堀あきこ先生の「メディアの女性表現とネット炎上」はフェミニスト的メディア批判をうまく説明しているので勉強しよう

堀あきこ先生のインタビュー記事についてツイッタでいろいろ失礼なことを書いてしまって、反省して論文も読んでみました。学者のインタビューだけ読んで論文読まないほど失礼なことはないですからね。

堀あきこ (2019) 「メディアの女性表現とネット炎上:討論の場としてのSNSに注目して」,『ジェンダーと法』,No. 16

この論文「メディアの女性表現とネット炎上」は、ここしばらくずっと論じられてるのに対する堀先生からの答えという感じでとても勉強になったので、ぜひ紹介しておきたいですね。この論文はとてもまじめなもので、最近の広告表現とかについてのネット議論について、目下のフェミニスト主流的立場をわかりやすく書いてくれているので、みな読むといいと思う。入手しにくいのよねえ。学会雑誌はこれからはオープンアクセスを目指してほしいと思う。

女性を使った表現については、(1) 固定的な性役割、(2) 性別役割分担、(3) 性的な対象としての女性描写、が問題だとされてきています、と。「固定的な性役割」ってのは男/女らしいとかそういうので、役割分担というのは「男は仕事女は家庭」みたいなやつのはず。「性役割」と「役割分担」の区別がちょっと微妙で、混乱しそうだけどとりあえずOK。

ルミネの2015年のCMが「固定的性役割」、ユニチャームの2016年のが「性別役割分担」、(3)の「性的な対象としての女性」が宮城の壇蜜先生のおもてなしのやつだそうだ。「萌え絵」の方だと、人工知能学会のやつと君野イマ・ミライが(1)、キズナアイのノーベル賞が(2)、碧志摩メグと『のうりん』が(3)だそうだ。

性役割、性別役割分担

論文の核の部分はそういう表現に対する批判に対する再批判に対する答えで、ここが読みがいがある。

「固定的な性役割や性別役割分担の肯定的描写には、旧来的なジェンダー規範を繰り返し描くことで再生産装置となる、という批判がなされてきた。」

これに対しては、たとえば「専業主婦差別だ」「女らしい/かわいい女性批判だ」みたいなことを言われることがありますよ、と。もうちょっと批判者の言い分を十分とってあげたい気はするけど、OK。堀先生によれば、こういう反論というのは、「表現批判と現実の女性のあり方を混同している」と堀先生は言う。

「性差別的な社会をそのまま肯定的に描くことは現状追認に過ぎず、ジェンダー平等な社会の推進や性役割のステレオタイプからの脱却の足枷となる。」

「ワンオペ育児が当然とみなされたり、賛美して描かれることが、さらなる性差別を生み出し強化してしまうというメディア作用への批判なのである。」

この、メディア表現が既存の社会的規範を拡大再生産します、だからそういうのは批判して数を少なくします、っていうのは基本の発想よねえ。「メディアが偏見を再生産」みたいなのはやっぱり認めないとならないと思う。

しかし、問題になっている広告などがモメた理由は、個々のルミネやユニチャームのやつやキズナアイや人工知能学会のやつがそうした偏見助長的・差別的なものかってことだと思う。私が見るかぎり、あれらが偏見とかの「肯定的表現」になってるかというとよくわからない。ルミネやユニチャームのは、基本的には「上司が馬鹿で無神経だったり、旦那がちゃんと協力してくれなったりして、女性はたいへんよね」ってな感じで描かれているように思うし、制作者もそうしたコメントをしているようだ。

まあルミネとユニチャームのは、どっちも全体にネガティブで味がよいものではないけど、現代社会での女性の苦労みたいなのを描いていて、性役割や性別分業を「肯定的に」描写している、みたいなのとはちがうように思う。肯定的に描くっていうのは、ふつうはそれが「よいものだ」っていう感じで描くという意味だと思うけど、どっちでもそうはなってないように思う。ルミネのやつは、上司たちに無神経にいろいろ言われて「おしゃれしないと!」みたいな結論になってるらしいけど、それが「肯定的に描いているの」かどうか。たしかに対人的・社会的な問題を自分の努力と工夫と商品とお金で解決するという形なので、それが「肯定的に描く」って言われるのかなあ。これは解釈が分かれるところか。

