webも検索しよう。
でも意外にあんまり読まれてないのかな。まあ手強いからなあ。id:mxnishi さんがいろいろ書いているのは知ってた。
川出先生の読売新聞の書評はこれか。
なんか、出版社のアオリ文句をそのまま書いただけのような。
三谷先生がハーサニのところに問題があると。
http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070917/p2
あ、コメント欄に本人が登場している。
稲葉先生のはここらへんか。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070621/p4
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070625/p2
有名な「おおやにき」にも安藤先生の名前は時々出てくるけど、どういう関係なんだろうな。なかのよい先輩後輩か。どっちも優秀でうらやましい。(まあ私の後輩たちも優秀だけど)
イギリス哲学会あたりの雑誌に書評載りそうな気がするけど、誰が書いてるんだろう。あの先生かな。
あら、FeldmanのUtilitarianism, Hedonism, and Desertも机の前の本棚にあるじゃん。なにしてんだ私。なにも目に入ってないな。まあ読む時間はない。
Utilitarianism, Hedonism, and Desert: Essays in Moral Philosophy (Cambridge Studies in Philosophy)
- 作者: Fred Feldman
- 出版社/メーカー: Cambridge University Press
- 発売日: 1997/08/13
- メディア: ペーパーバック
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- 4.3.2の議論を理解するために3章も一応目を通す。いやはや、たいへんですな。
- 4.3.2のところはけっきょくよくわかんなかった。なぜこれでRepugnant Conclusion避けてるんだろう。難しすぎ。極小化戦略があやしい。 まあ3章がほとんど理解できてないからのような気がする。
- やっぱり「統治功利主義」が天下りなのが気になるよなあ。おそらく「もし統治に使える(個人道徳にも使えるかもしれないけど)功利主義なるものがあるとしたら、その整合的で一番ましな形はどういうものか」ってのが安藤先生の問題意識なんだよな。
- そこであらかじめ批判を頭に入れて、功利主義を使えそうな形に修正していく。このやり方なら、第II部で外在的な批判にうまいこと答えられるのは当然。
- ていうか、この方法ならなんでもできるんじゃないかな。いや、そういうわけではないのか。「なんでもできる」の意味を説明することは難しいけど。
- 時点主義とか極小化主義とかわれわれの直観や反省に反するものものを採用し、さらにその帰結が我々の直観や反省に反していても平気であると主張するためには、なんかもっと正当化が必要な気がするんだが。でないと「そういう理論もありますなあ」みたいになっちゃう。
- いや、安藤先生は1冊の本にいろんなネタをコンパクトにまとめているからそういう書き方しているだけで、実際には「功利主義者以外もこの件についてはこう考えざるをえないから、功利主義者もこれを採用してさしつかえないはずだ」って感じなんだろうな。
- いくらお正月とはいえ、安藤先生の本とお話ばっかりもしてられないのだが。
- それにしてもこの1冊は読むのに時間がかかる。文章にクセがあるのもあるんだけど、やっぱり内容が濃いからだよなあ。安藤先生かけた時間が恐しくなるなあ。とんでもないエネルギーだ。
- 被治者たちが功利主義を採用する(正確には統治者に功利主義を採用するように監視したりサンクション与えたりする)のかもよくわからん。
- いちおう第8章ももう1回。この最初の1ページ(p.217)を書くのにふつうの人間がどんだけ勉強しなきゃなんないのかってのがあれだ。いかにも「わかってる」感じ。よく見かける学者的ブラフとは全然違う。ほんとにどうやって勉強して書いてるんだろうな。単に「賢い」だけじゃなくて、なんか勉強の方法に関するノウハウや秘密があるはずだ。東大法学部に入ると教えてもらえるのかな。あるいはその前の高校時代から?
