翻訳ゲリラ:トム・ビーチャム「パーソン論の失敗」

Beauchamp, Tom L. “The failure of theories of personhood”, Kennedy Institute of Ethics Journal, Vol. 9, No. 4 (1999): 309-324の勝手な訳。著作権・コピーライトをクリアしていないゲリラ訳です。誤訳・誤植だらけ。脚注は面倒なので訳さず。文献表は原文を参照のこと。


パーソンであるとはどのようなことかということは、形而上学の基本的トピックの一つである。理念的には、純粋に形而上学的な理論は、パーソンと非パーソンをどのように区別するかということについて、道徳の問題を離れた関心しかもたない。しかしながらパーソンの形而上学は、形而上学を倫理学のしもべとして、ある好ましいと思われている道徳的な結論を弁護するように提案されることもしばしばである。ある個人が権利をもっているかどうかという問い、またパーソンについての理論が中絶、生殖技術、新生児殺し、治療拒否、老人性痴呆、安楽死、死の定義、動物実験といった実践的問題に向かうにあたって、形而上学が援用されることがある。

パーソンの理論のさまざまな目的を考えに入れると、形而上学的パーソンと道徳的パーソンの区別を導入するのが明瞭にする方法だろう。私の区別では、形而上学的パーソン性は、パーソンを他と区別するような心理学的性質のセットによって完全に構成される。それらはたとえば、自己意識、自由意志、言語習得、苦痛の感覚、情動などである。形而上学の目標は、すべてのパーソンがもち、またパーソンだけがもつような心理学的な特性のセットを見つけだすことである。対照的に、道徳的パーソン性は、道徳的行為者性や道徳的動機といった特性や能力をもいつ個人を指す。こうした性質や能力が、道徳的パーソンを非道徳的存在者から区別する。原則的に、ある存在者が形而上学的パーソン性のために必要なすべての特性を満たしているとしても、道徳的パーソン性に必要な特性をすべて欠いている場合がある。

しかし、公表されているパーソンの理論のほとんどは、この二つのタイプに明確に分けることはできないし、形而上学的パーソン性と道徳的パーソン性の区別に注意さえしていないこともある。これらのパーソンについての理論の提唱者たちは、一般にこうした区別をせずにテーマに近づこうとしている。彼らの目標は、まずは、個体に道徳的地位のために必須であり、それを与えるパーソン性──それが道徳的なものであれ非道徳的なものであれ──を区別する特性を描き出すことであった。30年の間、そしておそららく数世紀の間、パーソンに関する研究書は、形而上学のなかで個体の非道徳的な性質、通常は\kenten{認知的}な性質を描き出しており、ここから、道徳的地位についての結論が引き出された。典型的な例はマイケル・トゥーリーの有名な分析であって、これは形而上学的な前提から道徳的な結論に移行している(Tooley 1972, sec. 3)。

何かが、パーソンであるために、つまり重大な生命に対する権利をもつためには、どんな特性をもっていなければならないだろうか? 私が擁護したい主張は以下のものである。生命体が生命に対する重大な権利をもつのは、以下の場合でありまた以下の場合に限られる。それは、その生命体が、経験や他の心的状態の持続する主体としての自己の概念をもっており、自分自身が継続する存在者であることを信じている場合である。

トゥーリー(Tooley 1983, p. 51, cf. p.35)は次のように明示的に述べている。

「パーソン」という言葉は、その定義が道徳的概念を含む語としてではなく、純粋に記述的な語として扱うのがよさそうに思える。というのは、これが普通「パーソン」が解釈されている仕方のように思われるからである。

この説によれば、「パーソン」は純粋に記述的な内容(「自己意識や合理性をもつ存在者」)をもち、この形而上学的立場でのなにかをパーソンにする性質が、その所有者に道徳的諸権利や他の道徳的保護を与えることになる。

哲学、宗教、科学、そしてポピュラー文化においては、次のような信念がなお存続している。つまり、自己意識のようなパーソンに特別な認知的な特性・性質がそれに道徳的地位(moral standing)を与え、おそらく道徳的地位についての排他的な基盤を形成している。しかし私が信じるところでは、なんらかの認知的性質やその組み合わせが、道徳的地位を与えるということはなく、またこの種の形而上学的パーソン性は道徳的パーソン性にも道徳的地位にも十分ではない(もっとも形而上学的パーソン性の条件は、道徳的パーソン性の\kenten{必要}条件ではあるかもしれない)。また私の信じるところでは、道徳的パーソン性だけが道徳的地位の基盤ではない。したがって私がこれから主張するのは、形而上学的パーソン性は道徳的パーソン性や道徳的地位を含意せず、またどちらのパーソン性も道徳的地位の唯一の基盤ではない、というものになる。

