男らしさへの旅 (5)「支配のコスト」

「支配」のコスト

まあというわけで、私は実は「男性が女性を支配しているのだ!女性は支配されているのだ!」っていうのをかなり疑問に思っていて、とりあえずそれは、「現代社会においては職業や社会的地位において男性の方が有利な場面がけっこうある」ぐらいの話だと理解させてもらいます。

ところで、やっぱり男性の方が一方的に有利なわけではないので、苦しい場面もあるわけですよね。それに、有利な立場にあるとはいえ、「男性である」ということとは別の点相対的に困難な状況にある男性も少なくない。男女の別の他にも、たとえば親の社会的階層、学歴、容姿、性格、他にもいろいろ要因があります。頭よくて壮健で技能があり性格もリーダー向きであれば、お金たくさん稼いで女性にもモテたりできるでしょうが、そうでない男性の方が大半でしょう。そうした人々は生きていくのがつらいと考えても不思議はない。これが多賀太先生なんかがテーマにしている現代社会での「男の生きづらさ」問題ですわね。そして、女性の苦しさに比べて、男性の苦しさは(相対的に)無視されやすいかもしれない。

しかし、こうした男性の「生きづらさ」は「支配のコストだ」という考え方があるんですね。これが、多賀、平山、澁谷、小手川というこのシリーズで注目して読んでいる先生たちの共通理解です。

多賀先生によれば、メスナー先生という人が、男性による支配体制には、男性にもコストを払わせるところがあると指摘しているんですね。孫引きなりますがこう。

男性たちは、彼らに地位と特権をもたらすことを約束する男らしさの狭い定義に合致するために……浅い人間関係、不健康、短命という形で……多大なコストを払いがちである(多賀 2016, p.45)

次は多賀先生自身の文章です。

男性たちの「生きづらさ」の少なくともある部分は、集団としての男性による女性に対する優越を達成し維持するための物理的・精神的負担、あるいはそうした負担の結果として男性に生じているさまざまな弊害として理解することができる。(同 pp.44-45)

個別の、特定の男性(たとえば私)が感じる生きづらさは、集団として男性が女性を支配するために私も部分的に負しているコスト、負うべきコストだ、というわけですね。

そして、「男らしさなんかから解放されたい」「解放されよう!」とかっていう一部の「男性学」や「男性権利運動」(Men’s Right Activism)は、その生きづらさが支配のコストだということを直視していないのでけしからん、ということになるわけです。

コストからの解放という主張は、その「コスト」が経済力が権力ある地位といった「特権」を得ることの代償であることをしっかりとふまえている場合にのみ正当性をもつ。(多賀 2006, p.185)

多賀先生はこういう感じの立場で、まあ理解できるんですが、平山先生はその多賀先生の立場でもまだヌルい、と考えてるみたい。私はなんでそんなに多賀先生に厳しいのかもうひとつよくわからないのですが、とりあえず次のように批判している。

端的に言えば、稼得役割に対する固執と、それを追求するがゆえに男性がさらされる身体的・精神的・社会的リスクは、家庭における支配を維持するための対価である。

多賀もまた、これらのリスクを「支配のコスト」と呼んではいるが、多賀のようにこのコストを男性の「生きづらさ」として語る必要は、わたしには感じられない。……男性による「一人で家族を養うことができること」の追求は、男性個人の「生の基盤」の確立のために行われるわけではないからである。要するに、「支配のコスト」は「支配のコスト」ではなく、それを「生きづらさ」と呼ぶ必要はない。(pp.238-239)

「生きづらい」とかっていうのは苦しい立場に置かれてる人々の実感だろうから私はそれでいいと思うんですけどね。くりかえしますが、私の理解では、ここで言われている「支配」っていうのは、実際に男性Aさんが女性Bさんを「支配」しているっていう意味ではなく、「男性の方が有利な場合がある」ぐらいの意味のはずだし、その有利な立場にない人々にとっては他の男性の有利さのために自分が苦しいというのは理不尽だと思う人がいても不思議ではない。

澁谷知美先生も平山先生と同じような意見です。

日本の男性学の信用できない点とは、男性の特権にまつわるコストを「生きづらさ」と呼び、男性の「被害者性」を強調しながら、特権を放棄するための考察を怠っている点にある。(澁谷 2019, p.30)

〔現代の社会には〕「男の生きづらさタブー」のようなものがあると実感している。/そうした実感をもつ筆者も「男の生きづらさ」が存在しないと主張するものではない。その「男の生きづらさ」なるものが「支配の挫折」、「支配のコスト」、「自縄自縛」でしかないのに、それに関するエクスキューズ以外の指摘がないまま、ただ「男の生きづらさ」が強調される「語り方」に問題があると考えている」。(澁谷 2019, p.31)

ここらへんの先生たちの見解は、全体として、男性は女性を支配するために勝手に「男らしさ」を追求し、その結果勝手に苦しんでいるのだから自業自得である、苦しんで当然である、みたいな感じなんでしょうが、こういう議論は、どうも「誰が被害者なのか」「誰が悪いのか」ということを争っている感じで、社会的な不均衡みたいなのを「誰が悪いのか」という形で論じるのは私には奇妙に思えます。

どういう話であれ、「苦しいです」って言ってる人々の話は「苦しいのだな」って聞いてあげてもいいのではないか。というか聞いてほしい。まあお釈迦様がおっしゃられているように、われわれの苦しみの多くは、満足できない勝手で無駄な欲望や煩悩に由来するわけですが、それにしたって「自業自得だ」みたいなのは気の毒な感じがする。

もう一点、これらの先生たちは皆、男性は、「男性の特権」を放棄し、女性を「支配」しようとするのをやめ、無理な「男らしさ」(特に稼得)の追求をあきらめるべきだ、またより男女平等な社会をつくりあげることを目指すべきだ、そうすれば「男性の生きづらさ」も軽減されるであろう、っていうことをおっしゃっておられて、それはそうなのかなと思うわけですが、具体的に特権を放棄するにはどうすりゃいいのかということと(仕事やめればいいとかではないだろう)、本当にそれで苦しい人々が苦しくなくなるのだろうか、とか考えちゃいますね。

いや、基本線ではその通りだと思うんですが。


このエントリあんまりおもしろならなかったのですが、特定の男性が他人をうまく支配しているかどうかはともかくとして、男性であることにはいろんなコストがある、ということについてはけっこうよい本たくさんあります。多賀先生のも平山先生のもそういうのではどちらも優秀なので読んでほしいと思います(なんで批判しあってるんじゃろか?)。男性の苦しさについては、若手批評家のベンジャミン・クリッツァー先生なんかそこらへん積極的に紹介してますのでそっち読んでもらった方がよかった。

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