小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(1)

ISBN:4569626157

前回書いた『情況』の大庭健先生は、次のようにおっしゃっている。

だからすでに生命倫理学の土俵に乗ってしまっている人は、せめて(小松美彦先生の)『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)程度だけでいいから、小松さんの仕事をきちんと読んで、自分の乗っている土俵がどのように作られたものなのかをもう一回考えなおしてくれないかということは少し言っておこうという気になっています。

私は生命倫理学の土俵に乗ってしまっている人ではないのだが、せっかく大庭先生のおっしゃることなのでちょっとずつ読んでみよう。

いろいろ気になるところだらけなんだけど、ちょっとづつ。

植物状態を扱っている第5章。

医師の堀江武先生の見解として

「植物状態患者には記憶機構も感覚系も作動状態にあり「意識」はあるが、表現手段のための運動系に障害がありコミュニケーションが不可能である」(小松 p.194)

ってのを紹介している。んで、「正真正銘の遷延性植物状態の患者」が看護婦の問い掛けにまばたきの回数で応答しているという報告が紹介されている(p.194)。

これどうなんだろ。植物状態というのは、厳密じゃないけど、「生きてはいるけど意識がない状態」ぐらいだと思っていた、もちろんもっと厳密にする必要がある。小松先生も神野哲夫先生の論文からこの定義を紹介している。「外界の刺激に対するawareness(覚醒)の欠如と、心機能、呼吸、血圧の維持などの植物機能は保たれている慢性の神経学的状態である」(p.185)。OK。妥当な定義に見える。

しかし小松先生は、遷延性植物状態の「定義」を『南山堂医学大辞典』からひっぱってくる。それによれば、(1)自力で移動できない、(2)自力で食物を摂取できない(3)糞尿失禁をみる(後略)とかってのになってる。しかしこれは判断(診断)基準であって「定義」じゃないだろう。

こういう「定義」と「判断基準」の区別の話はハーバードの脳死基準のときから口をすっぱくして語られているのに、なんで小松先生はその区別を無視してしまうのだろうか。わからん。

まあとにかく、植物状態はふつうは定義からしてawarenessがないのだから、問い掛けに応えるならそれは植物状態ではない。これは定義の問題。

んで、問題の堀江武先生の研究だが、この研究はちゃんとしたものなのかどうか確かめる必要がある。巻末の文献リストによれば、これは堀江武、1997、「外傷性植物患者との12年–シグナルからサインへ」、『第6回意識障害の治療研究会要項集』、19頁。あら、学術誌じゃない。この研究会はあんまりgoogleにもひっかからん。どうやって入手するんだろう。まあ国会図書館行けばありそうだが。CiNiiでも堀江先生はあんまりひっからん。どうも最近は日本語では書いて
いらっしゃらないようだ。

googleでひっかかった千葉療護センターのページは重要だな。 。http://chiba-ryougo.jp/ronbun.html 。病院全体として植物状態(意識障害)の患者さんの看護を研究しているようだ。

しかしこのレベルの研究会要綱や雑誌論文は、医学系では学術論文とは認めにくいのではないだろうか。確認してないけど査読とかもはいっていないんじゃないかと思うし。もし事実ならたしかに大発見だが、その後どうなってるんだろうか。それを小松先生のように医学的な新しい知見として紹介してしまうのはどうなんだろうか。やっぱりわれわれが医学とかの論文をとりあえず事実についての知識として信用するのは査読や検証や追試、引用などのシステムがしっかりしているからであるからして。哲学のロンブンとは格が違う(っていうか違っていてほしい)。とくに専門外の人間が医学についてなんか語るときはやっぱりちゃんとした研究を参照したいところだ。

意識、覚醒、認知機能

順番がひっくりかえるが、第5章(1)「植物状態の患者に意識はないのか」のところも気になる。

まあ植物状態で失なわれている「意識」ってのが哲学的にも医学的にも面倒なのはその通り。「意識とは、自己と周囲の状況とを認識している状態」(p.181)ぐらいでしょうがないかもしれない。でもこれこんどは「認識」を定義しないとならんからたいへん。

