- 2章でロングフルライフの議論からパーフィットと全面対決しているのはすばらしい。 議論が成功しているとは思えないけど*1、非同一性問題のところは難しくてふつうの人はなかなか手が出せないところなので、
がっぷり戦おうという気概がすばらしい。論述も手探りで哲学している感じでよい。 - 若い人々がこれ読んで、自分でパーフィット読んでみていろいろ発展させてくれるといいな。パーフィットはなんというか怖がられてるんだよね。ちなみに次の本になるはずのClimbing the Mountainの草稿もネットで公開されているので若い人はぜひ読もう! パーフィットの議論に穴を空けられれば世界的名声が。世界中の哲学若者がギラギラと狙っているはず。
- 「われわれの議論では」「われわれの結論は」は勘弁してほしい。それはたいていの場合加藤先生の直観的判断にたよってるので。
- 全体に「プラグマティックな解決」とかってときの意味がよくわからない。「理論的にはあんまりすっきりしてないけど、とりあえず多くの人が納得しそうな」なのかなあ。「私の直観によくあう」という意味ではないだろう。強硬なプロライフの人は加藤先生の議論に納得しないと思うけどね。そういや、同じようなことを言うAnthony WestonのToward Better Problemsの翻訳がどっかから出るという噂があるらしい。
- 第3章は一番言いたいことなのかな。いろいろ本気な感じがする。加藤先生の直感はいつもながらすばらしく切れるが、どこまで正当化できるか。
- 永井豪の「真夜中の戦士」を参照していて感動した。そう、あれジャンプに載ったときは衝撃的だったんよね。あのころのジャンプはすごかった。
- 第4章はフーコー、アガンベン、アーレントとぞろぞろおなじみの華々しい名前が出てくるけど、どうなんだろう。3章に比べると議論の「本気さ」が足りないような気がする。
- やっぱり「権利をもつ」ことと「道徳的配慮の対象になる」ことの区別がついてないのが気になる。「シンガーの動物の権利論」(p. 212)とか。シンガー先生は「動物は道徳的配慮の対象になる」とは言うけど、動物がなんかきっちりした「権利」もってるとまでは主張しないはず。まあこれはしょうがないか。
- でもなんで国内ではこんなに「権利」が軽視されているのか([道徳的配慮の対象となる」程度のと混同されているのか)ってのはほんとうにまじめに考える必要がある。もちろん、ハートやドゥオーキンが言うような「誰もが平等な道徳的配慮の対象になる権利をもっている」程度の非常に弱い意味の権利は誰でも持ってるんだけど。ほんとうに「権利」は難しい。ここらへんよい参考書はないのかな。調査すべし。
- 「関係性」が重要だとかってのはたいていの功利主義者は認めるわけだし・・・
- もちろん、シンガーの文脈では火星人もロボットもある条件(「利益をもつことができる=なんらかの欲求をもつことができる」)を満せば道徳的配慮の対象になる。アトムとか「真夜中の戦士」の登場人物とか完全に道徳的配慮の対象。
- 全体と通してオリジナル。オリジナリティのあるひとってのはほんとうに重要だ。でもパーフィットその他の文献の調査として読むのはやめてほしい。オリジナリティと文献調査の正確さってのは相性が悪いのかもしれない。
あざとい読者サービス
せっかく稲葉先生がトラックバック送ってくれたので、あざとく数少ない読者サービスしてみたり。
もしも本気であらゆる生命を讃えるならば、胎児を殺すことはいけないとか、障害者差別は許されないとかいったハンパな主張に安穏と留まることなどできるはずがないのである。なぜなら、胎児の組織の一片、障害者に寄生する細菌どももまた、生命であるという一点においては人間とえらぶところがないのだから。人間を生かすために病原菌を殺すことを肯定するのならば、それはもはや文字通りの「生命」の肯定ではない。そこにはすでに、殺してはならない存在者と殺してもよい存在者という区別すなわち存在者の序列化が密かにもちこまれている。(p.210)
この加藤先生の主張はまったく正しい。これがわかっていてなぜ昨日書いた第1章のような議論になるのはよくわかない。これに対して x0000000000 (0が多すぎると思う)さんはこう書く。
そうだろう。だが、僕は台所にいるゴキブリを殺したりするのである。それは、「生の無条件の肯定」を主張する僕と齟齬をきたすのか。そうではない。僕は、ゴキブリを殺すとき、「正当だから」殺しているのではない。つまり、ゴキブリを殺すことは悪である、という前提に立って、「悪をしでかす僕」としてゴキブリを殺している。僕は、そんな僕を正当化しない。
)
