クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』はたしかにモヤモヤする (8)

5「言論の格闘場」としてのアカデミア

5-1 寛容のためにマジョリティの意見を抑圧する?

アカデミアは、対立する意見をそれぞれ代表する人たちが、衆目のなかで一定の基準に従いながら意見を交わし合い論争を行う、「言論の闘技場」に例えられる。

まあそうだったらいいんですが、そうじゃないですよね。そして、実際には学者こそ言論を抑制されている。そんなの、クリッツァーさんだって知ってるじゃないですか。

そしてマルクーゼの「抑圧的寛容」の議論が簡単に紹介される。

「彼によると、右派の言論を認めず左派の言論に対してのみ寛容になる「解放的寛容」こそが真の寛容である。」

こういうのは馬鹿らしいのはクリッツァーさんは十分に気づいているわけです。しかし、ネットで起こっているのは実際にはそういうことですよね。それはちゃんと書いている。

5-2 アカデミアが「避難所」になってしまう理由

実際に、現在のアカデミア:研究会、学会、学術雑誌は「言論の格闘場」なんてものじゃなくなっています。むしろ、ネットよりずっと発言や表明できる立場に制約がある。クリッツァーさんはそういう問題をちゃんと理解している。

「アカデミア」なんてのはもう実践的・現在的な問題については格闘場などではありませんし、以前もそういう場所ではなかったろうと思います。でも、一般の人々が、難しい問題についてはちゃんと大学関係者とか学者とかそういう人々が、一般人のかわりにバチバチやって、その結果を見せてほしい、っていうのはわかります。なんかスポーツや格闘技みたいですね。学者はアリーナで闘うグラディエーターであるべきだ、というのはそうなのかもしれません(実は私も若いとき学会シンポウジウムとか聞きながらそう思ってました1

でもそれは学者まかせにしないで、みんなでやってかないとならんことだと私は思うのです。学者の世界と一般人の世界はまったくのところ地続きです。一般の人の関心や意見がなければ、人文・社会系の学者たちはやることがなくなってしまうくらいです。ぜひいろいろ発言したり出版したりしてください。

5-3 「あなたの言葉で傷ついた」という訴えは無視すべきか

さて、最後の問題です。ミルの危害原則にかかわるたいへん重要な個所です。

ここでは、言論の自由を強烈に(ミル以上に)用語するジョナサン・ローチが紹介される。

ローチによると、正しい知識にたどり着くまでの研究や討論においては、どこかで誰かが傷つく自体は 必ず 発生する。 ……キリスト教やイスラム教の原理主義者が傷つくからといって、思想と討論の自由が制限されることがあってはならない。同じように、マイノリティが傷つくからといって、思想と討論の自由が制限されることがあってはならない。(p. 129)(強調はクリッツァー)

これはゲイであるためにマイノリティであるローチ先生の非常に覚悟のある言葉ですわね。こういうのは感動します。

ただしクリッツァーさんの紹介には微妙なところがあって、ローチさんが実際に言っているのは、

  1. 「言葉で傷つけられた」人々には、 補償という形で 何かを要求するという道徳的権利はいっさいない people who are “hurt by words” are morally entitled to nothing whatsoever by way of compensation
  2. 〔異端者や差別者を〕罰しようとする人々の要求は無視されるべきだ people who call for punishment of “racists” … are enemies of inquiry and their clamor desearve only to be ignored (強調は江口)

1.は あなたの 言葉によって傷ついた人がいたときに、あなたがお詫びしたり考えを改めたり表現を工夫したりすることはおそらく道徳的にとてもよいことでしょうが、相手に補償(弁償、おわび、謝罪、お金)を要求する道徳的 権利 はない、ということですね(でも個人に対する侮辱や名誉毀損については賠償を求める道徳的権利や法的権利があるのはローチも認めると思う)。「傷ついた」に一応耳を傾けるのは道徳的義務でさえあるかもしれませんが、必ずしもいつもいつもそれをなんらかの形で賠償する必要はないだろうし、クレームつける側が、「傷ついた」というだけでは賠償を要求するような権利をもっているわけではない、ということでしょう。2.は「罰しろ!」という訴えは無視せよ、っていうことなので、若干印象が違いますね。

