まあミル先生も『自由論』でこう言っています。
たぶん、いうまでもないことだが、この理論〔他者危害原則、個人の行動の自由〕は、成熟した諸能力をもつ人間に対してだけ適用されるものである。われわれは子供たちや、法が定める男女の成人年齢以下の若い人々を問題にしているのではない。まだ他人の保護を必要とする状態にある者たちは、外からの危害と同様、彼ら自身の行為からも保護されなければならない。(『自由論』第1章)
子供や未熟な人々は、いわゆる「パターナリスティック」な見地から、つまり親や大人の観点から当人の利益のために、当人が望むような行為からも保護されなければならない。この点はあんまり争いがないわけです。問題は、私たちはどうやってそうした「成熟した諸能力」をもつようになるのだろうか、私たちはどのようにして大人になるのだろうか、ということですわね。私たちはある日いきなり成熟するわけでも、いきなり大人になるわけでもなく、少しずつ成長するしかない。そして、成長するためには、いろいろ試してみるしかないところもあるんですよね。
私がミルの『自由論』の話をするときは、第3章のこの部分は必ず読みます。
知覚、判断、識別感情、精神活動、倫理的好悪さえも含めた人間の諸能力は、選択という行為をする際にのみ訓練される。何事であれそうするのが習慣だからといってする人は、なんの選択もしない。彼は最善のものを見わけたり望んだりする練習ができない。肉体的能力と同じように精神的道徳的能力も、使われることによってのみ向上する。ただ、他の人々がするからするというのでは、これらの能力は少しも訓練されない。それはちょうどある事がらを、他の人々がそれを信じているという理由だけで信じるのと同様である。
私たちがうまく判断できるようになるには、少しずついろんなことを自分自身で判断してみるしかないんですよね。恋愛やセックスも、やっぱりどっかの段階で未熟な状態でそれにチャレンジしなければならない1。完全な安全なんてのは、安全な人生がないのと同じようにありえないのかもしれないし、ある程度の覚悟があれば、実は世界はそれほど危険なものでもないかもしれない。
カント先生の『啓蒙とは何か』の冒頭はとても有名です。ここでも成熟ということが論じられている。
啓蒙とは、人間がみずから課した子ども状態から抜け出ることである。子ども状態とは、他人の指導なしには自分の悟性(理解力)を用いる能力がないことである。このような子ども状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、子ども状態の責任は本人にある。「Sapere Aude! あえて知ろうとせよ!/あえて賢くあれ!」「自分自身の悟性(あたま)を使う勇気を持て!」こそ啓蒙のモットーである。……未成年でいることは、たしかに気楽である。わたしのかわりの悟性をもつ本、わたしのかわりの良心をもつ牧師、わたしにかわって食事を気づかってくれる医者などがあれば、わたしはあえて自分の力を使う必要などない。支払うお金さえわたしにあれば、自分で考える必要などない。誰か他のひとがわたしのかわりに厄介なことを考えてくれるだろう。親切にも人々の後見を買って出ている保護者たちが、大多数の人々(これには女性全部が含まれる)が、成熟することを、難しいとだけでなく危険でもあると思いこむように仕組んでいるのである。まず自分の家畜たちを愚鈍にてなづけ、次にそうして従順になった家畜たちが、つなぎとめられている補助車なしには一歩も歩き出せないようにした上で、万が一、彼らが一人で歩きだそうとなどすれば、この保護者たちは危険だぞと怯えさせる。ところがこんな危険というものはたいしたものではない。なんどか転んでしまえば、けっきょくはちゃんと歩き方を学ぶことができるのだから。しかしこういった戒めでさえ、ひとびとを気おくれさせ、それ以上のことを試みなくさせるに十分なのである。
前のエントリで紹介したアーチャード先生は、セックス同意のためにはセックスについての客観的知識だけでなく、価値観みたいなものまでも手に入れなければならないと言っているわけですが、やっぱり恋愛やセックスが当人にとってどのようなものであるのかというのは、やっぱり実際にやってみないとわからんところがあるのだろうと思います。おそらく、我々は搾取しようとする人々から若者を守らないとならんのですが、最終的には若者が自分で自分なりの判断ができるように判断を促すことも必要なんですよ。これがむずかしい。セックス啓蒙が必要なのかな。セックス啓蒙主義。
実際、日本はセックス啓蒙が進んでいないらしく、現在、日本で中学生ぐらいまでに性的な経験をすませる人は男女ともに5%ぐらいらしく、イギリスやアメリカなどの「先進国」とは比べものにならないほど低いようです。一般的な成熟の度合いを見れば(私の家の前が中学校なので毎日登校する中学生を見ているのですが)、まあ中学生ぐらいでセックスにチャレンジするのはおそらくだいたいの人にとっては早いかもしれない。
私自身は、少し前まで同意年齢は中学卒業ぐらいまで上げるのは悪くないかなと思っていました。そういうので、中学生(と)のセックス緩くに禁止しておいて、高校生ぐらいになってからチャレンジしたらどうですか、ぐらいのには賛成なんですが、でも、すでに淫行条例やら児童福祉法やらで年上の人間が若者を性的に搾取することを防ぐ手段はいろいろとられてるみたいです。そういうなかで、現在日本で一部の人が唱えているように、中学生ぐらいと恋愛したりセックスしてしまうような人々に一律に人生が完全に破綻するほどの厳しい罰則(無条件で5年以上の懲役、実刑)を与えてやろうというのあんまり賛成できないですね。小学生ならもちろん一律に罰してもいいだろうけど、中学生ぐらいについては「同意の存在による抗弁」ぐらいは許さないとならないように思います。原則一律違法厳罰というのは厳しくて、冤罪とはいわないまでもかえって人々の不幸を増やしてしまうかもしれない。ある立法や法改正が、目的としない副作用をどれだけ生むのかを予測しないというのは非常に危険だと思います。
うーん、ヨレてしまった。言いたいことは青少年の保護は大事だけど、それは刑法の厳罰化や処罰範囲の拡大とはちがうかたちでもいけるのかもしれない、むしろ別の方法の方が有効かもしれない、ということだったんですが。まあ続きはバス先生の新刊紹介しながら考えるかもしれない。
- セックス同意年齢の問題(1) Wertheimer先生の変な空想事例
- セックス同意年齢の問題(2) 前提の確認
- セックス同意年齢の問題(3) 年の差セックス!
- セックス同意年齢の問題(4) 強制の問題
- セックス同意年齢の問題(5) 搾取の問題
- セックス同意年齢の問題(6) ジュディス・レヴァイン先生の『青少年に有害!』
- セックス同意年齢の問題(7) 同意能力はなぜ必要か
- セックス同意年齢の問題(8) 同意能力には何が必要か
- セックス同意年齢の問題(9) 私たちはどうやって成熟するのだろうか
脚注:
自分の同性愛的な傾向に気づいたごく若い人がそうした傾向の年上の人々に近づいてみた、みたいな話は時々目にしますね。まあ中学生は早いと思うけど、やむにやまれぬところがあるのかもしれない。
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