ちなみに『ジュディス・バトラー』のSara Salihは英文学、http://www.utoronto.ca/english/faculty/bios/salih.htm、『ポスト構造主義』のCatherine Belseyも英文学っぽい。公式ページ見つけられないけどhttp://www.english.heacademy.ac.uk/intconf/plenary/belsey.htm。
もっともまあ、哲学ってもの一般と、学問の専門分野としての哲学とか哲学学?のようなものは区別しなきゃならん。どんな学問にも広い意味での哲学ていうか自己反省は必要だからして。方法論もってない学問ってのはありえん。また専門的な知識をもっているという意味で「知者」でなければならん。ある意味で、学者のほとんどは哲学者でかつ知者だし、またもうちょっと別の意味で学者じゃないひとにも立派な哲学者は多い。
ヌスバウムが指摘している問題は、広い意味での哲学者にすぎない人が、他の分野の学者のなかにまじって狭い意味での哲学者とみなされたり自称したりすることだな。ジュディス・バトラー自身は、狭い意味での哲学者を自称してはいないと思う。しかし、他の分野の人々(特に文学畑)がバトラーを狭い意味での哲学者である(そして「(文体だけではなく引用とか前提知識の点で)わからないのは私たちより哲学的に深いからだ」)ととらえていることは十分ありえる。プロフェッションとしての哲学ってのは成立するかとかそういうことだなあ。狭い意味での哲学者はthe learned professionと呼ばれるもののなかに入るかな?前にも書いたけど(http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060320)、新しい学問分野が成立するときとか、学際とかってのはあぶないものが成長しやすい場所だと思っている。前には(http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061126 の注)、哲学者ってのは「「哲学系の標準的なトレーニングしてロンブン書いている人」って書いたけどこれじゃだめだ。
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