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最近の私は倫理学入門の最初のツカミに何を使っているか

まあ全国の倫理学系教員が、入門講義のツカミをどう入るかなあと考える季節ですね。まあだいたい倫理学系の教員はツカミだけはがんばる。あとは難しくてぐだぐだになっちゃう人は私を含めて多いと思うけど。

一時期導入にはみんな(マイケル・サンデル先生流の)トロッコ問題使ってたんではないかという気がする。私も3年ぐらい使ってたかな。

こんなんです。

【分岐線】一人の男が線路脇立っていると、暴走列車が自分に向かって突進してくるのが目に入る。ブレーキが故障しているのは明らかだ。前方では、5人の人達が線路に縛りつけられている。なにもしなければ、5人は列車に轢かれて死ぬ。幸い、男の傍らには方向指示スイッチがある。そのレバーを倒せば、制御を失った列車を目の前にある分岐線に引き込める。ところが残念ながら、思いがけない障害がある。もう一方の分岐線にはひとりの人が縛りつけられているのだ。列車の進路を変えれば、この人を殺す結果になるのは避けられない。どうすればいいだろうか?(デイヴィッド・エドモンズ、『太った男を殺しますか』、太田出版、2015、pp.19ff.)

私自身はこれ使うのは今は飽きてるし、ちょっといろいろ使いにくいところがあるから避けてる。

まあ「とにかく多くの人数を救うならスイッチ切り替えるんだけどねえ、でもそうじゃない意見があって〜」っていうふうにして、いきなり義務論とかそういうのがあって、みたいな話になってしまうことが多いし。この事例が最初に考えられたときの問題意識の対象の二重結果だの意図と予見だの、消極的義務/積極的義務だのていうのはけっこう抽象的でたいへん。

それに学生様にこの問題考えてもらおうとすると、職務上の責任とか一般人の責任とか、人間の生命の価値だとか、過剰に複雑な問題を含んでいて扱いにくいってのが一つ。「私はそのスイッチ切り替える義務のある仕事してるんですか?それともただの通行人?」みたいなの、たしかにきになるのもわかる。

私が一番こまるのは、仮想的すぎて学生様がそういう選択に場に置かれるっていうのがどういう感じか想像したり実感したりしにくいってことね。エドモンズ先生が、この暴走列車問題に対応する過去の現実の事例としてあげている、「ドイツのミサイルの被害を防ぐために、ロンドン南部の人々を意図的により多くの危険に晒すことは許されるのか」「日本との戦争を終わらせるために核攻撃するのは許されるのか」「海に落ちた乗組員を見捨てて潜水艦に爆雷落としていいか」みたいなのって、われわれ一般人が考えることじゃなくて、えらい人々の話っしょ、みたいな。大統領とか沖田艦長とかそういう人が考える事の世界。

んじゃどうしているかっていうと、ここ2,3年はバッジーニの「誰も傷つかない」つかってる。ははは。

【誰も知らない】スカーレットは自分の運のよさが信じられなかった。物心ついたときから、ブラッド・デップはあこがれの男性だった。それがなんと、スカーレットは今、バハマの人里離れた場所にあるブラッドの別荘にいるのだ。この別荘のことは、パパラッチさえ知らない。ひとりで海岸を歩いていたとき、スカーレットはブラッドから飲み物を勧められた。そして、ふたりで話すうち、彼が想像どおり魅力的な男性であることがわかった。やがて、ブラッドから、この数週間ずっと、少しばかり寂しい思いをしていたことを打ち明けられた。そして、職業柄、秘密にしなければならないが、一晩いっしょに過ごしてくれればすごく嬉しい、とも言われた。問題がひとつだけあった。スカーレットは結婚していて、夫を心から愛している。でも夫は知らないし傷つかないのだし、知られることは絶対にない。スカーレット自身は夢のような一夜を手に入れ、ブラッドはちょっとした楽しみを味わうだろう。それぞれが現状維持か、それ以上に豊かなときを過ごすのだ。苦しむ人は誰もいない。得るものが非常に多く、失うものは少ないというのに、ベッドへと誘うブラッドの魅惑的な瞳に抗う必要など、はたしてあるのだろうか?(ジュリアン・バジーニ、『100の思考実験』、向井和美訳、紀伊國屋書店、2012 pp.360ff)

これはまあどういうひとにもある程度身近な問題としてイメージすることができるんじゃないかと思う。もちろんヒュー・グラントやエミリー・ラタコウスキー先生とそういう感じになることはまずないけど、近い経験ってのはあるかもしれないし、なくてもそういう妄想がするのが好きな人々は少なくないだろう。こういうの使うからセクハラ先生と呼ばれることになるわけだが。

バッジーニ先生はこのシナリオで「信頼」の話をしようとしてるっぽい。
まあ他にも貞操とか性道徳とか、嘘とか、利己性とか、人間としての幸福の話とかにもひっぱっていきやすいので、半期の講義を通して何回か使える。

それから、こういう思考実験シナリオを読むときの注意みたいなのもやりやすいんよね。最初に、「それでは渡した紙に適当でいいので自分だったらなにを考えるかかきとめてください、あとでまとめて紹介します」みたいにやる。

ここで、フランクリンの例の損益表の話もすることが多い。アメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリン先生が、化学者のプリーストリー君にオヤジアドバイスをした手紙のやつね。この「書き留めて考える」は学生様にはぜひ修得してほしいし。

君がアドバイスをもとめた問題については私は前提条件を十分に知らないので、どうしたらよいか助言することはできない。しかし、もしお望みなら、どうやって決断すればばよいかをお教えしよう。こういう難しいことが起こるとき、問題が難しいのは、賛成と反対のすべての理由を心に一度に思い浮かべておくのが難しいからだ。一つのことが頭に浮かんでいるとき、他のことは視界から消えてしまう。さまざまな目的とか欲望とかが次々に心に現われては心をいっぱいにして、私たちをとまどわせるのだ。こういう困難を克服するために私がやるのは、一枚の紙を二つの列に分けて、片方に賛成意見を、片方に反対意見を書き出すことだ。つぎに数日かけて、いろいろな見出しで賛成の側、反対の側それぞれに、理由を追加していくのである。こうしてすべて書き出したのちに、それぞれの重みを検討してみる。同じくらいの重さのものを両方に見つけたら、両方に線を引いて消していく。2つの理由が反対の3つの理由に見合っていると思えば、その5つ全部を消すのだ。こうして続けていくと、やっと天秤がどちらに傾くかがっわかるのだ。そして、一日二日したあとで、もう何も大事な新しいことが思いつかなくなったら、もう決断することができる。理由の重みは数学の計算のように正確なものではないが、こうして別々に比較してみて、全体を目にすれば、私はまずまずうまく判断できると思うし、せっかちにまちがった判断をせずにすむ。実際私はこうした計算からずいぶん恩恵を受けたものっだ。私はこれを道徳的算数とか思慮の算数とか呼んでいる。君が最善の決断ができることを願っている。

A4紙1枚渡しといて、「縦に線ひいて、左に賛成、右に反対って書いてちょ。ProとConとか書いてやってるの洋画で見たことあるっしょ、Proは賛成でConは反対ね」とか。

