チラシの裏:小宮青識論争観戦記

  • 他でけっこう長めの文章書いてしまったけど、要点だけ。
  • この論争がどういう文脈で生じているのかというのは難しい。問題のやりとりの前に、男女の性的行動の評価についての性差別についていろんな人がかなり長い間つぶやきをしていて、今となってはなにが文脈なのか判断できない。それぞれのツイッタラーが見ているツイートもそれぞれだろうし。だから文脈はそれぞれ。ただし、直接の問題になった瀬戸内快男児先生とjiji先生のやりとりのさらに直接のおおもとのsaebou先生の主張は王道セックスリバタリアンフェミニズムで問題がない。
  • それに対する瀬戸内快男児先生のツイートは「この人どうせ海外行ってなくて開き直りで反論してるだけでしょうが、日本男児として外国人の友人から「日本女はなぜに簡単にやらしてくれるのか?」と真顔で聞かれると答えに困るので、海外には貞操観念をしっかり持っていきましょう。/ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ。」
  • 一方、jiji先生のは「それってあなた自身が馬鹿にされてるんだよ。」「「あなたの国の女性はなぜ簡単にやらしてくれるの」なんて聞くのは喧嘩売ってるのと同義なのに、そこで「貞操観念をしっかり持ちましょう~」とか自国の女性に言うこのピントのずれ方やばい。」
  • 快男児先生のツイートの「日本人女は」がjiji先生のツイートでは「あなたの国の女性は」になっている。ここでちょっと引用のずれがあるのはアカデミックな人間は気づくべきだと思う。青識先生も小宮先生も平気でその語「あなたの国〜」や「貞操観念」という、友人の発言にはない言葉を使っていて、ここらへんは感心しない。「友人」の発言の意味みたいなものと、快男児先生のツイート全体の意図みたいなものは区別するべきだ。jiji先生と小宮先生は友人の発言が快男児先生に対する侮辱になっていると指摘するが、それは本当だろうか。
  • そもそも快男児先生の友人の外国人が本当に存在しているのか、本当にそういった会話があったのかは判断しがたい。「もし友人〜とたずねられたら困る」ぐらいの例かもしれない。その場合には、「侮辱されているのだ」と指摘するのは微妙な発言になる。もし〜と真顔で、つまり真剣にたずねられたらそれだけで当人に対する侮辱になるとすれば、人、あるいは男性は、関係者女性の性的行動の傾向について質問されただけで侮辱になると解釈せざるをえない。「真顔で」と付け加えることによって、快男児先生は冗談や侮辱であることを排除しているわけよね。それくらいは気をつかっている
  • 一方、仮にそうした会話が実際にあったとすれば、それは実際には外国語でおこなわれたものであるだろうし、その場合には訳語や表現の選択に快男児先生の(性差別的な?)解釈が入るのは当然。外国語でなくとも、会話のなかで他人の発言を引用するというのは本人の解釈がはいるものだ。
  • だからその快男児先生の友人がどういうことを言ったのか、どういう意図で言ったのか、(社会学者風にいえば)この質問行為の「意味」をどう理解するべきか、ということを判断するのはむずかしく、それだけで解釈するのはほとんど無理、というかあんまり意味がないと見るのがまともな判断だと思う。1)【13日追記】指摘してもらって気づいたんだけど、そのあとで「ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ」がくっついてるんだけど、これ私は(実在/非実在)の「友人」の発言とは読まなかったけど、どうだろう。 