形而上学的パーソン性の概念

パーソンの日常的な意味は、おおざっぱに行って、人間の概念と同一である。人間的な心理学的諸性質も、パーソン性についての哲学的論争では中心的な役割を演じ続けている。しかしながら、生物種としてのヒトのメンバーに特有の性質だけが、パーソン性に重要であうとか、道徳的地位を与えるという保証はない。もし、ヒト種のメンバであることと強く相関している特性が他の種のメンバーよりもヒトに当てはまるということが言えるとしても、これらの性質は単にヒトであることと偶然的に結びついているにすぎない。こうした特性をもっている個人が、ある特定の自然生物種に属しているということがありえるとしても、それはたまたまそうなっているにすぎない。そうした特性はヒト意外の種のメンバーももっているかもしれないし、コンピューター、ロボット、遺伝子操作された種など、自然生物種意外の領域の存在者ももっているかもしれない。

幸運なことに、パーソンについての形而上学的説明は、ヒトだけがもっている性質に言及しなければならないわけではない。(たとえばトゥーリーのような)認知主義的理論においては、ある存在者は、それが\kenten{ヒト}だけの性質をもっていることによってではなく、ある\kenten{認知的}性質をもっていることに場合そしてその場合のみパーソンである。形而上学的パーソン性の条件については、古典および現代の論者たちによって、だいたい次のようなものが提出されている。(1)自己意識(時間にわたって存在する自分自身についての)、(2)理由にもとづいて行為する能力、(3)言語を用いて他者とコミュニケートする能力、(4)自由に行為する能力、(5)合理性。

こうした諸特徴は、おそらく、種や起源やタイプからは独立にパーソンを非パーソンから区別するものである。たとえば、ロボットやコンピュータや類人猿、あるいは神が、形而上学的パーソン性の基準をクリアするかどうかは議論の余地がある。方法論的には、パーソン性である性質は、我々がパーソンについて共有している概念に訴えることによってアプリオリに決定されると想定されている。理論は経験的発見を必要としないのである。唯一の経験的な問いは、ある存在者が実際に概念的な条件を満しているかどうか、ということだけである。こうした方法の古典的な例は、ジョン・ロック(1975, 2.27.9、2.288.24-26も見よ)の以下のようなものとしてのパーソンの分析である。彼によれば、パーソンは「思考する知的存在者であり、理性と反省力をもち、それ自体をそれ自体として、別の時間と場所においても同一の考える物」である。ロックが指摘するところでは、「人間man」と「パーソン」は密接な関係をもってはいるが、この二つの概念ははっきりちがったものであって、彼は同じ人間が必ずしも同じパーソンでははないことを示す事例を提示してこの主張を擁護している。

時に、上の(1)-(5)に似た基準を弁護する論者によって、形而上学的パーソン性のためにはこれらの基準の一つ{\——}たとえば、自己意識、合理性、言語能力のどれか{\——}だけで十分であると主張されることがある。また、基準のそれぞれがすべて充たされる必要があり、五つの条件の組み合わせが必要にして十分な条件なのだ、と主張する論者もいる。典型的な見解では、五つの条件の\ruby{いくつか}{サブセット}が必要にして十分というものに思われる。

形而上学的パーソン性の問題点

こうした認知主義的理論はすべて、「パーソン」についての言語に生めこまれているコミットメントの深さを捉えそこねており、また時に純粋に形而上学的な主張から、道徳的パーソン性や道徳的地位についての主張にずれてしまうことによって、混乱をひどく悪化させている。こうした認知的な性質それ自体では、なんの道徳的含意ももたない。そうした含意は、分析がそれとは独立の道徳的原則、たとえば「パーソンに対する尊敬」といった原則を前提するかあるいは取り込むことによってのみ生じる。そうた原則は、形而上学理論とは独立であって、それとは独立に弁護される必要がある(そして適切な内容を与えられる必要がある)。