「えー、さて、「あなたならどう考えますか」ってさっきお願いしましたが、実はこれ必要な条件足りないことにきづきましたか?なんか思い込みはないですか。」たとえば、スカーレットは何歳だと想像しましたか?20歳?40才?70才?30才と80才だと全然ちがう?なんでちがうの?」「そもそもスカーレットは女性だって書いてないけど、女性ですか?」「うわー!」みたいな。

「旦那との関係は良好なのでしょうか。旦那が常習浮気太郎や風俗マニアだったらどうですか。10年間セックスレスだと判断は変わりますか」「子供の有無が重要なのですか、へえ」とかであおってから、「んじゃ隣の人と相談して、さっき書いたやつにそれを付け加えてください。おもしろい意見は来週みせます。できた人から終了」ぐらいで終了する感じ。「スカーレットはこれ以前にもいろいろ浮気してたらどうですか」もやるな。学生様は「うえー」って顔をしている。セクハラかもなあ。まあ1回生にはできないけど、2,3回生配当だから許されるか。

んでこっからいろんな方向にいけるけど、最近はとりえず利己性の話にもってくかね。ギュゲスの指輪をつなぎにして、心理学的利己性の話にもっていく。ソクラテス先生に向かって、取り巻きのひとりのグラウコン君が、結局人にバレないような条件のもとではどんな正しい人だって自分の好き勝手なことしようととするんじゃないか、悪いことをしないのはバレるのがこわいからなんじゃないか、って主張しているところね。

ギュゲスは、羊飼いとして当時のリュディア王に仕えていましたが、ある日のこと、大雨が降り地震が起こって、大事の一部が裂け、羊たちに草を食わせていたあたりに、ぽっかりと穴が空きました。彼はこれを見て驚き、その穴の中に入って行きました。物語によれば、彼はそこにいろいろと不思議なものがあるのを見つけましたが、なかでも特に目についたのは、青銅でできた馬でした。これは、中が空洞になっていて、小さな窓がついていました。身をかがめてその窓からのぞきこんでみると中には、人並み以上の大きさの、屍体らしきものがあるのが見えました。それは、他にはなにも身に着けていませんでしたが、ただ指に黄金の指輪をはめていたので彼はその指輪を抜き取って、穴の外に出たのです。

さて、羊飼いたちの恒例の集まりがあったときのことです。それは毎月羊たちの様子を追うに報告するために行なわれるものですが、その集まりにギュゲスも例の指輪をはめて出席しました。彼は他の羊飼いたちといっしょに座っていましたが、そのときふと、指輪の玉受けを自分の方に、手の内側へ回してみたのです。するとたちまち彼の姿は、かたわらに座っていた人たちの目に見えなくなって、彼らはギュゲスがどこかへ行ってしまったかのように、彼について話し合っているではありませんか。彼はびっくりして、もう一度指にさわりながら、その玉受けを外側へ回してみました。回してみると、こんどは彼の姿が見えるようになったのです。

このことに気づいた彼は、その指輪が本当にそういう力を持っているかどうかを試してみましたが、結果は同じこと、玉受けを回して内側へ向ければ、姿が見えなくなるし、外側へ向けると、見えるようになるのです。

ギュゲスはこれを知ると、さっそく、王のもとへ報告に行く使者のひとりに自分が加わるように取り計らい、そこへ行って、まず王の妃と通じたのち、妃と凶暴共謀して王を襲い、殺してしまいました。そしてこのようにして、王権をわがものとしたのです。

さて、かりにこのような指輪が二つあったとして、それでもなお正義のうちにとどまって、あくまで他人の物に手をつけずに控えているほど、鋼鉄のように志操堅固な者など、ひとりもいまいと思われましょう。市場からんなんでも好きなものを、何をおそれることもなく取ってくることもできるし、これと思う人々を殺したり、\ruby{縛}{いまし}めから解放したりすることもできるし、その他何ごとにつけても、人間たちのなかで神さまのように振る舞えるというのに!{\――}こういう行為にかけては、正しい人のすることは、不正な人のすることと何ら異なるところがなく、両者とも同じ事柄へ赴くことでしょう。

ひとは言うでしょう、このことは、何びとも自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、動かぬ証拠ではないか。つまり、〈正義〉とは当人にとって個人的には善いものではない、と考えられているのだ。げんに誰しも、自分が不正を働くことができると思った場合には、きっと不正をはたらくのだから、と。これすなわち、すべての人間は、〈不正〉のほうが個人的には〈正義〉よりもずっと得になると考えているからにほかならないが、この考えは正しいのだと、この説の提唱者は主張するわけです。事実、もし誰かが先のようななんでもしたい放題の自由を掌中に収めていながら、何ひとつ悪事をなす気にならず、他人のものに手を付けることもしないとしたら、そこに気づいている人たちから彼は、世にもあわれなやつ、、大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは、お互いの面前では彼のことを賞賛するでしょうが、それは、自分が不正をはたらかれるのがこわさに、お互いを欺き合っているだけなのです。

(プラトン『国家』359D以下、翻訳は藤沢令夫訳の岩波文庫、プラトン『国家』上巻、pp.108-110。)

バレない指輪があれば星野絵音先生や川谷源先生からのお誘いに乗ってもいいだろうか、みたいにして話が続く。んで、その前に、「でもその前に、そもそも人間って利己的なもんで、愛だの恋だの友情だの正義だのっていってるけど、「結局考えているのは金と食い物とセックスのことだけだ」みたいな考え方があるからそっからはじめましょう」とかってのでツカミは十分だと思ってる。


愛をめぐるパスカル君とモンテーニュさん

最近実存主義はやってるみたいですね。ていうか実存主義はいつも「哲学」に興味ある読書好き学部生の心をひきつけてるんだけど、まあ哲学というよりは文学の領域にはいってるところも多くて、大学で「哲学」や「倫理学」教えてるような人間が授業でいじるにはむずかしいところもある。パスカルやショーペンハウエル、ニーチェあたりはもっぱら文学の人が扱ってますわね。キェルケゴールなんかも本来は北欧文学かなんかやってる人が扱うべき哲学者な気がする。あんまり証拠と論理を使って体系を組み上げていくてんじゃなくて、感覚的・感情的で、「こことここで矛盾してるぞ、整合的に解釈するとすれば〜」みたいな論文書きにくいし、文化や生活や当人の人生に密着しているからそういう文化や伝記的情報集めないと勝負しにくいし。

でもそういう人々が書くものっていうのはやっぱり魅力的で、読んでると「ああ、おれはテツガクしてるぅー」みたいな快があります。

恋愛の哲学といえば実存哲学者たちの独壇場ですわね。我々が台風のたびにお世話になっている哲学者・科学者パスカル先生はこんなこと書いてる。

けっこうイケメン。

けっこうイケメン。

ひとりの男が通行人を見るために窓に向かう。そこを通りかかったならば、彼が私を見るためにそこに向かったと言えるだろうか。否。なぜなら、彼は特に私について考えているのではないからである。ところが、誰かをその美しさのゆえに愛しているのものは、その人を愛しているのだろうか。否。なぜなら、その人を殺さずにその美しさを殺すであろう天然痘は、彼がもはやその人を愛さないようにするだろうからである。