とりあえずルミネとユニチャームのは、働く女性の問題がルミネやユニチャームの商品で一気に解決!みたいなことにはなっていないと思う。むしろその問題の描き方がリアルであるからこそ不快だという話なのではないかと思う。「女らしさ」や性別役割分業を肯定しているとはいえないように思うし、ましてや性的モノ化ではない。

もうひとつ気になっていることがある。伝統的で優勢な性役割規範みたいなのをCMなんかで描くのは当然といえば当然な話で、だって実際に社会がそうなっているならそれを使わないというのは人工的で不自然になりすぎる感じがある。たとえば架空のケースの表現を考えるとして、複数の女性が登場するときに、伝統的に女性らしいと言われるような女性が まったく 出てこないような表現を作る、っていのはなんかへんな感じがある。偏見の解消をめざして、少数派をを実際の比率よりかなり多めに描く、みたいなのはありえると思う。たとえばLGBTとか、その国での少数民族とか外国人とか。でも登場人物をLGBTと少数民族と外国人だけにしてしてしまう、みたいなのはやりすぎに思える。そこらへん、企業CMとかはほんとうにむずかしい。まあ各位努力してもらって多様性を確保しておいてもらえばいい、ぐらいなのではないかとおもうんだけどどうだろう。

私自身は、ルミネやユニチャームのが非難されたのは、それが偏見や性役割分業を肯定しているからというよりは、単に特に不快なものだったからなんじゃないかと思っている。化粧炊事掃除洗濯なんかの女性が購買する関係のCMの多くは性別役割分業ばりばりだと思えるし、「肯定的に描いている」というのでは他のそうしたCMの方が肯定的だと思う。それらはOKだけどルミネやユニチャームのがだめだったのは、不快だからだろう。私には、ACの暗いPRなんかも私には同じように不快だ。

もどって、たとえばメディアで専業主婦を肯定的に描くことを批判することは、専業主婦を批判することだ、というのは 批判のレベルがちがう 、という堀先生の主張はどこまでうまくいくのだろうか。たとえば、アイドルをCMで肯定的に使うことを批判するのは、アイドルを批判することとはちがう、とか、軍人を肯定的に使うことを批判することは軍人を批判することとはちがう、っていうのとどのていど違うだろうか。

「性役割のステレオタイプからの脱却の足枷となる」は、社会学者たちの文章全般について何度も指摘しているように主語がないんだけど、「女性一人一人が」だろうか。あるいは「日本の社会が」だろうか。ステレオタイプから脱却しようとしている人を非難するような表現ならたしかに「足枷」「邪魔」って言いたくなるけど、ふつうにやってる分には少なくとも邪魔はしてないように思うんだけどどうだろう。「ジェンダー脱却に 協力的ではない 」みたいなことは言えるかもしれないけど、邪魔だとか足枷だとかって言えるかというと微妙だと思う。

蛇足だけど、こうしたメディアが社会に影響を与えるというのはなかなか否定しにくいけど、いったいどのように影響・作用するかというのも実はなかなか実証的には示しにくい。メディア全体が人々の考え方に影響を与えているのというのはもちろん否定できないが、個々の表現がどう作用するかを示すのはものすごく困難で、そもそもマスメディアという巨大な海みたいなところから、個々の表現を切り出してその影響を云々するのはむずかしい。個別のCMの他にいろんな記事や番組があり、さらにはマンガも映画もあり、となると、ぼんやり「メディアは社会に影響を与える」ぐらいのことしか言えない。でもまあこれはしょうがない。

(ii) 解釈の多様性

とにかく、上の一番基本的なところはOKってことにする。この点で私が興味あるのは、個別のCMが実際にそうしたものか、ってところだわ。ルミネやキズナアイは実際に差別的だったのだろうか。ネットでのあれやこれやの炎上について、大筋では「性差別的なのはだめ」「偏見を助長するのもだめ」っていうのは同意されていて、個別の作品がそうしたものかが争われていたように思っている。

この「個別のCMなりが実際にそうしたものか」っていう問題を、堀先生は「人によって受け取り方は違う」「そう感じない人もいる」という反論がなされる、って言ってる。これが堀先生の(ii)の「読みの多様性」についての反論。先生は「メディアのメッセージは一義的ではなく、解読は多様である」って認めるんだけど、「しかし、こうした反論は、メディアの影響力を低く見積り過ぎではないだろうか」という。これはわかりにくい。