「言われてる」なので実際に言われてる、だろうけど、こっちは友人の発言ではなく、「一般に海外では/外国人の間で〜と言われてるらしいよ」ぐらいだと読んだんだけどどうだろうか。空行も入って別の話っぽいし。そもそもこんな言葉あんまり見たことないけど、どういう世界の友人がいるんかね。これ真顔で発言できる人というのもなかなか想像しがたい。もうひとつの解釈は、いつも友人たちから「日本人女はラッキープッシーだよね」って言われていて、その友人たちはいつもはニヤニヤしてそういうことを言ってるので自分もニヤニヤしてごまかしえるけど、仮に「真顔で」「なんでそうなの?」って聞かれたら困る、とかっていう話だと読むのか。これだと快男児先生本気で侮辱されてやばい。「そりゃ、旦那……それは、……そりゃ……それは日本の女たちが尻軽なんじゃなくて、旦那方がイケメンでおモテになるからでさあ、おいらなんかやらしてもえねえんですから……へい……へへ、そういやこの前嬶が旦那から巾着袋買ってもらったってよろこんでました。ありがとうございます。娘の方も財布もらったんで喜んでました……ではちょっと用事がありますんであのの嬶と娘を食わせなきゃならんのでへへ、ごきげんよう」とか答えないとならんしこれは困るねえ。つらい。
  • そういうのは社会学や会話分析やエスノメソドロジーの専門家だけでなく、なにかの研究者ならまっさきに意識することだろうと思う。それを意図的に指摘しないのなら専門家として誠実ではないと判断されてもしょうがないかもしれず、またそれを意識しなかったのなら専門家としての資格に問題があるかもしれない。このままだと社会学者信頼ポイントがマイナスされてなってしまうし、そして大学関係の人間が誰も指摘しないのなら大学系ツッタラー全員の信頼ポイントがマイナスされてしまうくらい。だから私これ書かないとならない。
  • それはさておき、「なぜ日本の女性は性的に活発なのか」程度のことを「真顔で」質問するという状況は、性差別と関係なくあるかもしれず、それが性差別的な発言かどうかは判断が難しいと思われる。
  • さて、jiji先生の、快男児先生の「海外には貞操観念をしっかりもって行きましょう」という発言がポイントをはずしているという指摘はおそらく的確だろうが、友人の発言は快男児先生に対する侮辱であるという解釈は、そういう次第でかなり一方的な推論であるように見える。
  • 先にも指摘したように、これが侮辱であるためには、人は(あるいは「男性は」)その人に関係する女性が性的に活発だという含みのことを言われたらすべて侮辱されていると解釈するべきだ、ぐらいの判断が裏にないと正当化されないが、これを正当化するのはむずかしい。少なくともセックスリバタリアン的な傾向のフェミニズムとは相性が悪いのは意識するべきだろう。
  • 誰かを尻軽(slutty)であると指摘することはふつう悪口であり、これはフェミニズムとは関係なく悪口である。王道フェミニズムの立場からは、誰かが誰かを尻軽だと判断しても、それはなんら悪口とならないと主張しなければならないだろうと思う(もちろんここはいろいろ議論がありえるところ)。でもとりあえず誰かを尻軽であるとする悪口は、フェミニズムの観点を抜いても悪口でありえるし、そっちの悪口である場合の方が可能性濃厚だと思う2)ここのところも「いろいろ議論はありえる」とは書いたもののコメントがついてしまって、たとえば「誇り高く自分たちについて「Nワード」を使う黒人の人も、白人(やその他)に使われれば怒るだろう、っていう指摘もありました。