そして、もし人が私の判断、私の記憶のゆえに私を愛しているのなら、その人はこの「私」を愛しているのだろうか。否。なぜなら、私はこれらの性質を、私自身を失わないでも、失いうるからである。このように身体の中にも、魂の中にもないとするなら、この「私」というものは一体どこにあるのだろうか? 滅びるものである以上、「私」そのものを作っているのではないこれらの性質のためではなしに、一体どうやって身体や魂を愛することができるのだろう。なぜなら、人は、ある人の魂の実体を、その中にどんな性質があろうともかまわずに、抽象的に愛するだろうか。そんなことはできないし、また正しくもないからである。だから人は、決して人そのものを愛するのではなく、その性質だけを愛しているのである。

したがって公職や役目のゆえに尊敬される人達をあざけるべきではない。なぜなら、ひとは、だれをもその借り物の性質のゆえにしか愛さないからである。(パスカル『パンセ』323)

これ、いつも人気の「「私ってなんだろう」っていう問いと、恋愛や友情の問題を結びつけたものすごく有名な箇所です。(パスカル先生の『パンセ』はこういう断片のよせあつめ。メモ書いといてあとで本にしようとしてたらしいけど完成する前に死んじゃった)

まあ人を愛するっていうのはどういうことか、ですわね。「〜くんが好き」とかいったって、それになんか理由(東大卒だから)がつくんであれば、そんなものになんの価値があるのか、というわけですわ。美人だからイケメンだから、お金持ちだから東大卒だから三井物産だからフジテレビだから、というその人のもつ属性や肩書を愛しているにすぎない。

ところが「人間は中身だ」とかっていったって、それもまた属性や性質にすぎない。「私そのもの」なんてのはどこにもないんじゃないの、んじゃいったい他人を愛するとかってどういうことなの、そももそも私ってなんなの、ぜんぶ借り物じゃん、みたいな。いいっすねえ。

でもだからどうなの、みたいなのもある。

まあこのパスカル先生の文章は、私の理解では、モンテーニュ先生の『エセー』の「友情について」に対する注釈になってるんよね。

恋愛や友情といった人々を結びつける力は、わしらの生活のなかでものすごく重要で 1)おそらく一番重要。 、人生について考える哲学者たちは皆それについて考えている。ソッソッソクラテスもプラトンもニッニッニーチェもサルトルも、みんなそういうのに悩んで大きくなった

このブログでも書いてると思うけど、プラトン〜アリストテレスのラインでの問題は、恋愛や友愛ってのにはよい関係と悪い関係があり、われわれは関係を同定しそれをもつようにしなきゃなんてことでしわね。

 

たとえばアリストテレス先生によれば、ピリア(友愛)には(1) 快楽によるもの、(2) 有用性によるもの、(3) 美徳によるもの、の三種がある。(1)のは美人イケメンとセックスしたり冗談で笑ったりするのは楽しいからおつきあいする、(2)のはお金持ちや家事うまい人といるのは便利だからおつきあいする、ってので、まあアリストテレス先生はそれが悪いとは言わないけけど、そんな価値のあるものではないと言う。優れた人間関係とは(3)のお互いの美徳を認めあい、それがお互いにさらに伸びることを期待しあう関係だ、と。

モンテーニュ先生は、こういう古代哲学に学んだセックス論や友情論を検討して、(3)の関係ってのはやっぱり男どうしだね、お互いのよいところを認め喜ぶのが友情だよ、うまくすれば一心同体ってくらいうまくいくよ、女性とのエッチな恋愛よりも男どうしの友情がいいよね、ぼくにも二十ぐらいのときにすごく仲のよい友達がいたんだよ、そいつの名前はエチエンヌ・ド・ラ・ボエシ 2)ボエシ君は実はちゃんとした先生で、邦訳もこのまえやっと出た。『自発的隷属論』。Wikipedia項目はまだないね。君さ、ほんとうによい友達だったんだ、生涯のベストフレンドだった、好きだったんだよ、でも早死にしちゃったんだってな話をするわけだ。まあ青年期の友情論の最高峰。

イケメンとは言えないけど、ボルドーの殿様だからまあ女は自由自在。

イケメンとは言えないけど、ボルドーの殿様だからまあ女は自由自在。艶福家であったのはまちがいないところ。

要するに、われわれが普通、友人と呼び、友情と呼んでいるものは、何かの機会もしくは利益のために結ばれた知友関係や親交にすぎないものであって、われわれの心もただその点でつながっているにすぎない。ところが私の言う友情においては、二人の心は渾然と溶け合っていて、縫目もわからぬほどである。もしも人から、なぜ彼を愛したのかと問いつめられたら、「それは彼であったから、それは私であったから」と答える以外には、何とも言いようがないように思う。(『エセー』第1巻28章「友情について」)

てなBLラブ好きな女子が鼻血出しそうなところが出てくるわけっすわ。パスカル青年はものすごくかしこかったけど、ぐだぐだ内省ばかりしてそういう友達もてなかった寂しい男。モンテーニュ先生が友情も恋愛もセックスも手に入れて、人生十分に楽しんだのに対して憎しみみたいなものさえもってたかもしれない。モンテーニュの下品なところとか淫らなところとか許せん!なんでそんなに楽しいのだ!みたいなことけっこう書いてる。でもだからこそ、実存主義者の元祖なのだ。ちなみにニーチェ先生は、「パスカルみたいな優れた人間を破滅させたのはキリスト教だ!禁欲的すぎる!許せん!」みたいに怒ってる。実存主義おもしろいっすよね。みんなどんどん読みましょう。

 

パスカルのパンセは文庫で安いので、適当に買っといて寝る前に一言だけ読み、「どういう意味だろう?」とか考えながら寝る、ぐらいがかっこいい。モンテーニュ先生の『エセー』はどこを読んでもものすごくおもしろいので、もう白水社の赤いやつの抄訳じゃなくて全部読みたい。特に『ウェルギリウスの詩句について』は恋愛とセックスに興味ある人はマスト。「習慣について」もおもしろくて、ああいうの読むとブログ書きたくなるはず。

 

 

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エセーの全巻は岩波文庫。どうせだったら大きな版のやつを買いたい。

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1. おそらく一番重要。
2. ボエシ君は実はちゃんとした先生で、邦訳もこのまえやっと出た。『自発的隷属論』。Wikipedia項目はまだないね。

大学教員は専門外のことにどこまでコメントしたり授業に組み込んでよいか

大学で授業していて教員がけっこう気にするのが、「自分の専門外のことについて、どの程度コメントしてよいか、どの程度授業にとりいれていいか」ってことです。これ、みんなけっこう気にしてると思うんだけどあんまり議論されてるのを見たことがないんですよね。

まあ1時間半最初から最後まで自分の専門である内容についてしゃべっておわり、ってことにできればそれでいいんですが、それでは学生様の注意が持続しないし、そんなおもしろくないので、個人的な出来事とか時事問題とかそういうのを解説してみたりすることはあるわけですわね。私自身はあんまり政治的な話を好まないので、授業でしゃべってることの具体例として「そういやこんな話があって」とか個人的に見聞きしたこととはをとりあげたりすることが時々あるくらい。でも「安倍政治だだめだ」「もんじゅ即時停止はあたりまえだ」みたいなことを言いたい人もいるかもしれませんね。私はそういうのは専門外だし情報集めてないからコメントしにくい。

