男らしさへの旅 (2) 「男らしさ」と「男性性」

「男らしさ」と「男性性」

小手川先生や彼が参照する男性学の系統の先生たちでは、「男らしさ」は「家父長制」と強く結びつけられて考えられていて、そこでは、男性は「支配者、稼ぎ手、威厳ある父」(小手川 2020 p.62)である、ってことになっているみたい。なんかずいぶん違和感ありますね。ここらへんはいろいろむずかしい。

まず「男らしさ」っていう言葉が誤解をまねきやすい。我々が日常的に「男らしい」という言葉を使う場合は、宮下あきら先生の『魁!!男塾』みたいないかにも男男していて、強く乱暴で義侠心がある漢!侠!みたいなのか、あるいは生物学男性がとりがちな不合理で馬鹿げた振舞をすることを指してると思う。まあそれほど馬鹿らしくなくても、正義感とか忍耐とか、そうした優れた(?)性質に対する誉め言葉や、それを逆手にとった皮肉でユーモラスなけなし言葉だと思うんですわ。とにかくなんらかの評価語だ。

私が「男らしさ」っていう言葉で連想するのは、身体的な強さや筋骨に加え、なんといっても「勇気」と「公正さ(正義)」と「忍耐」とかの精神的な美徳なんですわ。他にもチームワーク、なんかに習熟していること、各種テクノロジー使えること(ITに限らない!たとえばロープ結びや火起こし)、冒険心、そしてなによりタフさ、かなあ。

こういう「男らしさ」って、我々男性の大半が手に入れてないものですよね。「男らしい」筋骨隆々のボディなんてほとんどの男性はもってない。たいていの腹ぼて洋梨体型でしょ。勇気も正義も忍耐も技術も冒険心もタフネスももってない。我々は卑劣でえこひいきしてすぐに投げだし、不器用で臆病で弱虫だ。いつも泣き言ばっかり。男らしさはそれは単なる理想としてだけある。そして、我々の大半は、まあ自分がすでに手に入れた男らしさを、なにかの機会に発揮できたときに、満足して確認することはあるかもしれないけど、他のたいていの男らしさ(美徳)を努力して手に入れようとさえしないことも多いように思います。 男らしさ、男性性がそういう能力の獲得と発揮にあるなのなら、我々はほとんど男性失格だと思いますね。

でもどうも男性学とかその手の人々のあいだではちがうものを見てるみたいなんですよね。小手川先生も日本の男性学の影響を強く受けてるのは感じられる。

社会学は基本的に価値中立が望ましいってことになっていて、いろんな言葉を、ほめたり推奨したりけなしたり非難したりする価値的・規範的な使い方ではなく、なるべく記述的に使う、ってことになってる。つまり、「男らしい」 masculine っていうのはほめ言葉でもけなし言葉でもなく、単に「男であること」女性と比較した場合にもっているある性質、みたいに使うことになっています。そうすると、評価的に使われる「男らしさ」っていう日本語はあんまり適切じゃなくて、masculineは「男性的」、masculinityは「男性性」とか訳した方がいい、って立場もある。社会学者の多賀太先生なんかはそういう立場で、「男らしさ」ではなく「男性性」を使うようになっているようです。この一群の記事では面倒なので使いわけません。

覇権的な男らしさ/男性性

小手川先生も使ってるけど、主流の男性学では、「覇権的な/ヘゲモニックな男らしさ/男性性」っていうのがキーワードなんですわ。これまたやっかいな概念です。「支配的な男らしさ」っていう表現も見ますね。

「男っぽい」っていっても、いろんな「男っぽさ」があるわけですわね。豪放磊落、豪傑っぽいのだけが男じゃない。ブラッドピットみたいなのも男っぽいし、ホーキング博士みたいな科学者も男な感じ。そういうわけで、「男らしい」「男性性」っていってもいろんなイメージがあるわけですわ。だからレイウィン・コンネル先生という有名な人は、男性性 masculinity はいろいろあるから複数形でも使えるはずだ、複数形で使うべきだ、ってんで Masculinities っていう本を書いて男性性の概念をそうしたものとして扱った。まあ実際男性っていろいろいるから、なかなか「これが男だ!」ってのはやりにくいですわね。

