歌詞カードを読むんじゃなくて、何回もその曲を聞いて耳から理解したい。カラオケで何度も歌ってみたり、コード進行ギターでとってみたりしてはじめてわかるもんなんじゃないか。この曲を少女たちはカラオケで何回も歌ってみて、「あれ、自分から指からませてみたりするのはOKなのか」とか「そうそう、小さい体が熱くなるわよね」とかそういうのを理解していったのではないか、「あなたの事が好きー」っていうのに本当に共感したりするのではないか。

そういう意味で、石原先生の『作詞術』ってのは私は試みとして高く評価しているものの、その分析を軽く批判しておいて、その権威をちょっと落としておこうってのが上のを書いた私の「意図」です。単にAIKOの歌詞を石原先生のとは違うかたちで批評して対置してみたり、石原先生の分析を批評しているだけではなく、歌詞を楽曲と切り離して分析しちゃえると考える立場を軽くではあるけど批判してます。そういう意味で「ディス」[8]実際にはこれは本文中じゃ使ってなくて、twitter上で私が勝手な意味で使っている「ディス」なんですが。ってるわけです。

まあ歌詞だけとりだして分析するってのもアリといえばアリなんでしょうが、私のような単なるミュージックラバー[9]Music Rubber。音楽に粘着する人。からすると、ちょっとおかしいんじゃね?ってな感じですね。

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References

References
1別に悲嘆を表す伝統もあります。
2追記。どこに曲の頂点があるのかってのはやっぱり重要だと思う。そういや昔「野ばら」について とか書いた。
3追記。一流のアーティストはクリシェもふつうには使いません。
4後日記。調べてみるとこの曲は2001年の曲。2年ちょっと前には宇多田ヒカルと椎名林檎がデビューしていて、世代はaikoの方が上だけど女性アーティストとして意識せざるをえなかったと思いますね。宇多田はずばり「First Love」でかなり恵まれた環境で育った女性の(かなり?)年上との典型的な恋愛を歌ってるし、「Automatic」では「あなたの側にいるだけで体中が熱くなる」って言ってる。林檎は「ここでキスして」「歌舞伎町の女王」とかでまあメンヘラビッチを歌っている。「丸の内サディスティック」とかでは「毎晩絶頂に達しているだけ」とかそういう感じですわね。aikoは少なくともこの二人がやっていることを意識せざるをえなかっただろうし、その答がこの曲なんじゃないかと思います。宇多田や林檎ほど環境的に恵まれてはいないふつうの女子高生ぐらいの初恋の歌。
5でも正直わたしはよくわからんです。
6ちょっと不正確です。数えるの面倒だからあとまわし。
7初めて聴いたときは再生装置がショボかったので、この人音痴なんじゃないかと思いました。
8実際にはこれは本文中じゃ使ってなくて、twitter上で私が勝手な意味で使っている「ディス」なんですが。
9Music Rubber。音楽に粘着する人。

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