この点を明らかにするために、ある存在者が合理的で、目的をもって行為し、自己意識をもっているとしてみよう。この事実から、道徳的パーソン性や道徳的地位がどのようにして立証されるだろうか?こうした性質が存在していることから、道徳的結論が導き出せるだろうか?このような記述に適合するような存在者は、必ずしも道徳的行為の能力をもっているとか、正邪の判断ができるということにはならない。道徳的動機や責任の感覚をまったくもっていないかもしれない。我々が道徳的に判断できるような行為はなにもしないかもしれない。それはコンピュータかもしれないし、危険な\ruby{捕食者}{プレデター}かもしれないし、邪悪なデーモンかもしれない。この存在者の認知的な能力をどれほど高く評価しようが、こうした認知能力は道徳的パーソン性にはつながらないのである(またまちがいなく道徳的地位を立証するものでもない)。言語能力、合理性、自己意識やそうしたものは、道徳的行為者性や道徳的動機のような道徳的性質とは内在的な関係はもっていないのである。

トゥーリーの理論で見たように、形而上学的な探求においてしばしば引きあいに出されるのは自己意識、すなわち時間を通じて存続し、過去と未来をもつものとしての自己の概念である。鳥や熊のような動物が自己意識や時間を越えた継続性を欠いているならば、それらはパーソンではない(次を見よ。Buchanan and Brock 1989, pp.197-99; Harris 1985; Dworkin 1988, esp. Chapter 1)。しかし、人間以外の動物はなんらかの自己意識やそれと機能的に等価のものをもっていないということは実証されているというよりは想定されているにすぎない。動物の自己意識のタイプや程度についてとりあえず手元にある証拠はかなり印象的なもので、注意深い研究をしなければ、それらが自己意識をもっている可能性は捨て切れない。言語の訓練をした類人猿は自己言及をおこなうし、多くの動物はその過去から学習し、その知識を将来の狩りの計画や行動に生かしたり、エサを貯めたり、巣を作ったりすることに用いている(Griffin 1992を見よ)。こうした動物たちは、自分の身体と関心を意識しており、自分の身体と関心を他の固体の身体と関心ととりちがえることはない。遊びや社会的生活においても、動物は割り当てられた役目を理解し、自分がどういう役目を演じるべきかを決めている。鏡に反射した姿を自分だと認識する動物もいる(cf. Gallup 1977;DeGrazia 1997, p.302; Patterson and Gordon 1993; Miles 1993)。したがって、こうした動物たちには、少なくとも原初的な自己意識がありとみなす理由があるし、また、この能力には、それを分析する際の各種の基準において、程度の差があると考える理由がある。

こうした結論を避ける戦略の一つは、自己意識の概念に組込む要求を増やすことだ。ハリー・フランクファート (Frankfurt 1971)のよく知られた学説は、しばしば自律に関する理論として提示されるが、上の目的のために採用することができる(Dworkin 1988, Chapters 1-4;l Ekstrom 1993も見よ)。この理論では、すべてのパーソンが、そしてパーソンだけが、一定の距離をとった自己反省を含む形態の自己意識をもつ。パーソンは、自分の基本的な一階の欲求を、二階の欲求や判断や意思を通して判断し自分に重ねあわせる。二階の心的状態は、一階の心的状態を志向対象とし、一階の欲求や信念について考慮の上での選好が形成される。たとえば、ある長距離ランナーは、1日に数時間走りたいという一階の欲求をもっているが、その時間とコミットメントのレベルを減らしたいというそれより高階の欲求をもつかもしれない。二階の欲求からの行動は自律的であり、パーソンに特徴的なものである。一階の欲求からの行動は自律的ではなく、動物行動に典型的である。下階の欲求や選好を合理的に受容したり拒否したりする能力{\——}高尚な認知的能力あるいは一定の距離をとった自己反省{\——}がこうした理論の核心部分である。

しかしながら、この理論にはいくつかの問題がつきまとっている。第一に、二階における受容や拒否が、一階の欲求の強さによって引き起こされたり強化されたりすることを妨げるものはない。すると、個人が一階の欲求を受けいれたり自分のものと認めたりするということは、すでに形成されている選好構造の因果的結果でしかなく、新たな選好の形成や、特段魅力的なパーソン性の基準ではなくなってしまう。二階の欲求は(二階のものであることを除けば)一階の欲求と大きく違ったものでもなければ、因果的に独立のものでもないことになる。この二階の理論を自律やパーソン性の説明として説得的にするには、もう一つ部品となる理論、つまり、個人から自律やパーソン性を奪うことになる影響や欲求と、自律やパーソン性と整合的な影響や欲求とを区別する理論を追加しなければならない。