でも小松先生は次のように話をすすめる。

臨床医学には意識に関する最低限の規定がある。意識は「覚醒」arousalと「認知機能」cognitive function(「意識内容」contentとも呼ぶ) との二つの要素からなる、という規定である。したがって、臨床的に意識がないとされるのは、あくまでも覚醒と認知機能(意識内容)との双方が消失した状態を指す。ここで覚醒とは、外界に対して注意が向けられて刺激を受容し、反応が可能な状態にあることをいう。他方、認知機能(意識内容)とは、外界からの情報をもとに、外界の意味づけを行うとともに、そうした自己の行動を自覚している能力である。(p.183、強調kallikles)

まずこの理解の出典がわからん。まあ一般的なのかな。

次に気になるのは、覚醒の方の「外界に対して注意が向けられて」の一節。「注意を向ける」(志向性)ってのは、ふつうのなかなか高度な心的機能なんじゃないかと思う。たとえばゾウリムシも刺激に反応するわけだが、ゾウリムシが外界に注意を向けているかはなかなかむずかしい。まあ定義しだいかもしれんが。

んで、このあとに、

そして、これらの機能を仮に脳の各部位に還元させるなら、覚醒は主として脳幹に、認知機能(意識内容)は大脳皮質に対応しているといわれる。(同上)

と小松先生はいう。これどうなんだろう。誰の見解かわからんので調べようがない。少なくとも大脳皮質も「注意を向けて刺激に反応」する機能を果たしているんじゃないだろうか。

そして、小松先生の意味での「覚醒」がどの程度重要かってのが問題だよな。

んで本論。ピーター・シンガーのような論者は、「(大脳)皮質への血流がなければ、意識内容が不可逆に失われている、と確信できるのである」と言うわけだが、小松先生は上のような議論から、

そもそもシンガーのこの認識は、右で確認した意識障害をめぐる世界的な知見を踏まえていない。なぜなら、皮質死状態の者は、皮質の血流が途絶えていても脳幹が機能している以上、たとえ認知機能が失われているとしても、意識のもう一方の要素の覚醒があるからだ。(p.183)

とするわけだ。この議論はどうなんだろう。

そもそもシンガーのようなひとが問題にしている「意識」は、上の区別でいえば認知機能(意識内容)に対応するものなんじゃいのか。たんに外界からの刺激に反射するという意味での「覚醒」はそもそも問題ではないはずだ。ここらへんなんかおかしいぞ。

だいたいそもそも、(わざわざ順番を逆にしたのだが)さっきの「植物状態」の定義では「外界の刺激に対するawareness(覚醒)の欠如と、心機能、呼吸、血圧の維持などの植物機能は保たれている慢性の神経学的状態である」とされている。これはawarenessで単なるarousalではない。ふつうのawarenessは「外界からの情報をもとに、外界の意味づけを行うとともに、そうした自己の行動を自覚している能力」の方に近いのではないのか。arousalとawarenessをおなじ「覚醒」の語を使われては混乱してしまう。(もっとも、おそらく意図的ではなく引用の都合だろううし、ここが哲学的に難しいのはわかる。)

あと、p.184のシューモンの水頭無能児(脳幹は機能しているけど大脳が発達してない)が「音楽に楽しそうに反応し、鏡に映る自分の顔を見て嬉しそうに笑うのである。さらには、背臥位の状態でも足をぴょこぴょこさせながら、家具にぶつかることもなくベランダに出ることができた」という報告は、孫引きではなく、できればシューモンの原著論文を参照してほしかった。有名なひとなんだから論文も入手しやすいだろうし、同じ報告あちこち書いていそうなものだ。(私が調べるのは・・・うーん。その手の論文をネットで読める環境にはない。)

ここらへんの議論はたしかに難しいな。しばらく時間がかかりそうだ。私が書いていることもまちがいだらけだち思うので読んでいるひとは間に受けないように。

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