「人の心を深く傷つける表現に責任はないだろうか。メディアは大きな力を持つのだから、人生に大きな負の影響を与える可能性に敏感でなければならない。」

「差別と感じない人もいる」という意見によって、不快に感じている人は我慢を強いられるし、どのような表現が誰にとって不快なのか、という議論の糸口が閉ざされしまうことにもなる。」

ここのところで、堀先生はとんねるずの保毛尾田保毛男のコントをもってきている。あれは(私が見るかぎり)たしかに(実は新しい方は見てないのだが)差別的で、ゲイの人々を傷つけている。2000年代には通用しない表現だろう。(見てないけど)ゲイの人々の容姿や行動を笑い者にしたりするというのはステレオタイプ偏見をあらわしているし、明確に差別的であり侮辱的だろうと思う。まあ私とんねるずの笑いは嫌いなので見たくない。

しかし堀先生はとんねるずをもってきても、もとのルミネやユニチャームやキズナアイがどうなのかってのは触れないわけよね。これはあんまりよくない論法だと思う。論点ずらしとかレッドヘリングとか呼ばれている誤謬推理・詭弁だと思う。フェミニストの表現批判に対して問われているのは、ルミネやキズナアイが差別的であり、とんねるずのコントのように 人をひどく傷つける表現であるのか 、ということであるのに、それに答えるのを回避している。

フェミニストに対する反論者たちは、「解釈なんでさまざまなんだからなにも批判なんかできない」とかっていうタイプのラジカルな相対主義みたいなものを採用しているのではない。あくまで「キズナアイが差別的だと指摘されるのはなぜなのか」ということのはずだ。たしかに人を傷つける表現は存在するし、そうしたものは解釈はそれほど難しくない。問題は、もっと微妙な個別の表現が本当に人を傷つけるものと言えるのかどうかだ。

というわけで、この(ii)のところの堀先生の論法は私は認めません。

(iii) 表現の自由

(iii)は「どういう表現も表現の自由だ」っていうタイプの反論。

これにたいしては、「メディア表現は多くの人の目に振れることが目的の一つとなっており、そうした公共性を持つものが、性差別的であることは目を閉じてすむ問題ではない。」「求められているのは、情報制作者側の女性表象に対する考慮である」

「ヘイトスピーチ禁止条例に見られるように、表現の自由はどのような表現も無条件に認めるものではない。表現の自由は守られねばならないが、ヘイトスピーチのように他の人権と衝突する場合には制限を受けざるをえない表現があり、表現の自由には制約があると考えるべきであろう」ここはまあOK。細かいつっこみは可能だけど余計だろう。

(iv) 公共性

「アイキャッチャーの多くに若い女性が登用されることへの批判に対し、「若い女性がアピールした方が商品は売れる」「若い女性に魅力を感じるのは生物としての本能」といった反論がなされる。」

「本能」はやめましょう。本能撲滅委員会を結成してほしい。まあ「人間の本性的な傾向」ぐらいならOK。この、魅力的な男女をアイキャッチに使うというのは、たしかにルックスが魅力的な男女は人目をひきやすいし、好意的な対応をされやすい人間の本性みたいなところを利用していると思う。そして、魅力的な男性より魅力的な女性の方がはるかに多いように思う。これはいわゆるエロティックキャピタルの話に関係があって、そのうちいろいろ議論してみたいと思っているけど今回はパス。

さて、堀先生は「行政広報は「特定の意図をもったり、特定の対象者だけに行ったりする広報は許されない。あくまで行政広報はサービスの公平な提供のために行うもの」っていうのを引用し、「したがって、PRターゲットを男性に限定することは、サービスの公平な提供に適っていないといえる」と言う。

これも論点がずれているように思う。へんよね。(確認してないけど)これはたとえば福祉サービスを提供の広報をするときに、サービスを受ける人のなかの一部の人だけに向けた広報をしてはいけませんよ、ってことだろう。しかし今回はそのタイプの「行政広報」の話をしているのではないはずだ。論点相違・レッドヘリングだと思う。

たとえば碧志摩メグは男性に対するサービスなのかというとそうではなく、(せいぜい)メグを餌にしてオタ男性の注目をひいて知名度を上げ観光客になってもらおういうもので、別にサービスを提供しているのではない。またユニチャームも人工知能学会もキズナアイもそうしたものではない。