第二に、自分から一定の距離をとり、反省的コントロールをもつという条件は厳しすぎて、多くの人間的行為者(human actor)がパーソンではないということにされたり、その行動が自律的でないということにされてしまう。二階のレベルで自分のものとみなすということなどは、我々が通常行なっている行動において成立しているかは疑わしい。こうした要求の厳しい理論が潜在的にもっている道徳的なコストは、自分の欲求や選好をより高次のレベルで反省していない個人は、そのもっとも深い欲求や選好から行った行動についても、なんの敬意にも値しないということになってしまうということだ。ある理論の要求が厳しくなればそれだけ、その理論はこの種の問題に悩まされることにあり、パーソンに対する尊敬や自律の尊重といった道徳的原則の射程と要求を解釈するのが難しくなってしまう。

こうした問題に対処するため、要求される認知的活動性のレベルやクォリティを下げるにつれ、それを通過する人数は増えるが、これはヒト以外の動物についても同様である。より緩やかな条件{\——}たとえば、理解力と自己コントロール程度{\——}を満たす場合に、これには程度の差があることになるだろう。それゆえ、十分な理解力と自己コントロールと、不十分な理解力と自己コントロールとを分ける閾となるラインが理論のなかで定められねばならない。ここでもまた、閾を高くすれば、我々がふつう自律的なパーソンだとみなしているヒトの多くが排除されることになり、閾を低くすれば少なくとも人間以外の動物も含まれることになる。

実質的には、パーソン性や自律の基準のすべては程度の差を許すものであり、そのほとんどは時間につれて発達する。合理性と理解力は明らかに程度の差を許す(もっとも自己意識はもっと難しいケースである)。自律に程度の差を認めるような{\——}そしてそれゆえおそらくパーソン性にも程度の差を認める{\——}理論は、ある種のヒト以外の動物が、ある種のヒトより自律のレベルにおいて高い地位におおかれるという可能性を認めなければならない。ヒトが一般にこれらの基準で他種の動物より高いスコアを持つということは、偶然的な事実であり、ヒトという種に必然的な真理ではない。なにかの事故にあった後や、能力が衰退してしまった後のヒトよりも、ヒト以外の動物が上回るかもしれない。たとえばもし、言語実験室でトレーニングを受けたチンパンジーが、悪化したアルツハイマー患者を認知能力のあるスケールで上回れば、チンパンジーはより高いパーソン性を獲得しており、それゆえより高い道徳的地位をもつということになってしまう。しかし先に指摘したように、パーソン性について認知的基準にのみ訴える形而上学理論は、道徳的パーソンについても道徳的地位についてもそうした結論を含意することはない。この二つのトピックに移ることにしよう。

道徳的パーソン性の概念

形而上学的パーソン性と比べると、道徳的パーソン性は比較的単純である。私は道徳的パーソン性の必要十分条件についてを説明を試みることはしないが、次のような生物は道徳的パーソンであると想定してもかまわないように思われる。(1)行為の正不正について道徳的な判断をおこなう能力がある、(2)道徳的に判断されうる動機をもつ。これは道徳的能力と認知能力の基準でああるが、道徳的に正しい行動や性格の十分条件ではない。道徳的パーソン性の基準をクリアしても不道徳な個人が存在しうる。この基準を明確に説明するには、先に議論した認知的能力の一部が必要である。たとえば、道徳的判断をする能力は合理性を要求することになるかもしれない。上の二つの条件を擁護し、それを先に議論した認知的条件に結びつけるには、道徳的パーソン性についての一般的な理論が必要になるだろう。