でも専門として担当している授業が、倫理学とか応用倫理学とか、生命倫理学まわりだったりするから、ある程度知ってることについては、「いまこんなことが問題になってる、勉強してみてください」ぐらいはしゃべります。これは新聞や雑誌で見てる程度の話ですわね。あんまり政治的な主張がはっきりしたことを言うと、学生様はかなり抵抗があるみたいですね。ネットで「あの先生は意見を押しつける」とかって感想をよく見かけるし、それは避けたい。

私が最近気になっているのが政治の話ではないんですわ。全学の「教養科目」みたいなの担当していて、これってやっぱり私の専門である「倫理学」とかを教えるのとはちょっとちがったことが期待されているようなんですわ。それは、カリキュラムを変更して学部・学科の縦割りを進めすぎてしまって、学生様が自分の専門の話しか聞かなくなってるから、やっぱり大学生としての教養みたいなのを広くまなばせたい、みたいな主旨みたい。そういんで「倫理学」や「応用倫理学」はその専門のコマがあるから、「んじゃ愛とセックスの哲学でもやろう」ってなことになって、文学とかも少しはとりあげつつやるわけですが、問題は、私が音楽をとりあげていいか、ですわね。

私すごく音楽が好きなので音楽について誰かに語りたいことは山ほどあって、そういうの授業でとりあげていいのだろうか、みたいな問題。まあその授業は愛とかセックスとかに関連するような音楽作品とか美術作品(ポルノじゃなくてまじめなファインアート)やダンスとかの芸術についても触れたいじゃないっすか。っていうか、そうした文化や芸術抜きの恋愛や性の話っていうのはなんか不完全な気がするし。あと自分の経験からして、大学の授業でのそういう余計な部分というのはけっこう記憶に残っておもしろいんだわよね。芸人としての大学教員。

というわけで、去年のその授業では最後の方の10分ぐらい使って楽曲の歌詞や音楽的構造の話してみたりしてけっこうおもしろかったので今年もやってるんですが、これ許されるんかな。どう思いますか。

しゃべってる内容は、このブログでちょこちょこ書いてるようなネタや、あるいはたとえば(別ブログの)次のような話だったりする。

まあ授業の最後に、そこまでの授業のコメントシート書いてもらいながら、10分ぐらいだったら許されるかな。成績評価にも関係ないし。でもそういうことやるんだったらあるていどそういう学会とかにも入っておかねばならないのではないか、ぐらいは悩みますね。まあ嘘教えしまわない程度いろいろ試行錯誤しないと、自分自身が授業を楽しめないってのはあるです。

 


サルトル先生が夢見たガラス張りの世界

ネットとかでいろいろ書き散らかしていると、自分の思考や感情が他の人に見られるっていうのはどういうことか、みたいなのはよく考えます。次はサルトル先生のインタビューの好きな箇所の勝手な訳。時々授業で使います。

「あなた自身ことについて尋ねられることはいやですか?」
「いや、そんなことはない。誰もが、自分のもっとも内面的な事柄についてもインタビュアーに話すことができなければならないと私は思う。人々のあいだの関係をだめにするものは、お互いが相手に対して何かを隠す、何かを秘密にする──それは、誰に対しても秘密にするというわけでなくても、少なくともそのとき話している相手に対して秘密にする──ということにあるように思われる。

私は、誰もが他人に対して秘密をもたず、外的な生活だけでなく、内的な生活も完全に公開し、人に与えることによって、二人の人間が互いに相手に対してまったく秘密をもたないというようなときが来ることを容易に想像することができる。

……不信、無知、恐怖から生まれるよそよそしさは、他人に対して打ち解けさせない、あるいは、充分に打ち解けさせない原因である。また、個人的に私は会う人々に対してすべての事柄について自分の意見を言ったりはしないが、できるだけ自分をガラス張りにしようとはする。なぜならば、われわれの内にあるこの暗い領域は、自身にとってと同じく他人にとっても暗いのだが、それを他人のために明るみ出そうとすることによってのみ自身にとっても明らかになってくるからだ。

……当然、すべてを話すことはできない。しかし、もっと後、つまり、私が死んだ後、あるいは多分あなたの死んだ後になるかもしれないが、人はもっと自分自身のことについて語るようになり、大きな変化がそのことによって生み出されると私は思う。さらに、こうした変化は本当の革命と結びついていると思う。真の社会的調和の実現のためには、ひとりの人間の存在は、その隣人にとって完全に可視的なものでなければならず、またその逆も言えなくてはならない。」

http://www.nybooks.com/articles/archives/1975/aug/07/sartre-at-seventy-an-interview/ から。

こうしたガラス張りの世界は、すでにツイッタとか普及した我々の世界でもあるよな、みたいな。この「ガラス張り」について知ったのは、グラヴァー先生の訳してる時。この本はおもしろいよ。いま読んでもおもしろいと思う。訳している当時はこの原文を手に入れることは難しかった。いまではGoogle様に頼めば一発。よい世界になった。

 

 

 

 

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「レイプ神話」での性的動機 (2) レイプ犯は飢えてない

まあ今回こんなん書いてるときにちょうど報道が大きめの事件がったので、マッケラー(マックウェラー)先生読みなおしたんですが、彼女の本では、「レイプの原因は性欲ではない」とは主張されてないんですね。

神話とされているのは、神話が「性的飢餓が強姦の原因である」で、事実は「性的飢餓はレイプの多くの原因の一つでしかない」なんすわ(「性的飢餓」hungerは翻訳では「性的欲求不満」と訳されている)。むしろ、性欲(sex drive)はレイプに踏まれている、と主張してます。男性の方に性的興奮がないと性器セックスはできないでしょうからね。もちろん、男性は性欲があればレイプするのかといえば、そういうことはしない人が大半なわけですから、レイプの原因は他にもいろいろあります、という話になる。まあこれってふつうの話ですね。

このマックウェラー先生の「性的飢餓(感) sexual hunger」は、おなかが空いたときの「飢餓感」と同じように、もうそれに襲われると法も道徳も関係ありません、もうどうしようもなりません、みたいなのになる状態を指しているのだとおもう。単に「おなかが空いたなあ」ぐらいではなく、もう3日ぐらいなにも食べてません、盗みでも強盗でも殺しでもなんでもやります、子供からだってパンを奪います、ぐらいね。

レイプはそういう状態になった男性によって引き起こされると誤解されている。まあ女性にモテず、お金もなく、やむにやまれぬ性欲をもてあまして、暗い路上で女性を襲う、みたいな感じですわね。
でも事実としてはレイプ犯というのはけっこうセックスパートナーがいることが多いんですわ。妻帯者やステディなガールフレンドがいて、セックスぐらい、頼めばいつでもできます、みたいな人々がたいていで、そうでなくても買春施設(風俗)とかを頻繁に利用してたり、ポルノ集めてたりして、数ヶ月、数年セックスもマスターベーションもしてません、みたいな人はめったにいない。これがマッケラー先生が「レイプの原因は性的飢餓だけではない、他にもさまざまある」って主張する根拠ですね。