これはそのとおりで、自分たちの間では誇りを表わす言葉であっても、歴史的にも現在も蔑称であるものを蔑称として使われたらそらまさに侮辱である。おそらくSlutもまだいまだにそういう言葉だろうと思う。しかしこれが蔑称でなく、たとえば「性的に活発」のようなもっと価値的に中立な言葉で表現されれば悪口ではないってことになると思う。現状では「〜の女性は〜に比べて性的に活発で」みたいなのは婉曲な悪口であるかもしれないけど、それを悪口でないようにしたいと思うだろうと思う。あれ、ポイントはずしてるかな。 ちなみにSlutを蔑称じゃなくしてしまおうっていう動きとかはこの本とかがおもしろい。
  • さらに、一般に男性となんらかの関係のある女性の性的な活動が活発であると指摘することは、女性の名誉を傷つけることであり、また、同時に彼女と関係する男性の名誉も傷つける、という考え方は保守的な「名誉の文化」では非常に重要な発想だろうと思うけど、これはフェミニズムとはあいいれない側面が大きいと思う。
  • 男性は女性のナイトやボディーガードであるべきであり、女性が(性的な)名誉を傷つけられたと感じたら戦うべきだ、という考え方は現在も非常につよく、よく北米の映画とかで出てくるシーンであるように思うが、これてどうなのよ。「君、私のレイディーに対する侮辱は私自身に対する侮辱とみなしますよ」「まだ侮辱するか!ならば決闘だ!」みたいな。高度に洗練されたナイトは男フェミニストと区別がつかない、みたいなわけではないと思うしその逆もないと思う。
  • エマワトソン先生のHeForShe演説では、フェミニズムは女性だけでなく男性をもその性役割規範から解放する、ってなことが主張されていたわけなので、男は女性のナイトであるべきだという発想とはあいいれない側面が大きいと思う。
  • 小宮先生が多重質問の詭弁だと指摘したツイートは、匿名化されていて事実に対応しているかどうかわからず、詭弁かどうか判断しにくい。「もしAがBしたとしたら、Pですか」のようなタイプのものは必ずしも多重質問ではない。
  • 詭弁や誤謬推理を見抜けるようになるのは大学教育で最も重要な課題で、それに敏感になることはとてもよいことなのだが、一般に、日常的な議論ではすべての前提が明示されたり言葉が明示的に定義されるわけではないので、ある主張が(非形式論理的な)詭弁・誤謬推理かどうかというのは見た目の形式だけでは判断がつかない場合が多い。したがって他人の発言を詭弁呼ばわりするのはかなり慎重になるべきだと思う。
  • というわけで私は青識先生のほとんどの主張に説得力を感じ、小宮先生の指摘には疑問を感じることが多かった。小宮先生は明示的に自分の社会学者としての権威を使っているのでちょっと厳しめに採点せざるをえない。これはしょうがないと思う。「小宮先生はすばらしく論理的で」のような評価も目についたけど、問題は多かったと思う。
  • しかし、小宮先生が最後の方でまとめの長文を書いて、論点(と難点)をわかりやすくしてくれたのは偉い。こういうのはリスペクトせざるをえない。
  • 一方、論戦の最後の方で、青識先生が話をネットフェミに関係する事件一般に広げて、そうしたネットフェミはオタクに代表される人がやってることを好意的に解釈していないのだから小宮先生の言ってることはおかしい、みたいな議論にしてしまったのはちょっとがっかり。これはロジックというよりはレトリックというか、オルグ学の世界。他のフェミニストの活動そのものに小宮先生が責任負ってるわけじゃないかならねえ。まあそこらへんは残念だったけど、青識先生は啓蒙政治運動家フィロゾーフだからいいのかな。

