翻訳ゲリラ:セリア・ウルフ−デヴァイン「デカルト」

セリア・ウルフ−デヴァイン「デカルト(ルネ)(1596–1650)」

Celia Wolf-Devine, “Descartes, René (1596-1650)”, Alan Soble (ed.) Sex from Plato to Paglia, Grennwood, 2006. https://amzn.to/2QZoQ26 の非合法訳です。しょこら・江口某訳。

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\title{セックス哲学事典「デカルト」}

\author{セリア・ウルフデヴァイン}

\date{しょこら・江口聡訳 \\ \today}

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Celia Wolf-Devine, “Descartes, René (1596-1650)”, Alan Soble (ed.) \emph{Sex from Plato to Paglia}, Grennwood, 2006 の非合法訳です。しょこら・江口某訳。
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フランス人哲学者ルネ・デカルトは、数学と科学においても革新的な仕事を果たした人物であり、トゥレーヌ州ラ・エに生まれた。幼少時に母親を亡くし、病弱のゆえに苦しめられ、ラ・フレーシュ学院においてイエズス会士によって教育を施され、一度も結婚せず、定住することのないままいくつもの国で生活し、ヨーロッパの知の巨人のほとんど全員と多量の往復書簡を交わし合い、クリスティーナ女王(1635–1640)の宮廷でお抱えの哲学者となるべくスウェーデンに移ってからすぐに没した。デカルトはオランダ人の使用人ヘレネ・ヤンスと短いあいだ恋愛関係にあり、彼女について彼が述懐したところでは、「ほんの少し前まで私は若かったのだ。私は男で、貞潔の誓いは立てていないし、他の男どもより行儀のよい男としてまかり通ると主張してきたことは一切ない」(Rodis-Lewis, 138)。デカルトは自分たちの娘フランシーヌ(1635–1640)を認知し、(自分は頻繁に引っ越ししていたが)彼女らが自分の近くで生活できるように手配し、フランシーヌが幼くして亡くなったため、深く悲しむことになった。

デカルトが哲学分野で最もよく知られているのは、認識論と形而上学に彼が果たした貢献のためであり、とりわけ彼の徹底した心身二元論のためである。この心身二元論によれば、精神は思惟する、意識する実体(res cogitans[思惟する事物])であり、身体は空間において延長する質料(res extensa[延長する事物])にすぎない。こうした見解は、アリストテレスやトマス・アクィナスの伝統にある哲学との根本的な訣別に等しい。それによって、自然における目的論(合目的性)を拒絶するに至り、デカルトは身体の諸過程を機械的なかたちで説明することに取り組むようになった。デカルトは生命を身体の諸器官において発酵と似た過程で生み出される一種の熱であるとみなした。生殖についての説明においては、両性は、相手に対してイーストとして作用する一種の精液(seminal fluid)を生み出し、それによって生命の本質である熱を生み出すのである。こうして、男性も女性も演じる役割は同等というわけである(『人間身体誌』322)。デカルトの哲学上の革新は伝統哲学がもっていたセクシュアリティにまつわる理解の形而上学的基礎を根こそぎにする兆しを見せはしたものの、愛、欲望、それからセクシュアリティに関する彼の見解は保守的なものにとどまっていた。彼は書簡やその最後の著作『情念論』においてこれらの事柄を論じた。この著作はボヘミアの王女エリザベート(1618–1680)との往復書簡から生まれた。彼女はデカルトに、いかにして精神、res cogitans[思惟する事物]が、身体、res extensa[延長する事物]と相互に作用し合い、結びつきうるのか、説明するよう、繰り返し強く促していたのである。