こりゃまあその通りでセックスできない男性はたくさんいますが、ほとんどの人はレイプなんかしないし、風俗も使わないわけっすからね。レイプする男性は他にも原因があるはずだ。

ところでたしかに性欲は非常に強い欲求だと思われてます。横にそれちゃうけど、女子大生様たちとかが「三大欲求の一つの睡眠欲」とか言ってると、あと二つはなんじゃいな、そんなに強い基本的な欲求ですか、みたいに思う。ははは。そういや睡眠欲、っていうのがあるとしてあれは欲望として強いってより、抵抗できませんわよね。起きてたいけど寝てしまう。

性欲はその点おもしろくて、睡眠欲のように場合によってはまったく抵抗できないほど強いものではなく、食欲ほどコントロールしにくいものでもない。人前でいろんなことはじめる人ってのはめったにいないし、そういう人がいたら露出狂とか痴漢とかそういうもんですもんね。

倫理学者が好きなカント先生は、『実践理性批判』というたいへん重要な本で、次のようなことを書いている。

カント先生。イケメンなのを選びました。

カント先生。イケメンなのを選びました。

だれかが自分の色情の傾向性について、もしお気に召す相手とそれを手に入れるチャンスとがおとずれるとしたら、この傾向性に逆らうことなどとてもできないだろうとうそぶいているとする。それでも、もしかれがそのチャンスに恵まれる家の前に絞首台が立てられていて、色情を思うままにした後でただちにそこに吊るされるとしたら、かれはその場合でも自分の傾向性を押えることはないだいだろうか。かれがなんと答えるか、長く考えてみるまでもないだろう。

しかし、かれにこうたずねてみるとしよう。もしかれの君主が、おなじように即刻の死刑という威嚇の下に、ある誠実な人物にたいする偽証をかれに要求し、その偽りの口実を理由にその人物を亡きものにしたいと思っているとしたら、はたしてかれは、どれほど自分の命をいとおしむ気持が大きくても、その気持をよく克服することが可能であると思うだろうか。かれがそれをするかしないかは、おそらくかれもあえて確言はできないことだろう。それでも、それが可能であることは、かれもためらうことなく認めるにちがいない。かれは、こうして、そのことをなすべきであるとかれが意識するがゆえに、それをなすことができる、と判断するのであり、もし道徳法則がなければ知られないままにとどまったであろう自由を、みずからのうちに認識するにいたるのである。(カント、『実践理性批判』、第1部第1篇第1章第6節、岩波全集のを使いました)

「俺は性欲が強くて我慢できない、もういい女がいたら痴漢でもレイプでもなんでもやっちゃう」って言う奴だって、「やったら死刑」ってことになったらやるやつはいない。それに対して、「政府のために偽証しないと殺すぞ」って言われたって、「いや、殺されても俺は絶対にまちがったことだけはしないぞ」って決意して、それを実行することさえできる。ここに人間の本当に自由があるのだ、ってなわけですわ。これはかなり感動的なところです。でもまあここでカント先生が性欲の話つかっているのはおもしろいですね。やはり性欲はすごく強いものと思われている。でも飢えてるときの食欲や、徹夜のあとの睡眠欲ほど抵抗できないものではない。

まあこの罰が加えられることがわかればそれを止めることができる、っていうのが人間のポイントですわね。だからこそ刑罰があるっていう考えかたがある。たとえば不可抗力とか、心神喪失とかで、自分で本当にやめることができない場合はも責任能力もなく、罰も加えられないっていうのが刑罰についての正道の考えかたです。

まあむしろ性欲はコントロールできるからこそ、それに抵抗するため意識することが多いってところがポイントですかなあ。年齢層によっては非常に頻繁に意識される、っていうかまあ中学生男子とか頭の95%ぐらいそればっかり意識することになったりしますわね。みんないっしょうけんめい我慢しましょう。いつもいつもエッチなことを考えつつ、それをなさないことにこそ、人間の自由と尊厳がある。ははは。



シリーズ


シジウィック先生にセックス倫理を教えてもらおう (2)

んでシジウィック先生はまあこんな感じで、日常的な道徳観みたいなのいちいち説明していくわけです。正義とか勇気とか節制とか正直とか、昔から大事だよっていわれてる美徳、性格、行動パターンみたいなのはだいたい功利主義から見てもよいもので、社会の役に立ったり、その人自身の幸福に役立ったりする。日常道徳と功利主義はぜんぜん対立しませんよ、と。

でここで例外があるとしてシジウィック先生が注目するのがセックス、っていうかさっきの夫婦間の貞節とか純潔とかそういう美徳なわけです。シジウィック先生が生きていたヴィクトリア朝ってのはセックス道徳的には偽善的な時代で、中上流の家庭では特に女性はセックスに興味をもつな、みたいなこと言われたり、足を他人に見せるな、みたいなものすごい厳しい性道徳があり、一方では紳士様たちは夜の街で貧乏な女性たちを相手にエッチなことをしまくってた、みたいな時代なわけです。まあ誇張されてるのかもしれないけど、いろいろ資料がある。私の好きな『我が秘密の生涯』とかそういうジェントルマンの性生活日記ですね。ヴィクトリア朝とこの奇書に関してはよい本がある。

我が秘密の生涯 上 (富士見ロマン文庫 1-12)
作者不詳
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もう一つのヴィクトリア時代―性と享楽の英国裏面史 (中公文庫)
スティーヴン・マーカス
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まあ「お酒飲みすぎない」っていう節制とかそういうのが本人の幸福に役立つのは明白ですからね。飲みすぎると次の日どころか当日も気分悪くなったりするし、お金かかるし、働いたり勉強したりする気がなくなるし、口が悪くなって他人様を起らせたりするしでいいことがない。お酒はやめましょう。お酒飲み過ぎがもたらす快楽は、そのあとの苦痛や不利益に見合いません。ところがセックスは例外だ。

セックスがなんで例外的なのかっていうと、セックスは(おそらく、そして運がよければ)すごく楽しくて気持ちがいいらしいんですが、うまくやればのちのちそれほど苦痛をもたらすことはそんなにないかもしれない。こっそりやれば、配偶者や恋人にばれずに楽しみだけが増える。それなのに、ヤリチンとかヤリマンとか往々にして非難されるし、既婚者が配偶者以外の人とセックスしたりするとツイッタで炎上したりしてしまう。

ちなみにエピクロス先生はセックス消極派ですが、次のようなアドバイスの手紙を誰かに書いてる。

肉体の衝動がますます募って性愛の交わりを求めている、と君は語る。ところで、もし君が、法律を破りもせず、良風を乱しもせず、隣人のだれかを悩ましもせず、また、君の肉体を損ねもせず、生活に必要なものを浪費しもしないのならば、欲するがままに、君自身の選択に身を委ねるがよい。だが君は、結局、これがの障害のうちすくなくともどれかひとつに行き当らいわけにはゆかない。というのは、いまだかつで性愛が誰かの利益になったためしはないからであって、もしそれがだれかの害にならなかったならば、その人は、ただそれだけで満足しなければならない。