(おまけ) https://paper.dropbox.com/doc/–AMoWoz6PteveiUCxRccp0s_RAQ-VL1qQgTsubomPhKbvbjXz

References[ + ]

1. 【13日追記】指摘してもらって気づいたんだけど、そのあとで「ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ」がくっついてるんだけど、これ私は(実在/非実在)の「友人」の発言とは読まなかったけど、どうだろう。 「言われてる」なので実際に言われてる、だろうけど、こっちは友人の発言ではなく、「一般に海外では/外国人の間で〜と言われてるらしいよ」ぐらいだと読んだんだけどどうだろうか。空行も入って別の話っぽいし。そもそもこんな言葉あんまり見たことないけど、どういう世界の友人がいるんかね。これ真顔で発言できる人というのもなかなか想像しがたい。もうひとつの解釈は、いつも友人たちから「日本人女はラッキープッシーだよね」って言われていて、その友人たちはいつもはニヤニヤしてそういうことを言ってるので自分もニヤニヤしてごまかしえるけど、仮に「真顔で」「なんでそうなの?」って聞かれたら困る、とかっていう話だと読むのか。これだと快男児先生本気で侮辱されてやばい。「そりゃ、旦那……それは、……そりゃ……それは日本の女たちが尻軽なんじゃなくて、旦那方がイケメンでおモテになるからでさあ、おいらなんかやらしてもえねえんですから……へい……へへ、そういやこの前嬶が旦那から巾着袋買ってもらったってよろこんでました。ありがとうございます。娘の方も財布もらったんで喜んでました……ではちょっと用事がありますんであのの嬶と娘を食わせなきゃならんのでへへ、ごきげんよう」とか答えないとならんしこれは困るねえ。つらい。
2. ここのところも「いろいろ議論はありえる」とは書いたもののコメントがついてしまって、たとえば「誇り高く自分たちについて「Nワード」を使う黒人の人も、白人(やその他)に使われれば怒るだろう、っていう指摘もありました。これはそのとおりで、自分たちの間では誇りを表わす言葉であっても、歴史的にも現在も蔑称であるものを蔑称として使われたらそらまさに侮辱である。おそらくSlutもまだいまだにそういう言葉だろうと思う。しかしこれが蔑称でなく、たとえば「性的に活発」のようなもっと価値的に中立な言葉で表現されれば悪口ではないってことになると思う。現状では「〜の女性は〜に比べて性的に活発で」みたいなのは婉曲な悪口であるかもしれないけど、それを悪口でないようにしたいと思うだろうと思う。あれ、ポイントはずしてるかな。 ちなみにSlutを蔑称じゃなくしてしまおうっていう動きとかはこの本とかがおもしろい。

最近アリストパネス先生を見直しました

もう一つ、『饗宴』で一番有名なアリストパネス先生の人間球体論も久しぶりに読んだんですが、これ私ちょっと読みそこねてた部分があったのです。

さて、諸君は、はじめに、人間の本性と、かつて人間にかかわりのあった事件とを学ばなければならない。そのむかし人間の本然の姿は、こんにち見られるものとは同じからぬ、それとは異なったものなのであった。第一に、人間は三種類あった。すなわち、こんにちの男女二種類のみではなくて、第三の者がその上の存在していたのだ。それは男女両性を合わせもつ者で、名前だけは現在も残っているが、その者自体はすでに消滅してしまっている。つまり「アンドロギュノス(男女)」というのが一種をなしていて、容姿、名前とも男女を合わせもっていた。……

まあここらへんの出だしは有名ですね。

第二に、この三種類の人間の容姿は、すべて全体として球形で、まわりをぐるりと背中と横腹がとり巻いていた。また手は四本、足も手と同じ数だけをもち、顔は二つ、円筒形の首の上にのっかっていたが、両方ともすべての点で同じようにできていた。さらに、頭を一つ、たがいに反対に向いている二つの顔の上にいただき、耳は四つ、隠所は二つ、その他すべて、いま伸べたことから想像されるようなぐあいになっていた。

そして動くときは、こんにちと同じように、直立した姿勢で、望みどおりの方向に進んだが、突っ走ろうとするときには、とんぼ返りの踊り手たちが車輪のように足を回転させながら、ぐるっ、ぐるっと、とんぼ返りをうって行くように、かつては八本あった手足を支えに使って、ぐるっ、ぐるっと急速度に回転しながら進んだのである。

かっこいい、かなあ。まあ滑稽でおかしい。

……強さや腕力にかけても彼らは剛の者で、その心もまた、驕慢であった。そして神々に刃向かうことになった。……そこでゼウスをはじめ、ほかの神々は、彼らをどう処置したものか、寄り寄り相談したが、結論がでない。かつて巨人族になしたように、雷光の一撃で人間の種族を殲滅してしまったら、人間からの敬神の実も神々のための神殿もなくなってしまうだろうから、これはできぬ相談である。そうかと言って、このまま傍若無人のふるまいをさせておくことも許されぬことだ。そこでゼウスは、さんざん頭をしぼって考えたあげく、こう言われた、「わしはどうやら、一つの思案を得たようだよ。それによって人間どもは、このまま存続しながらいまよりも弱体化して、わがままな所業はしなくなるだろうね。その思案とは、こうだ。このたびの処置としては、彼ら一人一人を二つに切り離そうと思う。そうすれば、いまよりも弱くなるだろうし、それに数もますことであるから、われわれにとって、いまよりも有益なものになりもしよう。そして彼らは、二本足でまっすぐ立って歩くことになるだろう。……」

