北田先生から怒られてしまった (7) 少し好意的に解釈すると

まあそういうしだいで、北田先生の論文は細部も全体もよくわからないんですが、一箇所補足しておくところがある。

北田先生のやつを最大限好意的に解釈しようとしたときにがんばりたいのは、北田先生の見るバトラー様の「準拠問題」なわけですが、その(2)の方、「発語内行為として中傷的発話を理解することは、発話者の意図や、その意図が位置づく文脈の適切さを、認めてしまうことになる(攪乱可能性が奪われてしまう)」をもうすこし好意的に考えてみたい。

これ、よくわからないと思うんですが、ものすごく好意的に解釈すると、だいたい次のようになります。

「浪速大学教授は助平だ」のような発言は、浪速大学教授に対する中傷的・侮蔑的発言であり中傷・侮蔑行為であるとします。言語行為です。よろしいですね。「助平である」という記述によって、侮蔑しているわけです。

オースティン先生は言語行為を発語行為(locution)、発語内行為(illocution)、発語媒介行為(perlocution)に分類しました。発語行為はそのまんま発語するという行為、発語媒介行為は発語によってなにか結果をひきおこす行為、発語内行為は発語においてなにか発語とともに別のこともしているっていう感じ。

言葉をつかって(たとえば自分とセックスするよう)「説得する」っていう言語行為がありますが、説得する(persuade)っていうのは、そうするように相手を納得させ同意させないと「説得する」とはいえない。「説得する」っていう言語行為は、発語内行為というよりは発語媒介行為と考えられます。

んじゃ、「侮辱する」はどうだろうか。「お前は助平だ」と発言すると、それですぐさま侮辱していることになるのか(発語内行為)、それとも、聞き手が侮辱されていやな気分にならないと侮辱したことになならないのか(発語媒介行為)、これが(一部の人々にとって)問題なわけですわ。

バトラー様とそのフォロワーは、「発語内行為として中傷的発話を理解することは、発話者の意図や、その意図が位置づく文脈の適切さを、認めてしまうことになる(攪乱可能性が奪われてしまう)」と考えるらしい。これがわかりづらい。っていうか私は発想がまちがってると思いますが、これまた解説します。

もし「おまえは助平だ」を侮辱という発語内行為として理解するとします。侮辱であるためには、発言者が相手を侮辱しようという意図が必要かもしれず、また助平であると指摘されることはその人の価値を下げることになるというような慣習的理解が必要であり、助平であるのは悪いことだとかそういう通念も必要になるわけです。まあ助平であることを指摘されるだけで、自分は劣った存在にされちゃうわけね。

これ認めたくない人がいるわけですわ。「助平」と呼ばれても「おう、おれは助平だ。そしてそれにプライドを感じている!(I’m proud of it!)」とか言いたい人がいるわけですわ。助平優位主義者。助平イズビューティフフル。

この助平を誇る人々は、「助平という発言によって侮辱する」ということは必ずしも成立しない、それは発語内行為ではない、助平と呼ばれることによっていやな気分になることによってのみ侮辱は成立するのだ、それは発語媒介行為なのだ、って言いたくなるわけです。

まあこれがバトラ〜北田先生の発想や問題意識だと思う。

でもこれって、私よくわからんのです。だって、ある言語行為が発語媒介行為ですか、それとも発語内行為ですか、みたいな問いが、「これこれの発言が侮辱になると困るから発語媒介行為にしておこう」とかそういう判断によって決まるっておかしな話だし。つまり、上のような発想はわからんではないけど、それって言語行為論における発語内行為/発語媒介行為とかにかかわる理論的な話ではないはずだと思う。そんな自分たちの都合によって言語使用の分類が決まるなんておかしいと思う。バトラーの文章も、よく読むと、「こうすると困るからこう解釈することにしよう」のようにはなってないと思う。

「言葉によって侮辱する」という言語行為が、発語内行為か、発語媒介行為かという問題はたしかにおもしろいけど、その解決は「発語内行為だと「転覆」できなくてこまるから」のような形であってはならない。なんらかのもっと理論的な区別にもとづくものであるべきだと思う。それに発語内行為/発語媒介行為の区別がそんなはっきりしたものであるべきかどうかも議論したらいいとおもう。まあむずかしいっすね。わたしはよくわからない。「侮辱する」とかっていう行為で我々がなにを指ししめそうとしているのかよく考えてみるべきだと思う。その意味に応じて、発語内行為とみるべき側面と、発語媒介行為とみるべき側面があるかもしれない。あるいはもっと具体的に考えて、「助平である」が侮蔑になるような慣習もあれば、そうでない慣習もあるだろうし、助平よばわりが即侮蔑になるような社会もあれば、そうでない社会もあるだろう、みたいな形になるのかもしれない [1]鋭い読者はもうわかってると思うけど、実はこの件は、しばらく前に別の場所で怒られを発生させてしまった「尻軽」slutと関係があるんよね。

この件はオースティンの『言語と行為』を訳しなおした飯野勝己先生なんかも、バトラー使って北田先生と同じような議論していて、これまたよくわからん(飯野勝己 (2016) 「侮辱と傷つけること」、『国際関係・比較文化研究』第14巻第2号)。北田先生もこの文献は目を通してるんではないかと思う。

しかしこいう面倒だけどそれなりにおもしろいかもしれない話と、定義も説明もできない「パフォーマティヴ」の話はちがう問題よ。中傷や侮辱にまつわる話はおもしろいけど、かならずしもバトラー様の曖昧な文章によっかからなくてもできるはずだから、興味ある人はがんばってほしい。

(いや、この件まだ続けないとならんですな……)

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1鋭い読者はもうわかってると思うけど、実はこの件は、しばらく前に別の場所で怒られを発生させてしまった「尻軽」slutと関係があるんよね。

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