まあ「うまくやれるんならやっていいよ、でもむずかしいよ」ぐらいですかね。 エピクロス先生はいろいろ苦労したんでしょうな。

まあエピクロス先生の時代はともかく、シジウィック先生の時代はセックスに厳しい。なんでそんなに強い道徳的感情がセックス、特にいわゆる不倫にはまとわりついてるんですか。最大多数の最大快楽をめざす功利主義者は、みんなもっとばんばんセックスしよう、ってならないんですか、と。

答はまずはやっぱり子育て。子育てするための親の関係の維持は社会にとってものすごく重要なので、固定した婚姻関係からはずれたセックスはものすごく強く非難される。もし皆から非難されることがなければ、男性は結婚関係が求める拘束や負担を引き受けようとしないだろうし、男女ともに結婚関係を維持するのにふさわしくない感覚や習慣をもつようになるだろう、とのことです。まあここらへんは現代日本の人も共有してもってる思考ですわね。実は今年「倫理学」の授業で、導入としてジュリアン・バッジーニ先生の本に出てたスカーレットさんがあこがれのブラピだかと浮気する話使ったんですが 1)私はトロリー問題使わない。、そのとき「スカーレットに子供はいますか、子供いるなら浮気はだめ」みたいな意見がありましたね。

私がシジウィック先生に感心したのは、こっからあとです。引用しますかね。実は訳が一部で流通しているでそれ使いたいのですが、許諾とってないので簡単に自分でやります。

しかし……常識道徳が単純な不貞(unchastity)という不品行に関して両性の間に常においている異例な違いを説明するのは、功利主義原理のみである。というのは、こうした不品行は女性より男性の側においてより意図的なものであって、男性には女性を言い寄り口説き落したという罪が追加されることになるわけだが、女性の側では、そうした不品行は、我々が単なる情欲よりも上等だとみなす動機によってうながされているのがしばしばだからである。したがって、直観的道徳の通常基準では、男性の方がより厳しく責められるべきだ、ということになる。

男性がそういうのする場合はエッチな思いだけですることが多いけど、女性の場合はエッチなことをしたいってだけではなく、それより上等な動機、つまり(基本的には)ロマンチック愛とかからとか、精神的に愛する相手から求められてとか、そういうんだから、男の方が悪いってことになるはずだ、と。ここはいろいろ微妙だけど、まあ悪い男が誘惑したのだ、男が悪い、みたいな感じっすか。通常の道徳の基準では、動機ってのを重視するわけで、「たんにエッチしたいから、とにかく女体が好きだから」っていって不倫する男の方が、「愛しているからやむなくエッチさせる」みたいな女性より非難に値するはずなわけですよね。この男女の間の不品行の動機の違いを見ているのは、シジウィック先生とてもえらいと思いました。まあ、フェミニストねえ。

この結果が実際には反転しているということは、社会が女性の貞潔に課している高い基準を維持することで得ている、もっと大きな利益を考慮にいれることによってのみ正当化される。この基準を下げてしまうことは、親としての愛情をそそぐための男性の安心を損ってしまうことによって家族生活の根本に打撃を与えてしまう。しかし男性の不貞に関しては対応する帰結は存在しない。だから男性の不貞は、家族の幸福を損うことはあっても、家族の成立そのものを損なうことなく、かなりの程度おこなわれているのである。

まあ前に書いたヒューム先生 2)あれ、書いてなかったっけ? と同じように、女性にのみ貞操を求める傾向があるのは、父性の保証のためっていうラインですね。現在の進化心理学とかでも主流のライン。

もうちょっと続きます。


References   [ + ]

1. 私はトロリー問題使わない。
2. あれ、書いてなかったっけ?

シジウィック先生にセックス倫理を教えてもらおう (1)

 

シジウィック先生が我々の性道徳を分析しているのは、『倫理学の諸方法』第4巻第3章「常識道徳に対する功利主義の関係」と題されたところです。この『倫理学の諸方法』ってのはものすごい名著で、まあ倫理学の重要な問題のかなりが議論され、答え出されちゃってるような本です。なんかあったらシジウィック先生に相談しましょう。

あんまりモテそうでない

シジウィック先生は道徳理論としては功利主義押しなのですが、功利主義って例の「最大幸福」を目指す立場でありまして、我々の日常的な道徳感覚とずれてるんちゃうか、っていう批判がある。シジウィック先生は、いや我々のふつうの道徳感覚のほとんどは功利主義でも説明できるし、むしろ功利主義的に説明した方がよく理解できるよ、ぐらいの感じ。ちょっと書きすぎだけど。

確認しますが、功利主義ってのは、基本的には誰の幸福や不幸をも平等に考えて、全体として幸福や利益が最大になるようにしましょう、って考え方です。ものすごく博愛的。すると、「誰でも平等に考えるって、自分も家族もそこらへんの赤の他人の幸福や利益をまったく同じに考えるんかいな、なんでそこらへんの汚いおっさんとかわいいうちの娘の幸せを同じに考えなきゃならんのだ。自分と家族が一番に決まってるではないか!」みたいな反論があります。ひどい人なんかは「自分や家族に対する愛情は偏った愛(偏愛)だから、功利主義しゃは家族愛とか弱めなきゃならんことになるだろう」みたいなことを言ったりする。シジウィック先生から100年以上経過しても同じようなこと言う倫理学の専門家とかいます(特に「ケア」とか好きな人々)。まったく困ったものです。

シジウィク先生は上のようなのは馬鹿げていると考えている。まず第一に、我々個々人がもってる資源やエネルギーってのは限られているので、人々を幸福にするためにはそれを効率よく使わないとならん。たくさんいる他人を幸福にするより、自分を幸福にする方が簡単なので、自分のエネルギーはまずは自分を幸福にするのに使うのがよい。他人がなにすると幸福になるかっていうのはわかりにくいけど、自分ならわかりやすいはずですからね。もちろん、自分がちょっと犠牲になると他のひとが幸福になる、てんならそうするべきだし、賞賛されるべきではある。

んで問題の家族愛とか友人愛とかですが、家族や友人などの特別な親しい関係っていうのは我々の生活のなかでとても大事で、我々はそうした愛情は自然なものだ。まあ個人の幸福のかなりの部分(あるいはほとんど)はそういう関係から得られるものなので、そうした関係は大事にしないとならない。我々は家族や友人に対して特別親切にする義務を感じるし、そうした愛情や親切その他は関係を強化する傾向がある。残念なことに我々は数限られた人にしか情愛を感じられないようで、もしそうした限られた人々への愛情を弱められてしまえば、残る関係の薄い人々への親切心なんてのは、自分の利益に対する利己的な欲望に勝てるほど強いものじゃない。だから誰にも親切にしません、みたいになってしまう。結果として幸福の量が減っちゃう。だから功利主義者も「家族友人は大事にしましょう」って言うし、大事にするような傾向をもつような養育や教育もするべきだ、って言うに決まってる。