こういってゼウスは、人間どもを二つに切っていった。……そして切るはしから、アポロンに命じて、その顔を半分になった首とを切り口のほうに向け換えさせた。それは、人間が自分の切り口を見ることによって、もっとおとなしくなるように望まれたからである。しかし他のところは、治療するようにとの命令であった。

某描く

ちょっと省略して。

かくて人間は、もとの姿を二つに断ち切られたので、みな自分の半身を求めて一体となった。彼らは、たがいに相手をかき抱き、からみあって、一心同体になることを熱望し、たがいに離れては何一つする気がしない。だから飢えのために、いや、総じて無為のうちに明け暮れるために、つぎつぎと死んでいった。

うん、まあ哀れなものです。

そして、一方の半身が死に、その相手が残されてしまうと、残された者はさらに別の者を探して、からみついた。そのさい、あのゼウスの処罰よりもまえから女性であった者の半身──つまり、ぼくらがいま女性と呼んでいる者であれ、あるいはかつての男性の半身であれ、相手を選ぶことはなかった。このようにして彼らは、滅んでいった。

私がちゃんと読めてなかったのはこの「相手を選ぶことがなかった」の部分なのです。半分に切られた球体たちは、自分の半身を探してだきついたんですよ、ていうのはまではこっけいだけどロマンチックで、そこまでがよく使われる部分なんですよね。でも人間は神様とちがって死ななければならないから、いずれは半身も死んじゃう。そのあと半身はどうしたか?

どうしたって半分じゃ寂しいから、みさかいなく誰かにからみつかざるをえないのです。本当の半身じゃなくても、それにすこしは似たところもあるから。それ以前のパウサニアス先生の演説では、世俗的なエロス、下賎なエロスは心じゃなくて体だけを求めるのだ、とか言われてるわけですが、アリストパネス先生は「しょうがねーじゃん、半身はもう見つからんのだし」ってな話をしているわけですよね。相手選ぶのはたしかに高級なことだろうけど、もう我々にはそれは望むことができないのだ、みたいなパウサニアスに対する反駁がアリストパネス先生の演説には含まれているわけです。

そこでゼウスは憐れに思って、もう一つの案を考えだし、彼らの隠所を前に移した。それまでは後ろ側にあったので、彼らは子を生むにも、相互の結合の力によらず、蝉のように地中に生みつけていただからだ。さればゼウスは人間どもの隠所をこんにちのごとく前に移し、それによって、たがいの相手の体内で、つまり、男性によって女性の体内で生殖をおこなわせたのだ。このばあいのゼウスの狙いは、つぎのようなしだいである。つまり、彼らがからみあうさい、それが男性と女性の出会いであったら、男性と女性は子どもを生み、かくして、人間の種族はつぎつぎにつくりだされていくだろう。また、たとえ男性同士の出会いであっても、いっしょになったために充足感だけは生じ、その結果、彼らの気持ちはひとまずおさまって、ほかのいろいろな仕事に向かい、広く生活のことに気を配るようになる、というわけである。

これは最初はおかしく、もの悲しい話なわけですわ。

かようなわけで、相互に対する恋(エロス)は、このような太古から、人々のうちに植え付けられているのである。それは、人間をかつての本然の姿へと結合する者であり、二つの半身を一体にして、人間本然の姿になおそうとする者なのである。

でも、われわれの多くは、よくわからない半身にさかいなくからみつかねばならないわけです。それが下品だったらい本来的じゃなかったら、んじゃ本然の姿に戻るにはどうしたらいいですかね、っていうふうに話が進むわけよね。プラトン先生は天才ですわ。哲学者としてはイデア論とかわけわからん話したり、超統制二国家を夢見たりして二流なんだから、詩人・劇作家になればよかったのに。そっちだったら超一流だわ。