しかしながら、そうした一般的理論は私が擁護しようとしている二つの基本テーゼのためには必要はない。最初のテーゼは、道徳的パーソン性、形而上学パーソン性(の認知的理論)とは異なり、道徳的地位の十分条件である。道徳的行為者は道徳的地位をもつ典型的な存在である。道徳的パーソン性の基準をクリアしている存在者は、道徳的コミュニティのメンバーであり、その恩恵、負担、保護、罰を受けとる資格がある。道徳的パーソンは道徳的互恵性と他者を道徳的パーソンとして扱うという共同体の期待を理解している。道徳性という制度そのものの核心にあるのは、道徳的パーソンは尊敬に値し、道徳的行為者として阪南されるべきだということである。道徳的パーソンは、我々がその動機や行動を非難し、無責任な行動を責め、不道徳な振舞いを罰することを知っている。コミュニティによって提供される道徳的保護は、道徳的パーソンの基準をクリアしていない弱者たちにも広げられうるが、こうした個人の道徳的地位は、道徳的パーソン性とは別の基盤にもとづけられなければならない。

第二のテーゼは、ヒト以外の動物は、類人猿やイルカや同様の特性をもった動物は例外となるかもしれないが、道徳的パーソン性の候補としては見込みがない。ここで私はチャールズ・ダーウィンの『人間の由来』(Darwin 1981, Chapter 3)を引きあいにすることにしよう。彼は動物が時に道徳的感情や傾向性を示すことを断言しつつも、道徳的判断をおこなうことを否定している。たとえば、彼によれば、動物が他の個体を罰するときには本当の非難の判断をしているのではないが、好意や愛着や寛大さを示すことはあるとしている。ダーウィンは良心(ヒトにおける道徳感覚)をヒトという動物に見いだされる「属性のなかでももっとも高貴なもの」と読んでいる。「私は、人間とそれ以下の動物のあいだに見いだされる違いのなかで、道徳感覚ないし良心が最も重要であると主張する人々の判断にまったく同意する」。ダーウィンはこうして、ヒト以外の動物は道徳的パーソン性のテストに落第だと考えた。

ヒトもまた、道徳的パーソン性の条件のどれかに欠ける場合には道徳的パーソンの基準に落第する。もし道徳的パーソン性が道徳的権利の唯一の基盤であるならば(私はそうは考えない)、このようなヒトは権利をもっていないことになる{\——}これはヒト以外の動物と同じ理由からである。保護されないヒトはおそらく胎児、新生児、サイコパス、重篤な脳障害患者、各種の認知症患者などになるだろう。私はここでこうした個人はなんらかの権利をもち道徳的保護に値すると論じるつもりだが、それは道徳的パーソン性によってではない。こん点で、こうしたヒトたちは多くの動物たちと同じ状況にある。彼らの道徳的地位の根拠は、形而上学的パーソン性あるわけではないのと同様に、道徳的パーソン性にあるのでもない。

パーソン性を欠く場合の道徳的地位

動物や道徳的パーソン性を欠くヒトにとって、道徳的地位をもつためにはタイプのパーソン性も必要ないことは幸運なことである。なにひとつ認知的あるいは道徳的能力をもたなくても道徳的地位をもつ生物もいる。その理由は、ある種の\kenten{非認知的}な性質や\kenten{非道徳的}な性質が、道徳的地位の尺度を与えるに十分だからである。

少なくとも、二種類の性質が生物に資格を与える。痛みと苦悩の能力という性質と、情動剥奪★という性質である。 ジェレミー・ベンサムが指摘したように、認知的性質よりも痛みを感じ苦しむ能力の方が、ヒト以外の動物の道徳的地位にとって重要である。最近までめったに議論されることがなかったとはいえ、動物の情動的生活も同じくらい重要である。 動物は愛、喜び、怒り、恐れ、恥、孤独などや、環境によって大きく変更され歪められ制限されうる広い範囲の情動をもっている(Griffin 1976; Orlans et al. 1998; Masson and McCarthy 1995)。

ヒト以外の動物は、痛みや苦しみの回避や情動剥奪に多くの利益をもつ。原則的に、そうした個体の地位は、ある種のパーソンの道徳的権利や利益を凌駕するほど道徳的に重要でありうる。たとえば、動物の利益は、調査をし、動物園をもち、博物館を運営し、農場を営むといったことについてのヒトの(認められた)権利を凌駕することもありえる。

