美学を専門にしている難波優輝先生はセックスの哲学やその周辺に関心をもっておられ、たいへん優秀で「書ける」方で、注目しています。
『性的であるとはどのようなことか』という本をお書きになったので読んでみました。この本は「性的な広告」とかをめぐるSNSなどでの論争で、「何が争われているのかを整理する仕事」を目標にしているとのことです。(ネットを中心に)性的な要素を含んだ広告やそれに類するものについては私も興味があって、読まざるをえませんね。
でもちょっと読んでみて、なかなか理解(解釈)が難しいところや疑問点がそれなりにあって一週間ぐらい苦しみました。最近だいたいそれが解決したので、それについて書いておきます。同じように疑問を感じた人向け、特に学部生ぐらいの人、それに私のように物分りが悪い人、読解力に問題がある人向けです。
はじめに
最初の部分は問題ありません。
人々は広告表現やあれこれについて、「これは性的でダメだ!」「いや性的じゃない!」と議論している。そもそも「性的」とは何なのだろうか。(p.7)
これが本書の問いですね。よい問いだと思います。ただし、ふつうSNSで議論されているのは「性的だ!」「性的じゃない!」のような言葉をつかっていても、そうしたことを言わんとしているのは、「過剰に性的だ」「過剰に性的とはまでは言えない」という形なんじゃないかと思います[1]たとえば次のエントリ見てください。詭弁と誤謬推理に気をつけよう(1) 宇崎ちゃんポスターの場合 (宇崎ちゃん問題(1))。「性的である/性的でない」の二分法、1か0かというデジタルな話ではなく、非難されるほど性的なのかそうじゃないのか、ということを争っているように私には見える。でもまあとにかく先に進みましょう。
ポルノグラフィをめぐるアメリカ司法の歴史において有名な一言がある。何がポルノグラフィなのか、と問われた判事はこう言った。「見ればわかる! (“I know it when I see it.”)」(p.7)
この1964年のスチュワート判事の言葉はとても有名なんですが、注意するべきことが一つあります。この言葉の文脈はこうです。(とりあえずWikipedia) https://en.wikipedia.org/wiki/Jacobellis_v._Ohio
アメリカは憲法修正第一条ってので言論の自由がほぼ絶対的に認められているのですが、いくつか例外があって、その一つが「わいせつ表現」です。この判決では「わいせつ」な表現とされて言論の自由の保護に入らないもの(つまり当局が規制することが憲法上可能なもの)としての「ハードコアポルノ」というカテゴリーがあるという前提で、ある表現(映画)がそれに当たるかどうかが争われているわけです。スチュワート判事の意見はこう。
私は、第一修正および第十四修正の下では、この分野における刑罰法規は、いわゆる「ハードコア・ポルノグラフィ」に限ってのみ合憲的に及びうる、という結論に達した。私は本日、その略称によって指し示される種類の表現が具体的に何を含むのかを、これ以上定義しようとはしない。というのも、そもそもそれを首尾よく定義すること自体、私には不可能かもしれないからである。しかし、私はそれを見れば、それがわかる。そして、本件で問題となっている映画は、それには当たらない。(強調は江口某)
つまり、スチュワート判事のすばらしい目で見れば、それがわいせつで規制可能なハードコアポルノグラフィかどうか判別できる、ってなわけです。まあこのブログで何回も書いてるように、定義って難しいですからね。最終的には「例示」の積み重ねや「直示」でしか示せないものもあるかもしれない。見りゃわかる、っていうのも一理ある。
さて、難波さんも「意外に悪くはないかもしれない」と評価します。裸体の人間の画像とかは性的である、とすぐわかる。いいですね。ところが次がわからない。
しかしそうではない〔性的ではない〕ことにあなたは気づく。……マネの《オランピア》だ。展覧会の広告だった。あなたは思う。「これは性的ではないね」と。(難波 p.8)
これは私はわからないですね。私の言葉の使い方では《オランピア》は十分性的だと思うし、そう思う読者もかなり多いはずです。(背景事情、このモデルがそれを女性的魅力や性的能力を売り物している方であろうと考えればなおさら。時代や文化によっては「とてもわいせつだ」って言う人もいるでしょうね。実際いたわけだし。)

下着で出歩くことは赦されない。水着を着用することは、ある限定された空間では許されるらしい。水着は(そこまで)性的ではないが、下着は(かなり)性的である。(p.8)
これもわからない。私の感覚では下着も水着も同じように「性的」だと思います。オランピアの広告にしても下着や水着にしても、性的なことは性的だけど、その場面や環境によって許される場合と許されない場合がある、ってことだと思うんですが、それは「性的」であるかどうかとは別の基準に依存しているように私には思えます。
先のスチュワート判事のも「規制してよいもの(ハードコアポルノ/わいせつ表現)かどうかは見ればわかる!」という発言だったわけで、「性的」であるかどうかがわかると言ってるわけではない。
おそらく難波さんは、「性的」という言葉をごく狭く捉えて、「人前で見せるべき/見せられるべきでないもの」に限定しているのではないかと思うのですが、それならそういう説明をしてくれるべきだと思う。
何が性的か、何が性的ではないか。「基準」を私たちは手にしたいのだ。(p.9)
そうなると、これは単に「性的/性的でない」の基準ではなく、「何が非難されるべき/禁じられるべき「性的」なものか、なにがそういう意味での「性的」なものではないのか」と書いてもらえれば理解しやすかったと思う。
続きます。
References
| ↑1 | たとえば次のエントリ見てください。詭弁と誤謬推理に気をつけよう(1) 宇崎ちゃんポスターの場合 (宇崎ちゃん問題(1)) |
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