『饗宴』とかなんかお上品な解説ばっかりで、それが扱ってる肉欲とかどうしよもなさみたいなのは、少なくとも国内ではあんまり解説されないんですが、私が読むともっとバレ話だし、もっと切実な実感に裏づけられている感じがあるんですよね。上のアリストパネス先生の話は、本文を隠してごくごくロマンチックな話にされたり、あるいは滑稽一方の話にされたりするけど、そうじゃなくておもしろ悲しい話だし、そして『饗宴』全体の有機的なつながりのなかでやはり重要な地位を占めている。あの登場人物たちは別々の話をしているわけじゃなく、前の人の話をひきついで本物の弁証法的な発展をみんなで試みているんですわ。最高。みんなもぜひ読んでほしい。

そして、私の解釈では、『饗宴』全体が、さっきのパウサニアス先生や、このアリストパネス先生の話にあらわれる、性欲のみさかいのなさ、尻軽さ、相手かまわずという一面を考えているんですね。実はソクラテスの演説さえそれを扱っていて、それを推奨さえしているわけですが、それは自分で読んでください。あそこ(ディオティマ先生のお説教)は読みにくいんですわ。

ルース・マクリン「尊厳は役に立たない概念だ」


有名論説(論文というほどのものかどうか……)。 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC300789/
まあたいした内容はないんだけど、日本の「尊厳」関係の論文でもけっこうよく名前は触れられているので訳出してみました。そんなに苦労して読むもんでもないけど、国内論文で見るとなんかすごい重要で難しいもののように思われてるふうがあるから、ネットに追いておく価値あるかもしれないと思ってのこと。著作権はもちろんクリアしてなくて、こういうのって苦しいです。


尊厳は役に立たない概念

尊厳の概念なんて、人々の尊重や自律の尊重でしかない。

人間の尊厳への訴えは、医療倫理の景色を染めている。医療研究や医療実践のなんらかの特徴が人間の尊厳を毀損するとか脅かすといった主張はあちこちで見られ、特に遺伝子技術や生殖技術の発展と結びつけられることが多い。しかしそうした論難は筋の通ったものだろうか? 医療活動の倫理学的分析にとって、尊厳は役に立つ概念だろうか? 主要な事例をよく調べてみると、尊厳への訴えは他のもっと正確な観念のあいまいな言いなおしであるか、あるいは、そのトピックを理解する上でなにもつけくわえることのなり単なるスローガンである。

おそらく、尊厳に言及したものでもっとも目立つものは、国際的な人権規約のたぐいだろう。たとえば国連の世界人権宣言である。ほんの少しの例外をのぞいて、こうした国際協定は、医療措置や研究に対して向けられたものではない。主要な例外は欧州協議会の「生物学と医学のヒトへの応用における人権と人間の尊厳の保護のための協約」である。これや他の「尊厳」文書では、医療倫理学の原則である「人々の対する敬意」によって含意されるものを越える意味は含まれてしないように見える。それは、自発的で情報を与えられた上での同意を取得することの必要、機密を保護することの要求、差別的・虐待的な実践を避ける必要、などである。

尊厳への言及が現われたのは1970年代の死のプロセスについての議論のなかで、特に負担の多い生命維持医療を避けたいという欲求を巡っての議論のなかでだった。しばしば、「尊厳とともに死ぬ権利」という言葉で表現されて、この議論の進展は米国では事前指示を与える患者の権利を公的に承認する法令へとつながった。そうした法令の最初のものは、カリフォルニア州自然死法1976であり、次のような文句ではじまる。「〔カリフォルニア州〕議会は、尊厳とプライバシーを患者が期待する権利を承認し、ここに宣言する。カリフォルニア州法は、成人が書面で、終末期において、医師が生命維持措置の使用を差し控え、また撤回することをあらかじめ書面で指示する権利を承認する。」この文脈では、尊厳は自律の尊重以上のなにものでもないように思われる。