情念は精神と身体が結び合う仕方を理解するために重要である。というのは、情念は「我々の精神に対してきわめて緊密であり、きわめて内的であるゆえに、情念が真に、精神がそれらを感得するそのとおりのものであるのでないかぎり、精神はそれらを感得することがどうしてもできない」(『情念論』26項)からである。とはいえ、情念は「精気の何らかの運動によって引き起こされ、維持され、強化される」(27項。「精気」が指しているのは、動物精気、すなわち、知覚と運動に含まれる、ごく小さく、素早く動き回る微細なものである)。それらは「自然が我々にとって有用であるとみなす事物を欲求するように、また、この欲求に固執するように、我々の精神を仕向ける。そして、情念を慣習的に引き起こすこの精気の揺れがまさに、身体を運動させるよう方向づけて、これらの有用な事物を我々が獲得できるようにしてくれるのである」(52項)。デカルトは、諸々の情念が邪悪であると判断することはけっしてせず、それどころか次のように述べる。「私には、それらのほとんどすべてが善いものであること、そして今生にとってきわめて有用であるゆえに、私たちの精神には、みずからの身体がそうした情念をなにも感じ取ることができなかったとしたら、この身体とほんのひとときの間でさえ結合し続けたいと願う理由は何もなかったであろうほどであることがわかったのです」(ピエール・シャニュ[1601–1662]宛書簡、1646年11月1日、AT IV, 538)。「情念によってこの上なく深く衝き動かされうるひとこそ、今生のこの上なく甘美な悦びを享受することができるのである」(212)。

デカルトにとっては、6つの原初的情念がある。すなわち、驚異、愛、憎悪、欲望、喜び、悲しみである。愛は「精気の運動が引き起こす精神の感情であり、この感情によって精神は好ましい対象と意志的に結合しようとする」(『情念論』79項、英訳は著者(AT XI, 387を参照))。もっと精確にいえば、愛は「同意であり、それによって私たちはみずからを私たちの愛するものと結合していると次のようなしかたでみなすのである。すなわち、私たちじしんがその一方の部分であり、愛されるものがその他方の部分であるひとつの全体を想像する、というしかたである」(80項)。愛が包括する現象はかなり多岐にわたっており、胎児が食べ物に対して抱く愛から私たちが神に対して抱く愛にまで及んでいる(シャニュ宛書簡、1647年2月1日。Kenny, 211–215)。愛はふつう、心臓のあたりの謎めいた熱やあたかも何かを掻き抱くかのように腕を広げる傾向と結びつけて考えられる(Kenny, 209)。(デカルトは空想的な生理学はたっぷりと提供してくれるが、奇妙なことに生殖器のことにはなにひとつ言及しない。性的欲望が生殖器に関連することは明瞭であるのにもかかわらず、である。)愛の「全体」とか「合一体」のうちでは、私たちは時折みずからを大きな、重要であるほうの部分であるとみなしている。けれども、たとえば父が子を愛する場合や、兵士が国を愛する場合にそうであるように、みずからを重要でないほうの部分であるとみなすこともまたあるだろう。今挙げた場合にあっては、私たちは他方のためにみずからの生命さえも犠牲にする用意があるのである。私たちは他の人々を「第二の自己」(un autre même)になりうるものとして理解している(第90項)。それゆえ、愛によって精神はみずからの孤立や利己主義を脱することができるようになる。(デカルトの情愛論については、Beavers、Frierson を参照せよ。愛や欲望の「合一体」説を唱える他の哲学者には、プラトン(紀元前427–347年)、ミシェル・モンテーニュ(1533–1592年)、G.W.F. ヘーゲル(1770–1831年)、それからロバート・ノージック(1938–2002年)が入る。Soble を参照せよ。)

欲望は未来のほうを向いており、それに動かされることによって私たちは善を得、あるいは悪を避けようとする。性的欲望は通常の成熟の結果生じるものである。「自然は人間のうちに、理性のない動物のうちにと同じように、性差を打ち込み、これによって自然は脳のうちに何らかの刻印を植えつけたのである。そうした刻印によって、私たちはある年齢や時期になると、みずからを欠陥ありとみなすようになる、すなわち、一つの全体の半分しかなしておらず、そのもう半分は異性のひとでなければならないとみなすようになる」。ある他人のうちに引き寄せられるものを見出すと、私たちの精神は「その一人に向って、精神が善を追求するべく自然が与えてくれたあらゆる傾向性を感じるのであり、精神はその善を、我々が所有しうる最大の善として表象するのである」(『情念論』90項)。私たちが相手の長所を知るより前にさえ別のひとではなくあるひとを愛するよう私たちを動かす物理的原因は、脳の諸部分の傾向性あるいは配列であり、それは、常にとはいえないまでもしばしば先行する経験が原因になったものだ。

