クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』はたしかにモヤモヤする (5)

4-2 ネットの議論は感情と金銭によって歪められる

ジョセフ・ヒースの2014年の本『啓蒙思想 2.0』が紹介されて、人間の知能や理性を有効に昨日させるには環境や制度などの外的な補助装置=「外部足場」が必要だ、っていう主張が紹介されます。

んで、いきなり、

2024年の現在となっては、ツイッターにおける議論にはさまざまな害があり、その害を帳消しにするだけの価値や有益さといったももももはやツイッターには存在しないという主張に多くの人が同意するだろう。

ということが述べられている。これ、ちょっと見てると気づかないかもしれませんが、その前に引用されているヒースの意見は、「インターネットが政治にどう影響するかまだわからない」、「ツイッターは字数の制限があって合理的な討論には不都合だ」ぐらいなんですよ。2014年4月に出版された本だし、書いてたのは2013とか2012だろうし、まだツイッタができて5年やそこらで十分な評価できてない時期ですよね。だから現在ヒースがツイッタをどう評価しているかは、これだけではわからない。

実は、「 2024年の現在 」、「ツイッターには……害があり、害を帳消しにするだけの価値や有益さはないという主張」は、ヒース先生じゃなくて クリッツァー先生の主張 なんですよね。んで、それに多くの人が同意するだろう、と言われても私は同意しないし、多くの人が同意するかどうかもよくわからない。ここでクリッツァーさんは少なくとも害と(もしかしたらあるかもしれない)価値や有益さをリストアップしてくれるべきなんですよね。そして、私が見たところこの本のこの箇所に至るまで、ツイッターにある害や、あったかもしれない価値や有益さについてはほとんど触れてないと思う。

引用っていうのはわりと読み飛ばされやすいので「〜という主張に同意するだろう」って言われたら、海外の偉い学者さんらしいヒース先生がそういうこと言ってるのだな、それにこの分厚い本の著者のクリッツァーさんも同意しているのだな、んじゃ我々も同意しなければならないな、って考えちゃう読者はいるかもしれないけど、それはあんまりよい読み方じゃない。

実はこの「害あって利益なし」みたいなのはこの文章のあとに、クリッツァーさんがそう考える理由があがっているのです。要約すると、次のような感じ。

  1. (ヒースが言うように)、ツイッタは制限が多くて時間と字数をかけられない、断定的になりやすい
  2. 他人の目があるので「論破」をめざしたものになりやすい
  3. 「クラスタ」=党派ができやすい
  4. 他人の目が気になるため、自分のまちがいを認めにくいなどの弊害がある

あがってる害(社会的感情の側面)はこれくらいですか。それに比較されるべき利益の方はあがってない。

金銭的なインセンティブの側面については、ツイッタで閲覧数稼ぎのアカウントが多数あって困る、という話。デマ流したり、対立を煽ることによって収益化を計ってるアカウントがあるぞ、と。

ブログも収益化することが可能なので、そういう収益化しているブログはやはり派手な/過激な主張をして閲覧数稼ぎをする動機がある。「アテンション・エコノミー」ってやつですね。

こういうことから、クリッツァーさんは次のように主張する。

上述したような問題を考慮すると、現状のインターネット環境には、適切な知識や理解を生産して人々に共有する営みを誘発するようなインセンティブはほとんど存在しない。むしろ、知識や理解か人々を遠ざけるような行為をした方が儲かる。そのような善意や信念に基づいて公衆を啓蒙しようとする人々も多々いるが、その影響力は限定的であるし、インセンティブが存在していない環境のなかで啓蒙の努力を継続することも困難だ。(p.108)

これ、 本当ですか? 私にはいまだにツイッタにもブログにもたくさんの知性豊かな人々がいて、そういう人々は有益な知識や意見を(無料で/一部は有料で)発表してくれていると思うんですが、なぜそうしたポジティブな面を見ないのですか? クリッツァーさん自身が、上のような過激で極端な意見を唱えることで注目を浴びようとか、人々を説得しようとかしてませんか?

私たちがネットで発言する動機は、金銭的なものだけではない。人々に正しい知識や意見を広めたいという人々もいるし、たんに情報や意見を共有することに喜びを感じる人々もいる。こういうのは、「啓蒙」というヒースさんが必要だと考えていることをなしとげるための重要な部分だ。SNSやブログのような仕組みに私たちが慣れるにはまだ時間がかかるかもしれないけど、私たちは現在でもそこそこうまく使っているし、これからもっとうまくなることでしょう。

ちなみに、ネットの発言については、「承認欲求」のようなキーワードがよく指摘されて、人々は承認欲求を満たすためにブログ書いたりツイッタしたりしているのだ、と指摘されることがあります。これはたしかにそうなんでしょう。しかし承認欲求、つまり人々から認められたい、自分の価値を理解してもらいたい、っていう欲求は、これは十分正当なものです。たしかJ. S. ミルも『自伝』のなかで、学者やライターといった知的な仕事をする人々が、あるていど大きなしっかりした仕事をする大きな助けになるのは、名誉心、功名心、つまり承認欲求、そいうもの以上はない、ということを書いていたと思います。なぜクリッツァーさんが、ネットの利益、効用を考えてみることなく、害と比較できる利益はない、とまで断言できるのか私にはわからないですね。

クリッツァーさんのSNSでの活動を一部見ていた人間からすると、ブログ(note)を収益化しているごく一部のユーザーのことを考えているように思えるのですが、そうした一部の人々のためにネットの価値を認めないっていうのはずいぶん心が狭いと思います。

なぜクリッツァーさんには啓蒙の努力を継続するインセンティブがなくなってしまったのだろうか。なぜ金銭的なインセンティブにこわわるのだろうか。まだたくさんあるんじゃないですか。まあもちろん、クリッツァーさん自身がいろいろ経験して、ツイッタなどの世界が嫌いになった、というのはそれはそれで個人的な体験としてありだろうと思うのですが、別に一般化するものでもないように思います。

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コメント

  1. optical_frog より:

    typo報告であります: 《実は、「 2014年の現在 」》→「2024年」

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