半年ぐらい前に、山口尚さんの『難しい本を読むためには』を読んで、ツイッタにこんなこと書いてしまっていたのです。
最初は「キーセンテンスを探しましょう」なんだけどよくわからない。
正直、私は「キーセンテンス」がなんだかわからなくてびっくりした。山口先生は「この文章はこれがキーセンテンスです」って簡単に言うけど、そんなもん全部読んでいろいろ考えてみないとなにがキーセンテンスであるかなんかわからないのではないか。「結論」がキーセンテンスであるとほのめかされているところもあるんだけど……ていうか、キーセンテンスってそもそもそれぞれ読者の解釈のキーになる文であって、文章そのものにキーセンテンスなるものが存在しているというわけではないんちゃうんかな。ていうか、キーセンテンスってそもそもそれぞれ読者の解釈のキーになる文であって、文章そのものにキーセンテンスなるものが存在しているというわけではないんちゃうんかな。
最近、山口さん本人からそれ咎められてしまって、リアルタイムでは最初はなにを咎められているのかよくわからなかったのですが、よく見てみると、上のようなことは山口さんは当の書籍ですでに十分に論じてあるので、わざわざそれを論じてないように紹介しているのは悪意によるものだ、っていうことなんじゃないかと思いあたりました。
特に悪意とかがあったわけではないですが、たしかにそう読まれてしまう可能性があるツイートだったかな、と反省しています。ただし、私が言いたかったのは「そうしたことも書いてない」っていうことではなかった(と思う。半年前だから記憶がさだかではないけど)。
私が読んだところでは、『読むためには』の主張は
- むずかしい文章を読むためには、キーセンテンス(筆者の主張、文章全体として言いたいことを端的にあらわした文(複数可))を探そう
- キーセンテンス(重要な文)を探すには、文章全体を理解しなければならない
- したがって、むずかしい文章を読み理解するためには、全体と部分をいったりきたりして理解を深めねばならない1
ってことだと思うのです。いわゆる解釈学的循環ってやつですね。これはもっともな話で、まったく問題がない。
私が言いたかったのは、そもそも「難しい文章を読むためにはキーセンテンスを探せ」っていう話にはどんな御利益があるのか、ということがわかりにくい、ということだったと思います。難しい文章を読むためにはキーセンテンスを探す必要があり、キーセンテンスを探すためには難しい文章を理解する必要があるのならば、「キーセンテンスを探せ」っていう課題(注意点?)にどういう意味があるのか。キーセンテンスを指摘できる人は、すでに文章全体を理解している人ではないのか。できれば最初から「キーセンテンスを探せ」じゃなくて、「何度もぐるぐるするんですよ」って書いてくれてもよかったと思う。
実際に第1部(第1章〜第3章)で例題としてあつかわれている池田晶子、千葉雅也、永井均などの先生たちの文章を見てみる。
最初にあつかわれるのは池田先生の文章で、全文ではなく部分なので全体としてなにを言っている文章なのかはわからないままに、その文章の冒頭と(おそらく)結論部分を提示して、山口さんが「私の方から一気に説明させていただきます。じつに池田晶子がその文章で目指しているのことは〜」ていう感じで文章の解釈を提示して、だから結論部分のこれがキーセンテンスだよ、という感じでキーセンテンスを同定している。これには当惑しました。おそらく、その文章で筆者が一番言いたいことを見抜くことができれば、冒頭の曖昧な文章の意味もわかる、ということを言いたいのでしょうが、その手順がわからない。
次は千葉雅也さんのツイートで、これはツイートで短い文章4つがならんでいるなかからキーセンテンスを選び出している。これも山口さんが解説してくれているけど、短い四つの文章からどれか一つ選び出すことがどう重要なのかよくわからなかった。まあ「ふつうは段落の最初か最後の方に筆者の言いたいことがあります」ぐらいならわかるのですが。
永井先生のやつ(〈私〉の哲学)はまさに難しい文章で、私自身は何回読んでもよくわからないのでキーセンテンスらしいものをとりだすことができない。
ちょっと永井先生を引用しますね。
……私が幼少期から感じていたのは、一見それ〔哲学上の他我の存在問題〕と似ているが実はまったく違う疑問 -— 同じ人間のなかに、大多数の普通の人たちと並んで、私であるというあり方をしたやつが一人だけ存在している、こいつは何なのか(この違いはいったい何に由来しているのか)、そしてなぜ二十世紀の日本に生まれた永井均というやつが それ なのか、という疑問であった。……
だが、さらに驚くべきことに、この問いはそもそも立てることができない問いなのである。なぜなら、この意味での私(であるという特殊なあり方をしたやつ)は 実在しない からである。そういうやつが実在することを、もし私が問おうとすれば、私は永井均の存在を問うか、一般的な(超越論的)自我の存在を問うか、どちらかしかできない。言語を使ってこの問いを立てる方法は存在しないのである。なぜなら、言語(ロゴス)は自他に共通の存在者の存在を起点として初めて成り立つ、世界が本質的に一枚の絵に描けることを前提にした世界把握の方法だからである。
特に後半が大事ですね。これはたしかに難しい。山口さんによればキーセンテンスは「この問いはそもそも立てることができない問いなのである」だそうです。段落の最初にあるからわかりやすい?