一番その雰囲気のある宮城の壇蜜先生のCMでさえ、男性だけにサービスを提供しようというものではないように見える。壇蜜先生が亀をなでるところを鑑賞させてくれるなら行くという男性はいるかもしれないが。むしろ、当時人気の壇蜜先生を使って下品な広告をして話題になろう、という意図があるように見えた。まあ下品であることは認めるけど、そうした壇蜜と下品なセクシーさとの組合せがおもしろいと制作者たちは考えたのだろう。下品だ。下品ではあるが性差別なのかというとよくわからない。

「特に、性的な表現は、女性の人権からは、肌の露出の程度だけが問題とされているのではなく、女性を「トータルな人間存在としてこの世界に生きる者」として明確に把握しようとしているかどうかが重視されている。」

これは加藤春恵子先生の「性別分業批判・らしか固定批判・性的対象物批判」という文章の引用なんだけど、まずそもそも壇蜜以外に話題になっている広告等は、「性的な表現」と呼ぶようなものではないので、突然こうした引用があらわれて。さらに、ルミネもユニチャームも「トータルな人間存在としてこの世に生きる者」として見てると思う。あれがトータルでなければトータルな人間存在として描くというのがどういうことか私にはわからない。

ちなみにこの加藤春恵子先生の文章はクリアでおもしろいので一読してみるとよいと思う。谷崎潤一郎〜市川崑先生の映画『鍵』が女性の「性的対象物化」「性的モノ化」の典型例あるとして批判している。あれはまさに道徳的に怪しげなモノ化の典型だからこそ芸術になっているわけなので、興味深い論説だと思う。

とにかく、私は堀先生のこの(iv)も受け入れられない。もっとも、公共的な団体は私企業より性的に魅力的な表現を避けるべきだというのはありえる主張かもしれないので、その理由をもうすこしつめてもらえるとよかったと思う。

萌え絵の特殊性

萌え絵については堀先生は特に節が設けて論じていて、これはえらい。萌え絵をどうしようが被害者がいないって言われるけど、「表現される女性イメージと現実の女性は無関係ではなく、イメージが参照されている。」これはOK。

「キズナアイは、舌足らずな喋り方や上目遣いの「接待モード」で表現されている。それが女性らしさや可愛らしさに結びつけられている記号であるからこそ、そうしたイメージを女性キャラクターが再生産していることが批判の一端となっているのである。」

このキズナアイの評価はオタの人達が反論したところよねえ。かなり反論されたからここでは触れない。でもまあキズナアイがかわいいっていうのは認めていいと思う。そして萌え絵の「コード」とやらの話が出てて、先生は次のように指摘する。

「そうしたコードやコンテクストに親しんでいない人にとっては過激な表現と感じられるものが、制作者やファンには自然化されているため「性的なもの」と認識されないことがある。」

この堀先生の論文2019年7月出版で、その前の年の12月の学会の発表をまとめたものだと思うんだけど、私知らなったのよね。「コード」の話をした小宮友根先生はこの論文ポイントしてくれてもよかったかもしれない。あの界隈の人々のあいだでは、「萌え絵コード」みたいなのが共通理解なのかもしれない。私はなんかそういうのうたがわしいと思ってんだけど。

「また、イラストはデフォルメの技術(意図的な誇張)が使用されるため、かわいい・優しい・甘えている・従順・無知といったジェンダー・バイアス表現と性的表現が重なり、女性性の表現が過剰になりがちという特徴がある。」

「萌え絵をPR等に使用する場合、コードとコンテクストが共有されている狭い領域から、コードとコンテクストが共有されない公的領域への進出がなされるという点に注意が必要だろう。」

ここの堀先生の指摘はたしかにおもしろいと思う。えらい。SNSの女性を使った表現で炎上するケースでは、たしかに萌え絵(私この言葉あんまり好きじゃないので「アニメ絵」ぐらいにしたいんだけど)にまつわるものが多くて、ああしたアニメ的表現には、生身の女性をつかったものとはちがうタイプの問題があると多くの人が考えているだろう。

キズナアイに代表されるアニメ・AIキャラたちは若い女性の姿を使うことが多い。これはやはり、我々が若い女性が好きだからだと思う。我々というのは我々高齢者男性という意味ではなく、もっと広く、女性も男性も若い「かわいい」女性が好きなのだと思う。