苦しみや情動的喪失や他の多くの種類の害を与えることを避けるべきだという禁止命令は、道徳の原則のなかでも最も確立されたものである。この禁止命令は個体を保護するためのものだが、それは害がそれ自体悪いものであるためであり、その個体が属するある生物種やタイプのメンバーにとって悪いものであるからではないし、また個体が道徳的パーソンであるから、あるいはそうではないかといった理由からではない。動物は痛みや苦しみや情動剥奪以外の害を避けることに利益をもっている。たとえば、動物は動作の自由や生命の継続を奪われないことに利益をもっている。動物の利益の範囲については私の議論の射程にはない。私が主張したいのは、単に、我々は動物に対して少なくともなんらかの責務を負っており、それは動物のパーソンとしての地位からは独立であり、また道徳的地位を与える非認知的・非道徳的な性質が、その責務の基礎にあるということである。この結論は、形而上学的・道徳的パーソン性を買いているヒトにも同じように当てはまる。

どんな動物が権利をもつか?

ここまでのところ、私はヒト以外の動物の道徳的地位が\kenten{権利}を含むかどうかを議論しないままだった。よく知られた論文で、カール・コーヘンが主張するところでは、権利とは一方の当事者が他方の当事者に対して行使することが妥当であるような要求であり、そうした要求はあるコミュニティの内部でのみ生じる。彼が論じるところでは、権利は「必然的に人間的なものである。その所有者は」道徳的判断を下し道徳的要求をおこなう能力をもった「パーソンである」。動物はこうした能力をもたないために、権利をもつことができないと彼は言う(Cohen 1986, p.865; 1990)。

こうした見解は広く受けいれられているものの、動物と人間の両方を危険にさらすものである。よりよい見解は、形而上学的あるいは道徳的パーソンであるかどうかにかかわりなく、ヒトも動物も権利保有者となりうるとするものである。この結論は、道徳的責務の多様な基盤についての私の各種の議論から帰結するのだが、これらの議論はここで、権利は責務と相関的であるという方と道徳で広く受けいれられている学説と組み合わせる必要がある。この説によれば、責務には、それが\ruby{本物の}{ボナ・フィデ}責務であるならば(つまり、芸術のための募金をする「責務」のような、単なる思いこみによる責務や個人の道徳的理想ではなく)、常にそれに対応する権利を含意する。「XはYをする、あるいはYをもつ権利をもっている」はそれゆえ、規則の道徳的体系(あるいは、場合によっては法的体系)が、誰かに対して、XがYをおこなったりもったりすることを可能になるように行為する責務、あるいは行為を控える責務を課しているということを意味する。権利についての言語は、常にこうした仕方で責務についての言語に翻訳することができる。たとえば、もし研究者が被験体動物にエサをやる責務や、研究中に極度に苦痛のある手順を避ける責務を負っているとすれば、被験体動物はエサを与えられ、研究中に痛みを味あわない権利をもつ。相関性は、責務を認識している者は誰でも、動物がそれに対応する道徳的権利をもつということを\kenten{論理的に}認め\kenten{なければならない}。コーヘンや思慮深いパーソンのほとんどは、ヒトには、なんらかの源泉から発生するヒト以外の動物に対する責務があると信じているのだから、動物はそれに相関する権利をもつということになる。

また権利の保有者は、その権利を主張できる立場にあるかどうかとは独立である。ある権利保有者が特定のケースで必ず原告である必要はない。たとえば、幼ない子供や心理的にハンディキャップを負っている人々は、自分の権利を理解し主張することができないかもしれない。しかしながら、そういう人々も権利をもっているのであり、そうした人々のための要求は適切な代理人によってなされうる。同じように、動物はヒトがそれに対して負っている責務に対応する権利をもっており、また、動物自身やその代理人が権利を行使することのできる立場にあるかどうかにはかかわらずそうした権利をもっているのである。

動物や道徳的パーソン性に欠けているヒトの諸権利が正確にはどのようなものであるとしても(またその道徳的地位がどのようなものであるにしても)、そうした権利は道徳的パーソンが享受する諸権利と同じではないだろう。熊やビーグル犬は、道徳的パーソンに見られる責任能力や道徳的行為者性に欠けているため、その権利はちがったものになる。道徳的パーソン性の理論は、なぜある種の存在者は完全な道徳的地位をもつのかを教えてくれることになるだろうが、部分的な道徳的地位から他の存在者を締めだすに十分なほどパワフルなものにはならないだろう。このポイントはトリヴィアルではない。というのは、我々がヒトやヒト以外を使用することについての最も重要な道徳的問題{\——}たとえば、臓器の提供元として、あるいは実験の被験体として{\——}は、こうした動物たちが正確にはどういう道徳的地位をもっているかということ次第だからである。