5-4 表現の自由を擁護することは難しい

しかし、ローチ先生のこういうのは「マッチョであるし極論が過ぎる」、というのがクリッツァーさんの判断です。

最後はヘイトスピーチの話になる。クリッツァーさんは自分がユダヤ系であるという個人的な体験からネットの発言にはいろいろ傷つくことがあってけど、インターネットの発言を「いちいち真に受ける必要はない」と認識できるようになってなんとかなっている。こういうのは偉い。

しかし「こうした 物分りのよさ を、他の人々に強要することは理不尽だ」という。これは、自分から望んで差別的な発言に慣れるのはその人が勝手にすればよいが、それを 他人に 「強要」することはできない、っていうことですね。これはまったくその通りに見える。ただし、「強要」じゃなくて「要求」ならどうだろう(レトリックだ!)。

そして、5-3でローチさんが言ってるのはまさに、「人を傷つけることを許容、ときには推奨しさえるするという制約をもつ知的自由主義が、唯一の人間らしい体制である」「〔発言によって人を〕処罰しようとする人々は知的探求の敵であり、要求は無視されて然るべきだ」ってことなんですよね。ローチさんが言おうとしているのは、「心ない言葉によって傷つかないようになれ」ということではなく、「 傷つくとしても 言論の自由は守らねばならない」、「気の毒だけど、君なら大丈夫だ」(Too bad, but you’ll live)ってことなんですよね。

「ヘイトスピーチ」は、ある個人やグループに対する攻撃であり、またそのグループ以外の聴衆に対するプロパガンダです。こういう言論をどう扱うかっていうのはクリッツァーさんが言ってるようにたいへん難しくて、学者先生たちも一般の人もみんなで考えていきたいですね。


私が見るところ、本書のタイトルの「モヤモヤ」は、主流派のカチっとした「正義論」やその他の政治哲学・道徳哲学を学ぶとけっこう弱者/マイノリティの(当然の)要求に厳しいことがあって、あんまり共感的・支持的でないところがあり、理屈ではそっちに賛成しなきゃならないようにも思えるけど、我々の多くは感情的には弱者寄りの立場を取りたいという感情や欲求や動機があって、そこがモヤモヤする、そういうところを表現しているんじゃないかと思うんですよね。

実際ローチさんの言い分は極論というか極端に見えるから、そうじゃないもっと穏かな立場とりたくなります。私もそうです。でもそのうまい方法がなかなか見つからないからモヤモヤする。ミルの「自由論」をちゃんと読んで、ローチのも読んである程度の説得力を感じるけど、ちょっとリベラルすぎるからドゥオーキンも読んでみて、でもやっぱりミルは強力なので弱点探したいけどなかなかうまいこといかない。

たしかにローチさんみたいな立場は強力そうに見えるけど、それでもそれに抵抗したい。だからそれを理性的・論理的に批判する理屈が欲しいし、そもそも理屈になんか従いたくない。やっぱりそもそも「リベラル」やめちゃおうかな、みたいな。私もそういう欲求はよくわかるし、以前はそういうのでずいぶん苦しんでました(実は今も苦しんでます)。これは倫理学とか政治哲学とかそこらへんやる人間にはどうしても逃げようのない苦しみなんですわね。クリッツァーさんのこの本は、そういうどっちつかずになってしまう苦しみをよく表現していて、とてもよいと思うので、まだ読んでない人は批判的に読んであげてほしいです。

第2部・第3部の続きも書くかもしれないけど、とりあえず一段落。「アカデミア」の話は追記するかもしれません。

脚注:

1

昔の日記にこういうのありました。「まあしかし、おそらくシンポジウムは、職がなく屈託している若手に、常勤職どうしの殺しあいを見せる場なのだ。発表が若手をいじめるだけなのであれば、せめてシンポはサーカスにしなきゃならん。学会は年に一度の祝祭であり、シンポはサーカスである。そして時に血が流れなければサーカスではない。学問的な誠実さってのはそういうところからはじまるべきだ。「学者」という職業に払われるかもしれない一定の敬意は、そういうところを生き抜いて獲得されるべきだ。いったん職を得てしまえばなにしてもOKってのはだめだ。ODがかわいそうだ。常勤職得ている人間はどっかでその対価を払わなきゃならん。」まあその後、自分が実際にシンポとかに呼ばれたときはバチバチやるように心がけてたんですが、評判悪くなっちゃってとほほのホ。若い人々にはおすすめできません。

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