セックスの哲学史、みたいなのやってるわけですが、プラトンの哲学をテーマにした場合はなにを論じるべきか、とか考えるわけです。テキストはもちろん『饗宴』と『パイドロス』あたりですね。
この二つの作品についての日本の哲学者の先生たちの解説なんかだと、プラトンと愛&セックスの問題を扱う態度は二つあって、ひとつは、セックスや性欲の面をわりと軽めに扱って、「知への愛」とか真・善・美への愛の話なのだ、みたいにやる方法がある。田中美知太郎先生や納富先生なんかそういうお上品な感じかな。もう一つは、同性愛(とそれに対する近現代の社会的偏見)とか生殖とかそっちの話に焦点をあわせてやる方法で、これはたとえば前に紹介した近藤智彦先生とかがやってる感じ。
でもなんか私はもっと俗な読み方、俗な語り方があるような気がしていて、授業ではそれでやらせてもらってます。具体的には前に2本ぐらい記事書いた感じでやるわけです。
いまぼーっと考えていることでは、プラトンから汲み出せるのは、今も昔もかわらぬいくつかのテーマや通念、人間知みたいなものなんじゃないかと。まあ愛やセックスについて素手の「哲学」でなにかすごいものが発見できるというわけではなく、プラトン先生だってまわりの人々や自分の内的な感情を観察して語っているわけで、それが我々とぜんぜん違う、ってのもないだろうとか思ってます。
私が学生様に「プラトン先生はこんなこと考えてたみたいよ」って講義するときのポイントを列挙すると、下のような感じになる。
(1) プラトンにとってエロス/性欲/恋愛は凶悪な暴君で、これをどう評価しどうコントロールするかというのは正しい節制的な生活を送る上で最大の問題のひとつだった。
まあこれは我々のなかのそれが強い人にとってもそうかもしれませんね。
(2) エロスは悪しき困ったものでもありが、またなにか我々にとって有益なものでもある。
エロスは我々を気違いじみた行動に駆り立てることもあれば、よりよいもの、よりよい生活への原動力にもなる。そこで、プラトン先生はよいものとわるいものを分別しようとする。この「よいエロスとだめなエロスがありますよ」ってのはプラトン先生にとって中心的な感じがします。
(3) よいエロス、本来的なエロスはよいもの(善)への欲求である。
まあふつうに考えて、恋心にしても性欲にして、美人イケメンナイスバディといった容姿のよい人々、あるいはやさしいとか勇敢だとかっていう性格的な美徳をもった人々、あるいは頭が良いとか足が速いといった知的・肉体的な美点をもった人々に向かうもので、なにも長所やよいところがない人を好きになるのは難しいですね。ただ、プラトン先生は、おかしな考え方をするひとなので、美人のA子さんを好きなのは、A子さんの「美」を好きなのだ、って考えをすすめてしまう。「美」はA子さんと同じく美人のB子さんももってるので、ちゃんと理性を働かせれば、A子さんとB子さんを同じように愛せるようになるはずだ、そして修行をつめばA子さんとB子さんが共通にもっている「美」そのものを求めるようになるはずだ、みたいに考えちゃう。さらには、身体の美より魂の美の方がえらいのだから、魂の美を求めるはずだ、最後には美そのものをもとめるようになるのだ、みたいになっちゃう。哲学者とは思えないほどひどい論理だけど、まあそうなっちゃう理由もわからんではない。
(4) プラトン先生が気にしていて、批判したかたのは、「美と快楽」と「有用さ」を交換するふつうの人々の付き合い方だった。
これはかなり私のオリジナルな読みだと思うんだけど(そしてそう思うのは私が勉強たりないからなんけど)、古代ギリシアのパイデラスティアってのは、スタンバーグ先生がいうところの非対称的な関係なわけですよね。年上の地位やお金や知恵を手に入れたおじさんと、まだなにももってないけど若くてきれいな少年の関係。一方は美少年からサービスされることによって快楽を得て、一方はサービスの対価としてお世話してもらってお金や知恵その他を得る。これってまあ現代でもおじさんと若い女性の間に成立しているというあんまり清くないかもしれない形の交際のパターンですね。でもこれって、あきらかになんか不純なところがある。プラトン先生はそういう欲と損得勘定の人間関係ってのがいやだったんだろなとか。
まあ夜中に目が覚めちゃって、半端なことを書いてしまった。あと
(5) もっもプラトン先生は身体の美の価値は否定できない、というよりやっぱり好きで、特になよなよよりガチムチの方が強くてたくましくてえらいので、男女のあれより男どうしの方がえらいと考えていた。
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