終末期医療に関連してこうした曖昧な用法が現われることへのコメントとして、米国大統領委員会は次のように言う。「「尊厳をもった死」のようなフレーズは、非常に矛盾したしかたで用いられているため、もしその意味がクリアにされたとしても、絶望的なほどぼんやりしたものになってしまっている」。

死と関連した「尊厳」のまたまったく別の用法は、医学生が新しい遺体を使って処置(ふつうは挿管技術)をおこなう練習をするときにもちだされている。医療倫理学者は、こうした教育的努力が死者の尊厳を侵害していると非難する。しかし、このシチュエーションは自律の尊重とはまったくなんの関係もない。なぜならその対象はもはや人ではなく遺体だからである。遺体がこのような仕方で試用されていると知ったら死者の親類縁者がどのように感じるかということを懸念することはもっともなことかもしれない。しかし、そうした懸念は遺体の尊厳とは何の関係もないし、関係があるのは、生きている人々の願いの尊重だけである。

ジョージ・W・ブッシュ大統領に任命された米国大統領生命倫理委員会、2002年7月に最初の報告書を提出した。そのタイトル『ヒトクローニングと人間の尊厳』は、委員会の論議のなかで尊厳の概念が占める重要な地位をあらわしている。「尊厳」に対する多くの言及のうちの一つで、報告者は次のように述べている。「生まれる子どもはその親がかつてそうだったのとまったく同じようにこの世界を訪れる。それゆえ、尊厳と人間性の点で、親たちと同等なのだ」。このレポートは尊厳の分析を含まず、それが人々の尊重といった倫理的諸原則とどういう関係にあるのかについては触れていない。どういう場合に尊厳が侵害されているのかを知らせてくれる基準がなにもないので、この尊厳の概念は絶望的に曖昧である。ヒトの生殖的クローニングに反対する説得的な議論は多くあるにしても、尊厳の概念をその意味を明確にすることなしにもちだしても、それは単なるスローガンにすぎない。

世界は変えることができる

んで、まあ問題を発見しただけではやはりだめだし、学生様には世界は変えられると信じて欲しい。そのためには私自身が信じないとだめだ。かげで文句いったり、個人を攻撃するだけは世界はよくならん。問題を発見するだけでなく、どうすれば解決するか考えて、ある程度は手も動かさないとならん。知恵をしぼって改善するのだ。そういう態度を教えられないようでは、大学でえらそうなこと言ってらない。ってなわけで面倒でも改善案を書きました。通るといいなあ。

字が汚なくてはずかしい。べつのところで「世界を変える」ってタイトルでこの粗末な紙がその手段か、っていうコメントがありましたが、まあそういうものです。はははは。歌でも歌った方が有効だったろうか。

歌詞の和訳はこっち



(後記)

  • さっそくカウンター前に誘導ベルトが設置されてました。えらい。うれしいなあ。(7/14)
  • これはうまく意図が通じてなかったぽい……一言相談してもらえればよかったのだが……まあ私が悪うございました。もう一回提案するか……でも少しは見やすくなたような気もするからこれでいいのか……(7/23)

悪いデザインは人を苦しめます

「Togetterで炎上しそうになってしまった……」のつづき)

んで、どういう問題があったか、ブログでは書いておきますかね。

ここにプロ(Yashiro Photo Officeさん)の写真があるので、それを参考にしてください。 http://846-photo.com/archives/portfolio/kyoto-wu-ac-library/ ここでの写真もこのページから使わせていただきます。

この図書館、こういう感じですごくおしゃれでかっこいいんですわ。私は建物としては気にいってる。5階分の吹き抜けになっていて、音や空調や床面積や動線の関係でそれがどうかって話はあるんだけど、今回はそれにはあんまり触れない。

本は壁面書架と、階によってはフロアのまんなかにある書架、そして閉架(自動化書庫)に収められている。

図書館の本を利用する場合、いまはやはりOPACで検索して十進分類にしたがって本をとりにいくって形になりますよね。この図書館は、そのもっとも重要な十進分類が明示されていないのです。