パーソンの概念の曖昧さの問題

パーソン性理論の最後の問題は注意に値する。パーソンの基準についての文献群は、胎児、新生児、不可逆的昏睡、神、異星人、大型類人猿などさまざまなケースでのやっかいな論争でぬかるみにはまっている。こうした存在者についての事実は、論争の源泉ではない。問題は、パーソンの日常言語的な概念の曖昧さと本質的な論争可能性によって作り出されており、この概念は、心理的特性のかなりかなり\ruby{綻びのある}{オープンテクスチュアド}組合せによって構成されているヒト個体へのコミットメントをともなっている。

この概念の曖昧さは、パーソン性についての一般的理論によってはおそらく解消されそうにない。それが可能なのは、そうした理論が\ruby{改革的}{リヴィジョナリ}な場合だけである。理論というものは、たいてい、パーソンの概念の曖昧さを反映するものであり、人々を啓発するよりはむしろ意見の対立をかきたてるものである。理論はパーソン性についての複数の十分条件のセットがあるという主張の根拠しか与えてくれない。パーソンであるための必要にして十分な条件が見いだされる可能性は現在では霞んでしまっている。単純に言って、パーソンの概念は、、ある一般的哲学理論が他の理論を排除することを支持してくれるほど秩序だってもいなければ正確でもなく体系的でもない。

このパーソンの概念の曖昧さの問題を解決する一つのはっきりした方法がある。それを規範的分析から消去し、もっと特定化された概念と問題に関連する性質で置きかえてしまうのである。私は、形而上学的パーソン性と道徳的パーソン性の両方について この選択肢を選びたい。そうすれば、実質的な道徳的問題の核心に直接に迫ることができ、現在パーソン性の理論によって作りあげられてしまった遠まわりの道を歩まずにすむ。つまり、そうすれば、理性や道徳的同期など、ある特定の非道徳的・道徳的特性をもつことの道徳的含意を直接に検討することができるし、あるいは権利を付与するための実質的な基盤について討論することができる。胎児を中絶することができるか、異種間移植は許されるか、無脳症新生児は人体実験に使用できるかといった問いは、それが道徳的根拠にもとづいているか、またその根拠はどのようなものかという問いによって見直されることになる。

こうした提案は、我々は形而上学的パーソン性や道徳的パーソン性についての哲学的理論を放棄すべきだということを含意していると理解されるべきではない。私の意図は、この両者の理論が規範的分析における乱用を根絶したいということのみであり、理論のものを根絶することではない。

結論

私が規範的問題や私が到達した結論の実践的な含意については比較的少しのことしか述べなかったが、これはこうした問いが重要でないからではない。最後にそうした問題がどれほど重要なのかについてコメントして終ることにする。

ヒトとヒト以外の動物の間に伝統的に引かれていた線を壊そうとしてたくさんのことがなされてきた。 もしヒト以外の動物がこれまで考えられていたよりもずっと発達した能力をもっていると判明すれば、そうした動物の道徳的地位はもっとヒトのレベルに近づくことになる。しかし、この可能性はいまだ思弁的であってもう一つのテーゼほどは重要ではない。その重要なテーゼとは、多くのヒトはパーソンの特性を欠いている、あるいは完全なパーソン以下なののだから、道徳的地位において、ある種のヒト以外の動物と同じかそれ以下の地位におかれるとするテーゼである。もしこの結論が擁護可能だとすれば、我々はそうした不運なヒトは関連する点で似たようなヒト以外の動物と同じようには扱われることはできないという伝統的な見解を考えなおす必要があることになる。たとえば、そうした人々が、実験の被験者や臓器提供者として攻撃的に使用されることになるかもしれない。

おそらく、我々は伝統的な慣行を、パーソンや非パーソンという地位もとづく以外の仕方で正当化できるだろう。しかし、もし我々が説得的な別の正当化を見つけられないならば、我々は動物を現在のように使うべきでないか、あるいは、ヒトを現在使っていないように使うべきであるということになる。

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注は面倒なので訳してないです。参考文献等は原文 \url{http://faculty.risd.edu/dkeefer/mow/failure.pdf}をどうぞ。

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