ところが、上では「愛情」ってのが重要なわけだけど、我々の日常道徳では、仮にすでにあんまり愛情をもってない家族の間でも助けあう義務があるとされている。これどうなってんの、という話もある。シジウィック先生の答は、家族制度っていうのは子供を養育するためのものだ、ってものになる。人々が幸福に生きられる社会が成立するには子供が一定数いなければならず、養育に手間がかかるので、家族をしばりつけとくのは全体としては幸福を増進すると考えられる。シジウィック先生はヴィクトリア朝の人なので非常に保守的な家族観にもとづいて話をするわけですが、まあ法によって両親を生涯に渡ってしばりつけて双方の貞節と子供の養育を義務づけるのは理にかなってる、と。ただしその一部、つまり男女が生涯にわたって結びついて貞節を守る、つまり浮気や不倫しないことが本当に必要なのか、みたいな疑問が出てくるってのはシジウィック先生は理解していて、そこも議論するわけです。


クリストファー・ピーターソン『ポジティブ心理学入門』の訳の問題

ちょっと学生様に読ませるためにメモ。
クリストファー・ピーターソン先生の『ポジティブ心理学入門』の「ポジティブ思考」のところをつかってゼミで発表してくれた学生様がいるんですが、なんか本人もよくわからないものになってしまって、原因はなんだろうと訳見たらやっぱり翻訳の問題だってござる。
ピーターソン先生が、ハーバード大の学生の追跡調査をつかって楽観性について研究したのがある。『ポジティブ心理学入門』でもそれが紹介されているんだけど、その翻訳に問題があって読めないものになっている。
っていうか、宇野先生の訳についてはamazonですでに文句つけてて(1)(2)、一部の人には不評だし、商売の邪魔してるみたいで申しわけないんだけどこまるのです。
ピーターソン先生が注目したのは悪い出来事、つらい出来事があった場合、その原因をどういうふうに説明するか、っていう説明スタイルの問題なのね。これはセリグマン先生が『オプティミストはなぜ成功するのか』の中心的な研究対象でもあった。ピーターソン先生は、ハーバード大から在学中あるいは卒業後に従軍した人々の手記を分析したのね。まず、訳書は飛ばし飛ばしで訳されてるから文脈がわかりにくい。まあそれは目をつぶることにして、原文はこう。
I read the essays of a randomly selected 99 young men — which were usually several hundred words long, uniformly sincere, often eloquent, and (I must say) highly legible—on the look out for descriptions of bad events: setbacks, failures, frustrations, and disappointments.  Everyone of course reported such events, but my attention was directed at how each writer explains their causes.  (Peterson 2006, pp.108-109)
私はランダムに選び出した九九人の青年の文章を読んだ。たいていは数百語程度の長さのもので、一様に誠実であり、しばし雄弁で、挫折や失敗、欲求不満、失望といった悪い事柄に関する記述には注意が払われており、極めて読みやすいものであった。もちろん、全員がそのような事柄について報告したのだが、私は各々の書き手が、悪い事柄の原因についてどのように説明するのかという点に注目した。(宇野訳p.118)
ここはOK 1)実はOKじゃなくて、「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」「とても読みやすくて、挫折や失敗、欲求不満、失望といった悪い出来事をさがすにはうってつけだった」「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」みたいな感じのようだ。。問題はその次。
Did he so by pointing to inherent flaws within himself and to factors that were chronic and pervasive? If so, I scored his essay at the pessimistic end of thinking.  “I was not happy in the service [because my] . . .  intrinsic dislike for the military.” Or did he explain bad events by distancing himself from their causes and circumscribing them? “I was in danger during the military attack [because] . . . I was not assigned a specific task that kept me in a single position.” If so, I scored his essays at the optimistic end of thinking.  Appreciate that these ratings capture whether a person believes the future is something that can be different from the negative past (optimism) or simply its relentless reincarnation (pessimism). (Peterson 2006, pp.108-109)
宇野先生の訳ではこう。
「学生は、自分に固有の欠陥についてどのように説明したのだろうか?次のように、慢性的で、広範囲にわたる要因を指摘しながら説明した場合、私はその文章を悲観的な考え方として評価した。「私は従軍が楽しくなかったo[なぜならば私には]……軍隊に対する生来の嫌悪感があるからだった」あるいは、悪い事柄について、それらの原因から距離を置き、限定する形で説明した文章もあった。「私は軍事攻撃中、危険な状態にあった°[なぜならば私には]……―つの場所にとどまる特定の任務が与えられていなかったからだ」このような説明の場合、私はその文章を楽観的な考え方として評価した。未来が、ネガテイプだった過去とは違うものになると信じているのか、または、未来は、ただネガティプなことの容赦なきくり返しであると信じているのかによって、それぞれを楽観と悲観として評価した。」
私も訳してみます。
「その人は、悪い出来事の説明をするときに、それを自分自身の生まれつきの欠陥や、永続的で全般的な要因のせいにしているだろうか? そうしている場合、私はその人のエッセイを極端に悲観的なものとしてカウントした。たとえば次のようなものである。「私は従軍中幸せではなかった。(なぜなら)私は生まれつき軍隊が嫌いだからだ。」あるいはその人は、悪い出来事を説明するとき、その原因から自分自身を切り離して、自分自身からは離れたものとして説明しただろうか?たとえば次のようなものである。 「私は攻撃中危険な状態にあった。(なぜならば)一箇所にとどめてくれる特定の任務を与えられていなかったからだ。」こういう場合、私はその人のエッセイを極端に楽観的な思考としてカウントした。こうして評価すると、その評価は、その人物が、将来は、ネガティブな過去とはちがったものになりえると信じているのか、あるいはネガティブな過去はえんえんとくりかえすものだと信じているかをうまく捉えてくれるのである。」
ピーターソン先生やその協力者のセリグマン先生たちよれば、悲観主義ってのは、悪いことの原因が自分のなかにあり、いつも、そして全部のことについてそうであると考える傾向で、楽観主義ってのは悪いことが起こってもその原因は自分ではなく、外的な要因であり、また一時的なもの、部分的なものであると信じる傾向なんよね。上のピーターソン先生があげてる例は、悲観的な人は「俺は生まれつき軍隊嫌いだから不幸だったし、軍隊にいるかぎるずっと不幸」「いつもそうだ」「なんでもそうなんだ」って考えて、楽観的な人は「不幸だけどそれは任務の運が悪かったからその時は不幸だった、でもそれは俺自身の問題ではなく、司令部が悪かったり、運が悪かったからだ。別の任務与えられたらうまくいったろうし、将来はうまくいくだろう」「今回はだめだった」「次はうまくいく」みたいに考えるってことなわねね。宇野先生の訳は「生まれつきの欠点」inherent flaws within himselfとかdistancing himselfとかの「自分」ってキーワードを訳出してないからよくわからないものになっている。

まあこれ書いてから、尊敬する先生に「いやそこちがうよ」って直してもらったんですが、そういうことしてもらって感謝すると同時に、「私他人の誤訳とか指摘しておきながら、自分もまちがってるし、能力足りないのに余計なことしてダメな男だよな、これって私の能力不足と生まれつきの性格の問題で、どうにもこうにもなおらんよな。これからもずっとそうなのだ、まだまだ同じことをくりかえすだろう」って思ってしまうわけで、これが悲観主義っすわ。ははは。下のセリグマン『オプティミストはなぜ成功するか』読むといい。セリグマン先生があれを書いたとき、悲観主義な人もがんばれば楽観主義になれる、って主張してたんですが、最近の『ポジティブ心理学の挑戦』あたりではなんかもうあきらめちゃってる感じで、「いろいろ勉強して楽観的になるテクニックはぜんぶ知ってるけど、気を抜くとすぐに「俺は負け犬だ」みたいに思っちゃう」みたいなこと書いてて笑えました。まあ社会学者は社会がわからず、倫理学者は倫理がわからず、心理学者は心理がわからん、みたいなのはよく言われるんですが、ポジティブ心理学研究する人はポジティブじゃないんしょね。


