男/女/トランスジェンダーの定義 (4) 『トランスジェンダー入門』での「ジェンダーアイデンティティ」

『トランスジェンダー入門』での「性別」は(我々の古い呼びかたでは)「セックス」ではなく「ジェンダー」の方です。それじゃ、「ジェンダーアイデンティティ」とはどのようなものだろう?

前の方のエントリでも書いたように、『入門』での「トランスジェンダー」は「出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たち」であり、ジェンダーアイデンティティ=性自認=性同一性は「自分自身が認識している自分の性別、自分がどのような性別なのかについての自己理解」です。

しかしここで重要な限定がついている。それは「帰属意識」です。ジェンダーアイデンティを定義しているところをもっと広く引用してみます。

これは自分自身が認識している自分の性別、自分がどの性別なのかについての自己理解のことを意味します。ただし、この場合の自己認識は、自分がどの性別集団に属しているかについての帰属意識とも関わっていますから、単なる「思い」とは少し違います。例えば、女性の集団に安定的に帰属意識を持ち、「女の子たち、集まって」と指示されたときに、自分を指しているとすんなり理解できる人、あるいは女性の人たちを前に「同性」がいる、とすぐに認識しつつ生きている人。そうした人のジェンダーアイデンティティは、女性であると言えます。(p. 16)

つまり、著者たちの発想のもとでは、人間の社会集団はジェンダー男性とジェンダー女性の二つに分かれていて、我々は出生時の性器とかの特徴からジェンダー男性かジェンダー女性の集団に投げこまれて、そこでさざまな規範や振舞い方などを修得し、ジェンダー男性やジェンダー女性になっていく、という感じなのだろうと思います。そしてジェンダーアイデンティティをもつとは、その どちらの集団に自分が帰属しているかの意識 である、ということですね。つまり、男組と女組のどっちに自分が所属しているかの意識、自覚、自己理解である、ということになります。これはわかりやすい。

そして大多数の人は、出生時に性器などの特徴から「割り当て」られた性別(ジェンダー)にさして違和感を抱かず、その集団に自分が属していると受けいれられるし、「男の子はこっちです」「女の子はこっち」と言われたらそっちに行くけど、そうした意識が生まれたときに割り当てられたジェンダーとは反対(ジェンダーは基本的には二つしかない [1] … Continue reading )の方に向かっている人がいて、それがトランスジェンダーの人々である、ということになるわけですね。

このときの「帰属している意識」あるいは「感覚」というのは、そちらの集団の方が自分にとってなんらかの意味で自然であるという感じなのか、適切であるとという判断なのか、そちらの集団に帰属 したい という欲求なのか、という問題はかなり興味深いと思うのですが、ここは私はいまはコメントはむずかしい。ちなみに、ジェンダーアイデンティは当然赤ちゃんなどはもっておらず、成長の過程でなんらかの仕方で獲得するものであり、その時期や獲得の過程、あるいは獲得の有無そのものには個人差がある、ということらしいです(p.17)。

とにかく私は「生物学的に男性に生まれた人が、「自分が女性 である 」という感覚をもつようになるのはどのようにしてだろう」という疑問をもっていたのです。もちろん、さまざまなジェンダー規範に違和感を感じる人々がいたり、それは自分には合わないものだと考えたり、自分の生活においてはそうした規範にしたがうことは否定したいと考えたりする人がいるのはわかるのですが、自分が生物学的に別の性別(セックスの意味で)である、と考えるというのはよくわからなかった。でもこれは私がまちがっていて、社会的な集団として自分は生まれたときに割り当てられている二つしかない集団の別の方の集団に属しているのだ(あるいは属すべきだ、属していると認められるべきだ)、という意識だというのは十分に理解していなかった。

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1 あとで考えると、この解釈はよくないですね。ジェンダーはいろいろありうるけど、現実の社会では主に二つだと思われているので、男性か女性かどっちかを選ぶことになる、ということだと思いなおしました。

コメント

  1. ちょびすけ より:

    江口先生の解説で、トランスジェンダリズムからの主張がようやくすこしわかりかけたような気がしますが、「性別」の定義問題についてはますます混乱します。

    >著者たちの発想のもとでは、人間の社会集団はジェンダー男性とジェンダー女性の二つに分かれていて、
    >我々は出生時の性器とかの特徴からジェンダー男性かジェンダー女性の集団に投げこまれて、そこで
    >さざまな規範や振舞い方などを修得し、ジェンダー男性やジェンダー女性になっていく

    ここで、「ジェンダー男性」あるいは「ジェンダー女性」とは何なのか、定義は出来るのでしょうか?

    伝統的なのジェンダー学の主張からは、ジェンダーとは「社会的文化的役割としての性」(いわゆる「男らしさ」「女らしさ」)であり、あくまでそれは社会的な構築物としての固定観念であって、打破すべきもの(いわゆるジェンダーフリー、ジェンダーレス)というところだったと理解していますが、はたして性自認の問題はこの伝統的な主張と整合的に理解することが出来るのでしょうか?

    彼らの当初の主張によれば、社会的な構築物としてのジェンダーはいわば植え付けられた「思い込み」に過ぎないはずなのに、生物学的な男性として生まれたが故に、ジェンダー男性に割り当てられ、社会的、文化的に男性性をインプリンティングされてもなお、強固に反対側の性を自認してしまう「性自認」なるものが存在するとすれば、それはもとの定義の「ジェンダー」とは異なる何かとしか言えないのではないでしょうか。

  2. 江口 より:

    私もだいたい同じように考えている(いた)のですが、どうもそこらへんから見直しを迫られているような感じで、もうすこしいろいろ考えてみたいです。

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