んでコンネル先生は、そうした複数の男性性には、特別に偉いと思われてるやつがある、っていうんですわ。それが覇権的な(ヘゲモニックな)男性性。覇権って、国とかまあいろいろあるなかで、他の同種のものに対して支配権・支配力をもってるような存在ですね。男性のなかでも特にあるグループの人々は他の男性グループに対して優越し、支配権をもつ。

コンネル先生は現代社会では、ホワイトカラー、正規雇用、異性愛者、既婚者であることが覇権的な男性性である、っていうわけです。まあ結婚している上級サラリーマンみたいなのがそれだっていうんですかね。この人々のなかの個人が実際他の男性を支配しているか、というのはよくわからない。実際のサラリーマンは簡単には他人を支配することなんかできないだろうと思う。むしろ、いまの日本を動かしてる自民党とか経団連とかそういう人々を思いうかべるんですかね。

男性学の主流では、この「覇権的男性性」から解放されようとか、そういう話をするわけですわね。あれ、さっき社会学の主流は価値中立的とかって書いたのに、とかなるかもしれませんが、まあ基本は分析だけど、もし「生きづらさから解放されたいならば」みたいな条件があるわけですわ。おそらく。

男性よる女性の支配

んでくりかえしますが、小田川先生のなかでは、従来の男性というのは、なによりも家計を稼いで 支配 することを目指すものってことになってるんですよね。

男性たちは、家事や育児や介護を女性たちに丸投げすることで、仕事に専念し収入や公的な信頼を獲得したてきただけでなく、彼らの扶養者である妻や子どもを自分に依存させ、従わせることができた。しかし、そのために彼らは、妻との対等の関係や子どもとの愛情ある関係を犠牲にしてきたとも言える。フェミニズムとは、こうしたあり方の歪みを問い直し、支配者・稼ぎ手・威厳ある父であり続けなければならないという家父長制の束縛から男性を解き放つことを目指すものである。(小手川 2019, p.174)

しかし本当にこうなってるんですかね。同種の発想は平山先生にもある。

事実、日本では、離別や死別によって貧困に陥る女性が非常に多い。夫婦という単位において、男性が稼得者としての役割の固執することがどのような意味をもつかは明らかである。その固執は、何よりもまず妻を自身に従属させ、その生活に係る資源の供給源を握ることで、妻を支配することへの志向を必然的に意味するのである。(平山 2017, p.234)

男性が自己強迫的に追い求める夫しての稼得役割=「家族を養うことができること」……その思考は本人の意図にかかわらず、結果的には妻の生殺与奪権を握り、支配する志向となることを免れない。(平山 2017, p.238)

ここらへんで、「男らしさ」がけっきょく家族を養うお金を稼ぐことと、女性(妻)を支配することに煮つめられているのが私にはとても意外なのですが、まあ一般に「男の生きづらさ」と言われるのは、「仕事したくないでござる」と思いながらつらい職場で仕事しなければならないことや、性的におつきあいしてくれる女性がいないことに集中している感じがあるのでしょうがないですかね。でも「男らしさ」の話として、貧弱すぎる気はするのです。

まあそれはおいといて、現代日本での覇権的な「男らしさ」なり男性性なりに、「お金をもっていて家族を養うことができる」というのが入っていると認めるとしましょう。それでも、「女性を支配する」っていったいどういうことでしょうか。女性を支配している男性とかいま日本にどれくらいいるんでしょうか。

国立社会保障・人口問題研究所が出してる第6回家庭動向調査 (2020)だと、「主たる意思決定者」はこういう感じなんですよね。

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まあ高額品の購入、家計の管理、親戚づきあい、子どもの教育について、夫婦のどちらが意思決定しているかってだけなので、妻が家庭を支配しているというよりも、夫の方がそうした家庭のことにさして興味をもたず、妻に丸投げしている、という小手川先生や平山先生が指摘していることを示しているのかもしれませんが、んじゃ実際のところ、男性が女性を支配している、夫が妻を支配しているというのはどういうことなのだろう?ほんとに支配なんかできてるんでしょうか?

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