- 8.1.1。最後が鋭い。「なんで総和」に対するベンサム*1の答は「国家の利益は個人の利益の総和以外のなんなの?」なわけだが、「一般に功利主義は功利考量の対象を特定の国家や集団に限定するものではなく総ての感性的存在を対象にするものなので、功利主義それ自体の正当化にこの議論が成功するかは疑わしいかもしれない。」p.220
- 8.1.2でなんで突然尾高先生なんだろうな。p.222の注に動物の件については論じない旨の注あり。
- 態度的快楽説なるものを採用する場合、動物はどうなるのか気になる。動物は命題的態度とれるか。やっぱり人間は特別ってことになるのか。これも聞いてみよう。
- まあ8章も読むか。あら、『共生の作法―会話としての正義 (現代自由学芸叢書)』見つかんないや。井上先生ごめんなさい。『他者への自由―公共性の哲学としてのリベラリズム (創文社現代自由学芸叢書)』は発見。それにしてもいまさらだが井上先生は偉い。国内の20年におよぶ自由と正義に関する話をセットアップしてるんだもんな。『共生の作法』は先生が32才の時かあ。森村先生は55年生まれか。机並べてたのかな?
『権利と人格―超個人主義の規範理論 (現代自由学芸叢書)』は39才。あら、島津先生はこの二人よりずいぶん上なのね。安藤先生はここらへんと比べても際だってるなあ。 - 安藤先生の本でも出てくる井上先生の「妥当要求」。わたしはここらへんでつまづいてしまうのだが。
- 井上先生の問題意識が、法学~政治学~社会学の人々の問題設定のもとに なってんだよな*2。
- あんまり本筋じゃないけど。
私がハイドンの音楽を聴くことに妥当性を主張しているとき、私はハイドンの音楽を好み、自分が好んでいること自体を好んでいるのである。他人にハイドンの音楽を好ましめたい、という他者への要求は妥当要求にとって原理的に不要である。(p.264)
これ本当かなあ。少なくとも、「自分と同じくらい趣味の高い人間であればハイドンを好むはずだ」とか「ハイドンがわからんやつは趣味が低い」かつ「趣味は高いほどよい」っていう判断がありそうだけどなあ。
私はハイドンの音楽を好むことは選ばれた人間にしか可能でないと思っており、自分自身がその選ばれた人間である、と思っているかも知れない。その場合他者がハイドンを好むことを私は要求していない(むしろ音楽のことなど何もわかっておらぬ他者がハイドンの音楽を好むことを厭うかもしれない)。(同上)
「自分と同じくらい趣味の低い人間はハイドンで十分」思うだろうか?私にはそれは無理に思えるんだけど、どうなんだろうな。「ハイドンがわからんやつは音楽というものがわかっておらん」と言いたいだろう。安藤先生は、「モーツァルトのオペラは(皮肉ではなく)音楽をよくわかっている人々向けで、私のようにわかってない人には向かない」と(真面目な意味で)言うことができるかな。すくなくともなんらかの事情によって「こいつは音楽がわかっている」と思った他者には「ハイドンの絃楽四重奏も聞け」と言いたくなると思うんだけどね。井上先生の「妥当要求」ってのはなんだかわからんけど、そういうことのような気がする。
- あら、いかん。私は「妥当要求」と「充足要求」の区別をしそこなってる。『他者への自由』のp.94。井上先生や安藤先生だけじゃなくて、法学の人はいろいろ独特の意味をもつ言葉を使うよなあ。これはあれだよな。読者がそれだけの努力をしても当然だと認めるだろうっていう妥当要求が・・・
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私がつまらない卑しいものだとみる他者の善き生の構想に対する私の妥当要求は、私を私たらしめた諸快楽を他者が経験すれば変容するに違いない、という確信である。(p.267)
まあそうなるわな。これについてる注が昨日書いた一番かっこいいセンテンスを含む注。
だが、そうした快楽を経験する資質に恵まれていないと私が思う他者に対して敢えて変容へのいざないを為す理由はない。ハイドンの室内楽にモーツァルトの惨めきわまるオペラなど足元にも及ばぬ快楽を覚えられるような恵まれた人間は限られているかもしれない。~
かっこよすぎ。やっぱり著作は実存だね。生まれながらの哲学者にしてライター(この二つがそなわっている人はめったにいないと思う。)。でもハイドンの四重奏39番と、モーツァルトのクラリネット五重奏あたりを比べたらどうかな。
- とにかく快楽について非常に独特な洞察をもっている。おそらくうまくいけばワールドクラスなんだろう。留学してそのままワールドワイドで働いてほしい。
- Feldman。これまたへんてこりんなやつだなあ。
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