私が上の永井先生の文章を読めないのはいくつか理由がある。(1)「この意味での私は実在しない」の「実在」の意味がわからない。「この意味」っていうのもわかりにくいけど、おそらく他人とちがう特別な存在者としての「私」なんだろう。「実在することを問う」もわからない、これは「問う」っていうのの意味がわからない。「超越論的自我」もこれではわからない。言語に「ロゴス」っていうルビが振ってある意味もここだけではわからない。「世界が一枚の絵に描ける」という比喩的な表現も難しい。だから、なんとなく「この問いはそもそも立てることができない」っていうのが言いたいことだろうな、と私も思うわけですが(テストで問われたらそれを「キーセンテンス」にすると思う)、この文章全体がなにを言おうとしているか私にはよくわからないのです。
もちろん山口さんはこの文章の2〜3倍の量の文章で説明してくれているわけだけど、私はいまいちわかったようでわからない気分のままです。それは一つには私が永井先生や山口先生たちと問題意識を共有していないからだし、さらには哲学的な文章を読む訓練をしていないからだろうと思います。特に後者はお恥ずかしい話なわけですが、でも私たちはこういう「難しい文」を読めるようになるべきだろうか? 特に教育者として自分を見た場合に(私は自分をそう見ています)、こういう文章を読めるようになってほしいだろうか、というと実はノーなのです。2倍3倍の解説文がなければうまく理解できない文章、いつまでたっても「わかった!」って思えない文章を読む訓練は、中高生や大学生にはあとまわしでいいと思う。まずはちゃんと難しい内容をそれなりにわかりやすく書いてあるものをそのまま読めるようになるべきだ。
そういうときに、「キーセンテンスを探せ」「キーセンテンスは文章全体を理解しないと見つけられない」という循環っていうのはあんまり役に立たないように思うのです。
とにかく私は「キーワードを探せ」「キーセンテンスを探せ」っていうかたちで、なにか客観的に重要なものがテキストのなかに存在していて、それを探すことが大事なのだ、みたいな方針というのはあんまり賛成できないのです。キーワードやキーセンテンスというのはやはり私たちがそのテキストを読み、批評する上で目をつけるところ、目をつけたところであって、あらかじめ決まってるわけじゃないと思う。「けっきょくキーセンテンスを探せ」ではなく、あなたが読む価値があると判断した本は、一歩一歩たしかめながら着実に読みましょう、とかになりそう。
『読むためには』が、難しい本を読むための実践的な智恵というよりは、こういう解釈や循環の問題をオリジナルなかたちで考えようとしている哲学書であるということは理解できるのです。そして、「難しい文章」を読めるようになると同時に、哲学的な思考というもののおもしろさも紹介したいのだと思う。でもそれは、大学の教室とかで学生様たちにあるていど難しい本の読み方を教えたいと思っている人間にとっては、実践的であることを標榜している本の最初の部分としては、ずいぶん迂遠な話だと思ったわけです。
そもそも「難しい文章」一般がそうした手間をかける価値があるのかないのかもわからない。たしかに哲学の本は難しくて不思議なことが書いてあったりするわけで、それはおもしろいことも多いわけですが、それを苦労して読む必要があるだろうか。私はどういう本も最初の数ページ、あるいは1章分ぐらいを読んでみて、よくわからなかったらそのままにします。まだその本を読むだけの知識がないのかもしれないし、もしかしたら著者の方がうまく書けてないのかもしれない。甚解を求めず。いずれ読めるようになるかもしれないし、そのままかかもしれない。いずれ必要なことがその本に書いてることを発見することになるかもしれないし、あるいはやっぱり必要なかった、ってことになるかもしれない。そういうのは難しい文章を読む上でしょうがないことですよね。