以前は、「そうしたものは男性が金と権力をもっていて主要な消費者だからだ」と説明されたわけだけど、そろそろ見直してみたらどうだろうか。

フェミニストの先生たちはよくこの社会は男性中心的だというんだけど、実際には現代社会は非常に女性化 feminize されていると思う。マンガやアニメのファンは男女を問わず多いんだけど、最近は「けいおん!」や「ガルパン」その他、主人公たちは若い女子ばっかりで、もう男子はアニメ世界からは死滅したんではないかというほどだと思う。男子主人公たちもイケメン中心で、表現が女性化されていると言えるように思う。歌謡アイドルたちもやはり女性の方が優越していて、女性ファンも多い。女性的な魅力や発想・行動などが非常に肯定的に描かれているわけなのよね。こういう意味で現代社会は女性化され、またセクシー化(sexualize)されていると思うので、社会学者の先生たちは「男性支配!」みたいな固定的な発想を見直して、女性化・セクシー化された文化というものを批判的あるいは肯定的に見たりしてみてほしいと思う。

まあここはもっといろいろ議論できそうなところで、とにかくとっかかりを作っている堀先生はえらいと思います。みんなで議論しましょう。

残り

ここまでが本論で、残りは、こうした表現の問題は「人権問題です」っていうのと、「声をあげた女性への侮蔑は男性に比べ、はるかに多い」のでたいへんだっていう話。

女性イメージには、作り手と受け手が共有しているジェンダー規範が反映されている。商品PRと女性の”若さ”のつながりが当然視されていたり、女性が教わる側でしかなかったり、女性の身体の一部がクローズアップされるのぞき見的なカメラワークが多用されたりする描写などは、性差別的社会を映し出すものだ。ジェンダーは構造的な問題であり、社会に深く埋め込まれているからこそ、意識しなければ自由になりづらい。

女性の「若さ」というか、若い女性が魅力的だから使われるという話よね。問題は、「ジェンダーは構造的な問題である」というのと「ジェンダーは人権問題である」っていう表現が、フェミニスト以外にはわかりにくいことだと思う。短い論説だからしょうがないけど。

よく「構造的な問題だ」「構造を見ないと」ってな話を聞くわけですが、これ紋切り表現になってしまっていて、私は具体的にどういう話なのかよくわかないのです。一つの理解は、「男性が金と権力を独占しているから、女性はそれにしたがわざるをえず、そのためにかわいくしたり化粧したりするのだし、メディアでもそうした女性を使用するのだ」とかそういう話だと思うんだけど、これはかなり疑わしい主張だと思う。論じるとかなり長くなるしまだよくわからないので先送り。

「人権問題だ」というのも紋切りで、言おうとしているのは「人間の平等に反する」なんだろうけど、どういう意味で平等に反するかはやはり議論が必要だろうと思う。まあこういうのは根本的な話なので、堀先生がこういう書き方をしているのは今回はしょうがないと思う。この「構造」と「人権」の話もみんなで議論してつめていきたいですね。

堀先生の残り一つは、「声をあげた女性への侮蔑は男性に比べ、はるかに多い」「SNSは物を言う女性が女性であるがゆえに差別を受ける現場である」ために、「言論の自由市場」はあまり有効でない、という指摘。

女性ツイッタラーに対して、論点と関係のない侮蔑をする人々とかはたしかにいて、非常に下品であり不道徳だと思う。しかし「女性への侮蔑がはるかに多い」かどうかは微妙に思える。たしかにフェミニスト女性に対するツイッタとかでの侮蔑や罵倒はひどいものがあって、ああいうのはやめるべきだと思う。ただし、そうした侮蔑や罵倒する人々は、男性にも同じようにそうした表現を使う人々だと思う。政治的な対立があると侮蔑的な表現や攻撃的な表現を使ってもかまわないと考える人たちがいるようで、これもやはり男女ともに存在する。そうした下品で不道徳な発言をする人々をどう扱うか、というのはやはりむずかしい問題だと思う。ツイッタ社のようなところが、一定の基準をもうけて凍結などをするのは私はやむをえない派。しかし、あんまりやりすぎないように寛容であってほしいとも思うわけです。

まとめ

ってなわけで、この堀先生の論文はとても勉強になるので、入手できる人は入手して検討してほしいですね。えらい。

途中で出てきた加藤先生の文章が再録されているのはこれ。

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