牟田先生たちの科研費報告書を読もう(2)

牟田先生の論文のセックスの平等まわりの議論はいろいろおもしろくて、学問として議論したいところがあるのですが、その前にもうひとつどうしても問題を指摘しておきたい論文があります。

古久保さくら先生の「運動と研究の架橋:世代の架橋としての教育の可能性」です。

この論文は大学でジェンダー平等教育をやってらっしゃる古久保先生が、どういう授業実践をしているのかっていうのことと、セックスにおける「自己決定」をどう考えるか、というのの二つがテーマで、これは問題として重要で論文の価値があります。くりかえしますが、私はこの科研費研究の報告書を公開していることはとても高く評価していて、現在の日本のフェミニズムのよいところと悪いところの両方がよくわかると思っています。

性教育はとても重要です。小中高での教育がいろいろ言われるけど、私は大学でも性教育もとても重要だと思ってます。生命倫理学や倫理学・応用倫理学の授業とかでも、いきがかり上、生殖や性暴力についていろいろ説明して理解してもらわなければならないことも多い。でもどういうふうに授業すればいいんだろう?

古久保先生はとにかく女性は犠牲者だっていうのを強調するタイプの授業をしているみたいですね。仁藤夢乃先生の「買われた展」 [1]これ京都でもやったんですが、事前に住所指名を明記した予約とかしなきゃならなくて入れませんでした。 とか紹介するみたい。仁藤先生は私ちょっとどうかと思ってるんですが、まあそれはいいです。

次はyoutubeのオランダの飾り窓のダンス。これはいかん!私腰ぬかしましたよ。動画は前から知ってましたが、これをそのまんま授業教材やなにかの論拠に使うとは。

これ、詳しい情報が英語ではあんまり出てこないのでよくわからないのですが、犯罪的トラフィッキングの犠牲者が、「このアムステルダムの飾り窓の中にいる!」とか、本当ですか? ただのパフォーマンスじゃないんですか? オランダって本当にそんな野蛮な国なんですか? パフォーマンスと事実の区別がつかなくなってませんか?

んでそういうふうに「売春している(若い)女性は犠牲者だ」って教えこんで、学生様にディスカッションさせるらしい。するとだいたい「許せませーん」とか言ってくれるんだけど、少数の学生様は「それ自分で決めてやってるんだったらええんちゃうか」って言うこともあるみたいですね。これは自然な発想だと思う。強制はいかんが、ちゃんとした年齢でちゃんと考えて自分からやってるなら、セックスワークはかまわんのではないか、という人々はたくさんいますよ。友人にセックスワーカーがいる学生様などは「いやいやではないって言ってました」とか指摘する。

ところが、古久保先生はそれでも売買春は悪いことだ、性差別だ、それを望んでする人はいないって思いこんでるみたいなんですよね。いちばん気になったのは、「性サービス産業に従事する友人をもつ学生も何人もいる」「性サービス産業に従事している若年女性は受講学生の近くにもいるのであるが、本人たちの姿を「納得している」「楽しそう」な姿として理解する」とか書いちゃってるんだけど、先生、先生のクラスには「友人」じゃなくて本人たちもいるでしょう。先生が「売春は被害です、セックスワーカーは犠牲者なのです」みたいな話ばっかりしているから「私もやってますけど」って言えないだけじゃないですか?

応用倫理学とかやってると、中絶とかセクマイとか性暴力とかセクハラとか、性教育まわりはいろんなこと話しなきゃならんわけですが、100人200人の講義してたら(大講義じゃなくても)そういうのをすでに経験しているひとびとが一定数いることは当然のことですよ。なにが「友人」ですか。長年そういう授業していったい何をいってるのですか。私はそういうのは許せませんね。そしてそういうのがフェミニズム教育だかジェンダー教育なのだとしたら、そういうのいらんのではないでしょうか。

まあその後ろの方の紆余曲折した議論はあんまり文句ありません。我々は自己決定が大事です。性産業はかなり難しいサービス業で、みんなが簡単にできるようなものではありません。特に若い人々ができるようなものではないし、いろいろ危険なのでせめて18歳ぐらいで規制しておきましょう。ちゃんとした自己決定ができるようになるために、家庭や教育は大事だし、ちょっとずつ自己決定したり拒否したりする訓練をしていかねばなりません。こんなの、誰だって言ってることじゃないですか。いったいなにをしてるんですか。

最初から性産業は特別な仕事だ、よくない仕事だって思いこんでるから自己決定だけじゃだめだって言いたくなるんではないですか? 危険な仕事はほかにもたくさんあります。そして、多くの場合、人々はいろんな選択を繰り返しながら自己決定を学んでいき、一部の人は危険な仕事をみずから選択する。強制される場合は社会がそれを保護しなければならないし、強制する奴等は罰しなければならない。まあそういうのは私も同意します。

でも古久保先生は、けっきょく、

自らのセクシュアリティを「自然」と位置づけ、性暴力被害の結果すら「自己責任」とみなそうとする学生の意識は、15回の講義を終了してすら変わっていないことがある。まじめに授業と対峙しなかったからなのか、対峙できなかったからなのか、彼らが何に怯え、何に傷ついているから「抵抗」をしているのか、授業の感想からでは理解しきれない部分は大きい。「抵抗」を理解するところから、社会的公正教育の実効性は高まる(……)とされるが、80-100人程度のクラスでそれはなかなかに困難なことではある。

ってな感じで学生様に対する違和感や(自分自身の)抵抗感を表明しておられますが、それって学生の方ではなく先生の問題なんじゃないでしょうか。あまりに自分の価値観を学生様に押しつけようとしてないですか? 「まじめに授業と対峙しなかった」だの「対峙できなかった」だの、学生の反論を「抵抗」呼ばわりして大丈夫なのですか? それに、飾り窓の件のように、おそらく事実じゃないことを事実だと思いこんでませんか? もうすこし学生様たちの言い分を聞いてみてはどうでしょうか。私は本当にがっかりします。

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References

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1 これ京都でもやったんですが、事前に住所指名を明記した予約とかしなきゃならなくて入れませんでした。

コメント

  1. 匿名希望 より:

    大変興味深く拝読しました。しかし、このようなアカデミックな論評とは別に、もう一つ論評して頂きたいことがあります。

    それは、ウィメンズ・アクション動画発信ナビ( http://movie-tutorial.info 以下、動画発信ナビ) の学術的意義についてです。3/25の更新で、研究者の専攻分野(ジェンダー研究)と関係があるという意味で、学術的意義が少なくとも存在する『架橋するフェミニズム―歴史・性・暴力』が追加されました。しかし、この更新以前のWebサイトの学術的意義についてどのように評価されますか。以下がインターネットアーカイブでの3/9時点のWebページです。なお、当該科研費の2016年度実績報告書によれば、この3/9時点のWebサイトが研究成果の一つとされています。

    http://web.archive.org/web/20180309155831/http://movie-tutorial.info

    私は次のように評価します。動画発信ナビには、学術的意義が全くありません。なぜなら、このコンテンツが科研費を受けた研究者の専攻分野(ジェンダー研究や女性運動)と何の関係も無いからです。そのコンテンツは単に映像制作(とYouTubeのアップロード)の基本事項を解説したものに過ぎません。

    江口先生は、3/9時点の動画発信ナビに学術的意義は少なくとも存在するとお考えですか(学術的意義が高いか低いかは別にして)。それとも、その学術的意義は全く存在しないとお考えですか。この論点に関して、ブログ上で詳しく論評して頂けると幸いです。

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