そういうわけで、私はこの本の第1部(原理編)と第2部(方法編)はあまり納得しなかったのですが、第3部の実践編で「ほかの人の「読み」を聞く」や「読書会をやってみよう」はたしかに実践的でよいと思いましたね。そういうところで一文一文、細かいステップを追いながら読む訓練は必要だと思う。まさに正攻法だと思います。読みにくいところは著者にこっそり悪態ついたり、あるいは友人と「わからんねー」「おかしいよな」ってやるのもとても大事だと思う。自分でメモつくってみるのもいいし、勝手な感想をツイッタに書くのもよいと思う。読みにくいものや納得できないものはとにかく納得してない、ということをはっきりさせるのも重要だろうと思うのです。
脚注:
これについては山口さんから、「ぐるぐるするのはキーセンテンスの特定と全体として言いたいことの特定のあいだのぐるぐるだ」という意味のリプライをもらったのですが、「キーセンテンス」が「全体として言いたいこと」を表現したセンテンスだとすれば、その二つは同時におこなわれるはずなのでぐるぐるしないと思うのです。部分と全体、短い単位の文章と全体のあいだをなんども行き来するんじゃないかと思うのですが、ちょっと違うのかなあ。
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コメント
間違えてコメントを二回送信したかもしれません。すみません。
この文章はかなり難解な書き方をしているので、これだけ見ても何言ってるのかわからないと思うのは当然のことだと思います。「実在」「一枚の絵に描ける」は永井先生の他の文章でも出てきますが、初見では厳しいですし、逆に他の文章を読んだことがあれば僕のような学部卒(非哲学科)でもだいたいは分かりました(なので哲学的な文章を読む訓練とはあまり関係がないのではないかと)。この文章を読解するうえで重要なことは、この文章を読むより先に、永井先生がこの問題について書いたもっとわかりやすいものを読むことでしょうね。もっとも、それだと「難しい本を読むためには」になりませんが……。江口先生が興味を持たれるかわかりませんが、下にこの文章の意味(だと僕が思ったもの)を書いておきます。
この世界には何十億人という人間がいて、一人ひとりの意識を生み出しているメカニズムはみんな同じはずですが、現実に感覚や感情を感じることができるのは実際のところ一人しかいません。私がつまずいて転んだら痛いですが、他人がつまずいて転んでも痛みを感じません。誰でも感覚器官や神経の仕組みは同じはずなのに、なぜか一人だけ実際にその感覚や感情を感じることができる人間が存在している。
『人それぞれに自分の感覚や感情しか感じられないのは当たり前のことだ、みんなそれぞれに自分の意識を感じているだけなのだ』、と言っても、『その人それぞれ感じているたくさんの人間の中から、実際に感覚や感情が感じられる人間が自分であることはどうやって決まったのか』、と考えてもそれはわからない。自分が生まれる前はそんなあり方をしているやつは一人もいなかったし、自分が死んだ後もそんなあり方をしているやつはいなくなるでしょう。なぜかただ一人だけ、他の人と違ったあり方をしたやつがいる。永井先生が「私である」という形で問題にしているのはこのことです(この主張に対して、「いやそれは結局、人はそれぞれ自分の感覚や感情だけを感じているというだけのことであって、それ以上の特別さなんて何もない、永井の言っていることは勘違いだ」という主張も当然あるのですが)。
この文で言う「実在」というのは、「客観的な記述によって理解可能なもの」ということだと思います。
個々の人間については、客観的に記述して理解することが可能です。体かこういう構造をしていて、脳があって、そこから意識が生まれて、こういうことを今考えていて、と言った形で誰にでも認められる形で理解することができます。しかし、それらの人間たちの中から、どれが「私である」というあり方をしているのか、ということは客観的に記述することができません。