『美味しんぼ』第53巻(?)の「犬を食べる」での京極・山岡が菜食主義者の外国人をやりこめた議論と近い。かぼちゃかなにかの発芽の様子の映画を見せて、すべての生物が生きてるから牛豚犬とか食うのは道徳的に問題があるという人々をやりこめる。「それを仏教では業というな」「俺たちは罪深い存在なんだ」とかそんな感じ。
このタイプの議論にはずいぶん長いこと悩んでいるのだが、人々に理解されにくいのは、道徳的な主張には過去の行為の(狭い意味での)正当化の文脈と、これからの行動のガイドの文脈があるってことなんじゃないかと最近理解しはじめた。
X0さん(ごめん0省略)がゴキブリを殺すのを「正当化」しないのは立派なことだが、次もX0さんは台所でゴキブリを殺すだろう。でもネズミを殺すのもっと抵抗があるかもしれず、かなり自分が困ってもギリギリまで人間を殺そうとはしないと思う。そういうこれからの行動のガイドになっているのはいったいなんなの?ってのが広い意味での正当化の問題なんだよな。すべての生命がほんとうに同じ価値があると信じているのなら、これまでの行為を正当化しなくても、次の行為についてはそれがガイドになるはずだ。私はカボチャは平気で食べる(好き)だけど、豚を食べるときはあんまり平気じゃないし、できればなるべくよい環境で育った豚を食いたいと思っているし、これはとりあえず私にとって一定のガイドになっている。(私はあんまり道徳的でないのでなかなかガイドにしたがうことができない)
京極さんや山岡は「なんでも生きてるからなんでも同じ、だからうまいものを食う」と正当化するわけだが (実際にはよい環境の鳥や牛を食う努力をしているらしいが*2)、これはこれまでの行為の正当化と、これからの行為のガイドを混同しちゃってる。というか過去の行為の正当化の文脈ではやっぱり結局どうにも正当化できないから、これからもなんでもやる、という非常に怪しい議論に近くなってる。これじゃだめだ。これまで悪をなしきたことは消すことはできないが、これからその悪を減らすことはできるし、そうするべきだ。これまでゴキブリを殺して悪をなしたと本気で思っているのであれば、次はゴキブリを殺すことをなるべく避けるべきだ。これからもゴキブリを殺しつづけるのであれば、そしてゴキブリは殺すけどネズミや胎児は殺さないのであれば、なぜそうするのかを(できれば)説明してほしい。私は少なくも自分自身にはそれを説明したい。もちろん、自分が選択の余地なく「ゴキブリを殺さざるをえない」と本気で感じるのであれば、そこに選択する余地はないのだから、そういう意味で正当化する必要はない。
でもそれを認めれば、「私はレイプせざるをえない」と感じているひとがそうするのを道徳的に非難する理由もなくなってしまうかもしれない。まあここらへんはよくわかんないけど、こういうのはできるだけ避けたい。
おそらく、京極・山岡・X0の議論は、実は「私はそれに相応の罪悪感を感じているから正当化される」ってな感じになってしまっているんじゃないかと思う。おそらくX0さんはこの読みは不満だろうと思う。その不満は理解できる。でも私はやっぱりまずはガイドについて話をしたいと思う。なんらかのガイドを発見し、それに従うことができなかったときにそれに相応の罪悪感を感じるべきだ。X0さんが次にゴキブリを殺し、ネズミは殺さず逃がすとしたら、その違いはどこにあるんだろう? 次に他人の傷口を消毒して、そのひとの体の一部を細菌のエサにしないとしたら、その判断の違いはどこにあるんだろう? 私は消毒するときにはなにも罪悪感を感じる必要はないと思う。すべての生命は価値があると主張したシュバイツァーの病院が、実は医学的には非常に不潔な環境でけっこう多くの人を無駄に苦しめたったらしいって話はあんまり有名じゃないのかな。(ソースもってないから都市伝説?)
もちろん、なんの罪悪感を感じずに豚食べるひとはおそらく人間的に問題がある。「命を食べさせてくれてありがとう」っていう心性はとてもよいものだ。でも罪悪感を感じればなにをしてもよいわけではない。
こういうのはずっと前に書いた森岡先生の『生命学~』についての議論と関係があるんだな。道徳的な主張を感じるべき罪悪感の文脈で考える人と、ガイドの文脈で考える人がいて、それが難しい問題を生んでいるようだ。罪悪感は非常に重要だ。でもそれが正当化のすべてじゃない。関係する重要な文献はいくつかあるような気がするけど、本当によく書けている国内文献はまだ見てない。
*1:どう成功してないのか書こうとするとあんまり生産性のないロンブソになってしまう
*2:おそらくその方がおいしいからという理由かもしれないけど
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