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References   [ + ]

1. 実はOKじゃなくて、「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」「とても読みやすくて、挫折や失敗、欲求不満、失望といった悪い出来事をさがすにはうってつけだった」「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」みたいな感じのようだ。

環境と生命 2016シラバス

 

生命倫理学・医療倫理学の基本を紹介しつつ、現代における生命と医療の問題について考える。

 

テキスト:児玉聡『マンガで学ぶ生命倫理』、化学同人、2013 

  1. イントロダクション
  2. 動物の権利
  3. 生殖医療
  4. がん告知とインフォームドコンセント
  5. 中絶と胎児の権利
  6. 能力・肉体の改造(エンハンスメント)
  7. 終末期医療と安楽死
  8. 生体臓器移植
  9. クローン技術
  10. ES細胞とiPS細胞
  11. 寿命と永遠の命
  12. 脳死と臓器移植

妊娠中絶の(道徳的)正当化

日本医学哲学・倫理学会『医学哲学 医学倫理』第31号、2013、pp. 59-60 の草稿。


 

京都女子大学 江口聡(哲学・倫理)「妊娠中絶の(道徳的)正当化」

従来の哲学・倫理学の世界において、中絶の道徳性はどのように議論されてきたかを簡単に説明し、有望な議論を示したい。まず反妊娠中絶論で最も普及している形(A)は、「前提1―罪のない人を殺す(死なせる)ことは不正である。」および「前提2―胎児は罪のない人である。」ことから、「結論―胎児を殺すこと(=中絶)は不正である。」という論法を取る。これに対して、マーキス (1989)を初めここ20年注目されている反妊娠中絶論(B)は、「前提1―殺人が不正なのは、被害者から我々と同じ価値ある未来を奪うからである」および「前提2―中絶は他事から我々と同じ価値ある将来を奪う」ことから、「結論―中絶は殺人とまったく同じ程度に(あるいはそれ以上に)不正である」と論じる。もう一つ、有望な反妊娠中絶論(C)は、Hare (1975)やGensler (1986)による黄金律型の推論である。そこでは、「あなたがしてほしくないことを他の人にするな」および「あなたのしてほしいように他の人にせよ」との黄金律に基づき、「我々は中絶されずに生まれてきたことを喜ばしいと思う」すなわち「胎児の立場に立てば、中絶されないことを望む」、それゆえ(特に特別の理由がない場合は)中絶しないべきである、と論じる。これら中絶反対論はどれも一見して強力なものである。

一方、妊娠中絶を正当化する論理としては、女性たちの感情や感覚に基づくもの、功利主義、進退に対する権利論、パーソン(「人」、権利主体)論などがある。このうち「胎児はまだ他人として感じられないので他人ではない」などと論じる単なる感情や感覚に基づいた議論は、たとえば「動物は人だとは思えないから苦しめてもよい」とか、「女性は同じ人間だとは思えないから平等に扱わなくてもよい」という議論がおかしいのと同様に説得力に欠ける。妊娠中絶を正当化するには、単なる感情や感覚以上の根拠が必要である。一方、帰結主義・功利主義による妊娠中絶正当化の議論の方がまだしも説得力がある。たとえばSingerは親(特に母親)と未発達な胎児の利益を比較衡量して母親の利益の方が重大だとする。Hareは胎児を代替可能な存在とみなしたうえで、後にもっとよい条件でより幸福に生きられる子どもがいるならば中絶は正当化されるという。ただし、これは法的に中絶を合法化するかどうかの議論にすぎず、道徳的な議論ではない。他方、Thomson(1971)は、自分の身体に対する権利を主張して、バイオリニストとつながれたままになる義務はない、胎児は母親の身体を使用する権利はもっていないのだから中絶しても胎児の権利を侵害したとは言えないと論じる。ただしトムソンの議論のうち、「AがBに対して善行することが道徳的な義務であっても、BがAに対して善行される権利をもつわけではない」ことや、女性にだけ「善きサマリア人」であることを求めるのは不平等であり不正義だという主張は見落としてはならない。しかし、トムソンの「胎児の生命に対する権利」への反論は不十分であり、また「自発的に産むことを選択し妊娠した胎児にのみ責任がある」と想定しているのは、Beckwithの「家族(肉親)は選ぶことができないが義務を負う関係にある」とする自発主義批判を乗り越えられない。結局、「身体に対する権利」の議論も、法的な規制に対する反対する議論としては悪くないが、倫理的な議論としては不十分である。他にWarren (1973)に代表される(国内でよく知られているTooley 1972は代表的ではない)パーソン論は、典型的な「人」(権利をもつ存在)の条件を列挙するが、これでは新生児や重度意識障碍者まで「人々」ではないことになるという難点がある。

結論としては、リプロダクティブ・ライツに含まれる「中絶の権利」を主張するのはかなり困難であり、「自分の身体に対する権利」だけでは法的にはクリアできても倫理的には不十分である。基本的にはパーソン論を取るか、功利主義を取るかの二択である。もしくはそれ以外の選択肢を考えるべきである。


Beckwith, Francis J. (1998) “Arguments from Bodily Rights: A Critical Analysis,” in Louis Pojman and Francis J. Beckwith eds. The Abortion Controversy, Wadworth, 2nd edition.
Gensler, Harry J. (1986) “A Kantian Argument against Abortion,” Philosophical Studies, Vol. 49. Reprinted in as “The Golden Rule Argument against Abortion”.
Hare, R. M. (1975) “Abortion and the Golden Rule,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 4, No. 3. (R. M. ヘア,「妊娠中絶と黄金律」,奥野満里子訳,江口聡編監訳『妊娠中絶の生命倫理学』,勁草書房,2011).
Marquis, Don (1989) “Why Abortion Is Immoral,” The Journal of Philosophy, Vol. 86, No. 4. (ドン・マーキス,「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」,山本圭一郎訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Singer, Peter (1993) Practical Ethics, Cambridge University Press, 2nd edition. (ピーター・シンガー, 『実践の倫理』新版, 山内友三郎・塚崎智監訳, 昭和堂, 1999).
Thomson, Judith Jarvis (1971) “A Defense of Abortion,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 1, No. 1. (ジュディス・トムソン,「妊娠中絶の擁護」,塚原久美訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Tooley, Michael (1972) “Abortion and Infanticide,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 2, No. 1. (マイケル・トゥーリー,「妊娠中絶と新生児殺し」,神崎宣次訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Warren, Mary Anne (1973) “The Moral and Legal Status of Abortion,” The Monist, Vol. 57. (メアリ・アン・ウォレン,「妊娠中絶の法的・道徳的位置づけ」,鶴田尚美訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).