クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』はたしかにモヤモヤする (6)

4-3 マスメディアと出版社

マスメディアや出版社はまだまだ重要な「制度」で、どちらも私たちに重要な知識や意見を与えてくれます。実際のところ、個人が手に入れ発信できる情報や意見というのは微々たるもので、マスメディアや出版社がそれを与えててくれてますよね。ネットで騒ぎになるようなものは、ほぼマスメディア経由でのネタだし。クリッツァーさんが指摘しているように、マスメディア(と出版社、面倒だからマスメディアにまとめます)は情報の「キュレーション」、選別の役割も担ってる。まったく異議ありません。

でもマスメディアも営利企業なので、金銭的インセンティブに影響されます。これも問題ない。そのインセンティブに釣られて、あんまり質のよくない情報を流してしまうこともある。まあこういうのはよく指摘されていることだし、問題ないです。

4-4 炎上マーケティング

んで、出版社の炎上マーケティングが問題にあんる。

一方ではシーラ・ジェフリーズの『美とミソジニー』、ヘレン・ルイスの『むずかしい女性が変えてきた』なんかがネットで炎上しそうになりましたが、これは炎上させようとした側が悪い、というのがクリッツァー先生の判断。

しかし、プラックローズ/リンゼイの『「社会正義」はいつも正しい』やアビゲイル・シュライアーの『あの子もトランスジェンダーになった』1については、出版社がマーケティングのために意図的に人々の感情を煽ったのだろうから、出版キャンセルの動きを呼びこんでしまった出版社に非がある、という判断のようです。

ここで、クリッツァーさんは気になる推論をおこなうわけです。こうした本はミル的な言論の自由とそれによる真理の追求や「生き生きとした理解」のためには役立つかもしれないが、意図的な炎上マーケティングが計画されていたという 事実 からすれば、「 出版社や担当編集者が同著の内容を真剣に捉えており公益に資するような議論を促すために翻訳の出版を目指した、という可能性をぐっと低くする 」と(強調某)。

実は4-3にも似たタイプの一文があります。

歴史と権威のある大手出版社のなかにも、疑似科学に基づいた書籍や歴史修正主義的な書籍を多数出版している会社はいくつか存在する。……結果論としてはミル的な「思想と討論の自由」が達成されるとしても、出版社や編集者の側が明らかに金銭目的で「誤った」意見の書籍を出版しているという事実を見過すことはできない。(p.110)

たしかにお金もうけのために適当な本を出版している本は少なくないと思うので、そういうのは同意します。しかし気になるのは、先生が、暗に「出版はすべて正しい知識の提供のためにおこなわれるべきである」と前提していること、そしてさらに「金銭的な動機が含まれている場合には、真理の普及のような向社会的な動機、善意は疑わしい」と考えていることです。これはあんまりよい考え方ではないように思います。シニカルすぎる。「シニカル」は「冷笑的」って訳されますが、believing that people only do things to help themselves rather than for good or honest reasons、まあ他人の行動は自分の利益のためのものであって、ちゃんとした誠実な理由にもとづいたものではない、って見る態度ですね。実際私には、「あの子もトランスジェンダーになった」はタイトルとして内容を見るとそんなにひどいものではないし、「トランスジェンダーになりたがる少女たち」との違いもよくわからない。本自体もそんな悪くないです。刺激的なタイトルを狙ったとは言えるかもしれないけど、非難に値するほどのものかどうかはわからない。クリッツァーさんは「刺激的なのを狙った」ということから金銭目的 のみ だ、と推論してしまっているように私には見えます。

我々の多くは、社会にとってよいことをしながら、お金を稼ぎたいと思っているはずです。お金も稼ぎたいし社会や人のためにもなりたい。それがふつうの人々の動機です(もちろんそこがなかなかうまくいかない時も多くて、みんなそれで苦しんでいる)。なぜ、クリッツァー先生にとって「誤っている」と思えるような本を出版している人々が、金銭的な動機にかられて善意や誠実さを放棄してしまっていると考える必要があるのでしょうか。「歴史修正主義的」と呼ばれるような文章を書く人はおそらくたいていはそれを信じており、それを出版する人々はその著者の書くものになんらかの価値があり、人々に読まれる価値があると信じて出版していると考えてなんの問題があるのでしょうか。人々には相応のプライド、自尊心、義務感、向社会的な動機などがあるものだ、と想定してなにが悪いことがあるのか。本が読まれてほしい(それゆえ売れてほしい)と願うことと、著者が誠実に本を書き、出版社がその本の内容を真剣に考えることは それ自体ではなにも矛盾(対立)しません

たしかに社会にはあまり品性がよろしくない人はいて、それはネットにも出版会にもマスメディアにもいるでしょう。でもだからといって、みんながそうだとか、大多数がそうだと考える必要はなにもないと思うのです。お金を稼ぎながら人のためになるなら最高です。なぜそんなにお金を稼ぐことに不正なものが含まれているかのような発想になるのか私にはわかりにくいです。

この節は次のように結ばれています。

営利企業である出版社が、わたしたちを正しい知識や理解に導いてくれる保証はない。 公衆としてのわたしたちが知識や理解に近づくためには、ネットやマスメディアだけで〔は〕足りない。社会的感情にも金銭的インセンティブにも左右されずに議論を行なって知識や理解を生産するためのアカデミアという制度が、やはり不可欠なのだ。(p.116)

アカデミアも「真理の探求」といった高尚な動機以外にも、さまざまな外的なインセンティブに左右されてします。そんなに盲信されるのは困ります。足りないのは、出版社がマスメディアやアカデミアが公衆に正しい知識を与えてくれるはずだ、と盲信して口をあけて待っているだけの態度でもあるのです。けっきょく足りないのは自由な言論であり、活発な討論なのです。

あとまあ、そもそも質の悪い情報や意見がそれほど広まるわけないと私には思えます。背景にあるのは、出版社側だけでなく、「騙されやすい読者」という他人(特に大衆)に対する軽蔑であるように思えます。そうしたエリート主義、権威主義が感じられて私には気になります。

脚注:

1

出版キャンセルされて、『トランスジェンダーになりたい少女たち』に改題されて別の会社から出版された。

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