この永井均が私であるというあり方をしている、と記述しようとしてもうまくいかないでしょう。そもそも、そのことは人それぞれ誰にでも当てはまることだからです(人それぞれにその人個人の意識があって感覚や感情があってそれを一人一人感じていることは当たり前なので)。私が私であることは物理的に記述することは出来ません(私一人だけ何か特別な脳の働きがあるわけではないので)。自分だけは特別なあり方をしていると言っても、それはみんな人それぞれに当てはまることですから、客観的に見ればそんなあり方は認められません。みんなそれぞれ個々別々に意識があって考えたり感じたりしている、ということにしかならないでしょう。しかし、そうは言っても、現に感じられるのは他の誰でもないこの永井均の感覚や感情だけなのですから、やはり何か特別であることは間違いないと言うのが永井先生の主張になります。しかし、それは客観的に記述することはできない。これが永井先生の言う「実在していない」ということの意味だと思います。
難解な書き方なので自信はあまりないのですが、「実在することを問う」というのは、「私というものが客観的な世界の中に存在しているのかについて探究する」というくらいの意味だと思います。
「永井均の存在を問う」というのは、こういう体の構造をしていて、こういう精神状態にあって……という、一人の人間の物理的・精神的な在り方を調べる、ということです。永井均の脳状態や精神についていくら調べたとしても、「永井均は私である」という在り方をしていることは出てきません。
超越論的自我というのは、哲学史に詳しくないので自信はないですが、カントやフッサールのように、物理的・精神的にどうこうというよりも、そういう自己の意識を根本的なところで成り立たせている形而上的な自我を探究する、くらいの意味ではないかと思います。しかしたとえそういうものを形而上学的に探究しても、その形而上的な自我の構造は人間は(たぶん)みんな同じでしょう。なので、その探究によって、たくさんの人の中で一人だけ私であると言うあり方をしていることを理解することはできません。
「世界が一枚の絵に描ける」ということは、「客観的にすべてのものを記述しきることができる」という意味です。永井均という人間の物理的・精神的なあり方を記述することも、超越論的(形而上的)自我の仕組みを記述することもできるでしょうが、永井均が私であると言うあり方をしているということは記述できません。なぜなら、永井均は客観的に見れば一人の人間にすぎず、「私である」という特別なあり方をしていることはありえないからです。もちろん永井均は自分の感覚や感情だけを感じて他の人間の感覚や感情は感じないでしょうが、それは万人に当てはまることでしかありません。「私である」というあり方は、客観的な世界の中に位置づけることはできません。仮に、客観的に『やはり永井均は「私である」という特別なあり方をしている』と記述したくても、それは万人に当てはまることなのだから、皆それぞれに感覚や感情を感じている、としか書けないでしょう。しかしそうは言ってもやはり自分は特別で……と永井均は言いますが、やはりそれは万人に当てはまる。万人が個々それぞれの自分の感覚や感情を感じている(だけ)、という客観的な記述(=一枚の絵)の中には「私である」というあり方は収まらない=実在しない、というのが永井先生の主張だと思います。そして言語というものが、「私である」という特別なあり方を認めず、「人それぞれに自分の意識を感じている(だけ)」というということを前提にした、客観的に記述できることしか扱えないものであるがゆえに、(言語を使って)「私である」というあり方=客観的な記述に収まらないものを問うことは不可能だ、というのがこの文章における言いたいことなのだろうと思います。「ロゴス」というルビを振ってある意味は正直僕にもわかりません!
上の4コメントを残したものですが、うまくアップできていなかったようなので分割してアップしました。何度もすいません。
あら、コメントもらってたの通知なくて知りませんでした。そうですね。永井先生はそういうこと言いたいのだと思います。けっきょくはあの文章を読むにはそうした一歩一歩ステップを追うことが必要になるわけで、あれだけではわからない(そしてステップにも怪しいところがあると思う)。だから、難しい文章を読むには「キーセンテンス」を探すとかっていうよりは「一個一個読みましょう、理解できたらキーセンテンスがなんだかわかるでしょう」しかないと思うんですよね。そういうことを書きたかった話。山口さんというよりは、「キーセンテンス」とか「キーワード」とかを強調する文章の読み方にたいする疑問を書きたかったわけです。