引き寄せる力に基づく情念は、諸感覚を通じて知覚され、精神に強く作用するが、そうした情念は「情念のなかでも最も欺きがちなものであり、それに対して私たちは細心の注意を払ってみずからを防御しなければならない」(『情念論』85項)。愛は憎悪よりもいっそう力強く、それで秩序なき愛は憎悪よりもいっそう有害である。というのも、「悪いものに結びつき、ほとんどそれそのものになってしまうことには、意志によって善いものから切り離されていることよりもいっそう大きな危険」があるからである(シャニュ宛書簡、1647年2月1日。Kenny, 216)。ヘレネーに対するみずからの情念を鎮めるためにトロイアを炎上させることになったパリスについての詩を引きつつ、デカルトは愛のもたらす最大の悪は、恋愛相手や自分の快楽のためにのみなされる悪であると述べる。

情念の統御は幸福への鍵である。真に善であるものの知識が本質的に重要なのであって、私たちは情念によってみずからに依存しないものを望むべきではない(この点はデカルトにおける決定的にストア派的な要素である)。私たちはみずからの情念を直接的なしかたでは支配できない。というのは私たちは精気の揺れが鎮まらない限り絶えず情念を感じつづけるからである。それゆえ、私たちは情念を間接的なしかたで管理する必要がある。デカルトはそうするための多種多様な実践的提案を示している。ときには、みずからの注意を他のものへと向けつつ行為を差し控え、情念が鎮まるのを待たねばならない。時間をかければ、私たちはみずからを鍛え直し新たな習慣を獲得することもできる。ときには、何らかの傾向性の原因に気づくだけで、私たちがその傾向性を免れられることもある。デカルトは、自分が斜視の人々にひきつけられるのは、子供のころに斜視の女の子に対して抱いた愛が原因だと気づくことで、その後はこの傾向性を免れたわけであるが、それと同様のことである(シャニュ宛書簡、1647年6月6日。AT V, 56–57)。

人間のセクシュアリティは身体に根ざしており、異性の個体に対する熱烈な欲求は私たちが発育するなかで自然に発生する。私たちは慈悲深い神によってこのように造られたのであり、それゆえ私たちはこのように造られていることが私たちの善になるものであることを知っている。しかしながら私たちは全能者の目的について仔細の知識は持っておらず、それゆえ性的行動を支配する特定の規範は啓示か社会的な慣習に由来せざるをえない。

\begin{thebibliography}{99}
\item{} Beavers, Anthony. “Desire and Love in Descartes’ Late Philosophy.” History of Philosophy Quarterly 6, no. 3 (1989): 279–94.

\item{} Descartes, René. (1664) Description of the Human Body. In John Cottingham, Robert Stoothoff, and Dugald Murdoch (Eds.), The Philosophical Writings of Descartes. Vol. I, Cambridge: Cambridge University Press, 1985, 314–24.

\item{} Descartes, René. (1641) Meditations on First Philosophy. Revised ed., with selections from the objections and replies, trans. and ed. by John Cottingham, Cambridge: Cambridge University Press, 1996.

\item{} Descartes, René. Oeuvres de Descartes. Revised ed., 12 vols. Ed. Charles Adam and Paul Tannery, Paris: Vrin, 1964–1976.

\item{} Descartes, René. The Passions of the Soul. In Charles Adam and Paul Tannery (Eds.), Oeuvres de Descartes. Vol. XI, Paris: Vrin, 1967, 327–488.

\item{} Descartes, René. (1649) The Passions of the Soul. In John Cottingham, Robert Stoothoff, and Dugald Murdoch (Eds.), The Philosophical Writings of Descartes. Vol. I, Cambridge: Cambridge University Press, 1985, 328–404.

\item{} Frierson, Patrick. “Learning to Love: From Egoism to Generosity in Descartes.” Journal of the History of Philosophy 40, no. 3 (2002): 313–38.

\item{} Kenny, Anthony, ed. Descartes: Philosophical Letters. Trans. Anthony Kenny, Minneapolis: University of Minnesota Press, 1981.

\item{} Rodis-Lewis, Geneviève. Descartes: His Life and Thought. Trans. Jane Todd, Ithaca, NY: Cornell University Press, 1998.

\item{} Soble, Alan. “Union, Autonomy, and Concern.” In Roger Lamb (Ed.), Love Analyzed. Boulder, CO: Westview, 1997, 65–92..
\end{thebibliography}

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