フロアの書架にはこういう形で連番が降られているんだけど、この32・33・34という番号は十進分類とはなにも関係がない。

これはけっこうなストレスになるのです。だって「372.2 A34はえーと」って行くと「34」って目に入るわけだから。まあ運営が管理するためには、棚に番号を振ることは必要なわけだろうけど、それは利用者には関係がない。利用者が知りたいのはその棚に何番台が入っているかで、上の「34」の棚だったら、片面に「372〜375」、もう片面に「375〜375.76」が入っているということを知れば十分。そして十進分類の中身の説明が必要かどうかは微妙。それこそ大学図書館なので、「374.94には学校給食関係がある」みたいなのはいらんかもしれん 。そもそもこの部分的で断片的な枝番説明の選択は、なにが基準なんだろうか?(もしかしたらデザイナーが十進分類をよく知らない可能性まである?)

壁面はもっとひどくて、これはもうほとんど手掛かりがない。上は「K」とか「S」というサインがはいってるけど、このSも上の「34」と同じただの連番で、四方の壁にA〜Zまで入ってるけど、そのA〜Zと十進分類がどういう関係になっているかを知る手掛かりはない。

上の2枚目の方の写真(シャレオツ!)だと中央に「100 哲学」という木製の箱みたいなのが置かれてるけど、手掛かりはこの10番ごとだか50番ごとだかの見えにくい箱みたいなものしかないわけですわ。実際には100番ごとだろうが50番ごとだろうが見えないから関係ない、っていうかこんなもの意識してませんし、何番ごとに置かれてるか1年通ってるけど知りません。これ、どういうことかわかりますか?つまり実際には、とにかくいちいち本の番号をてがかりにして、そこからずーっと棚を見ながら歩いていくわけです。

私はかなりよく図書館を利用するのですが、さすがに十進分類がどこにあるか頭にはいってるわけがない。1階と2階を一周ずつする、さらにフロアのまんなかの棚を見て、例の数字に幻惑される、みたいなの毎日おこってますがね。

書架は8段あるので、最上段は2メートルを越えているので、私の目では何番がはいっているかとかもちろんわかりません。(まあこれくらい高いと本をとろうとして脚立や台座に載るのも危険ですが、それはおいといて)

フロアごとに何番台が置かれているかのサインもない。こんなものがプロの仕事か。

そりゃこれを発注したのは大学で、それは委員会やらコンペやらやってるわけなので最終的には大学が悪く、それを支持している我々一般教職員にもおそらく責任がある。でもデザイナーとか建築家っていうのはプロなんだから、なにをどうすればどうなるかちゃんと考えて提案するもんじゃないのでしょうか。そういう話でした。

大学の優秀な学生様たちは、この使いづらさに気づいているので、こういうものを自作して(あんまり目立たないところにだけど)貼らせてもらってるみたい。(先週やっと見つけました)

私これ見つけたとき、正直ちょっと泣けてきましたよ。「私ら教員がしっかりしてないために君たちにこんなことさせちゃってごめんね」みたいな。

世界は変えることができる」へ続く。

日常雑記:Togetterで炎上しそうになってしまった……

去年9月に大学の新図書館が開館してわーいっていって使いはじめたのですが、なんか使いづらくて困ってたのです。建物自体はおしゃれなんだけど、本の配置なんかが機能的じゃない。「あれをこうしてください」とかいろいろ口頭でお願いしてたんですが、なかなか改善しない。

ずーっといらいらしたまま1年近く過ぎて、「なんでうまくいかないんだろう?どうしたらいのかな?」とか思ってたときに、サインをデザインしたデザイナーさんがその図書館のサインのデザインについてツイートしてたので、つい反応してしまいました。

どうもそのデザイナーさんは、大学だし、OPACなどで検索するのだからサインはそれほどわかりやすくする必要はない、知的な印象を重視したい、のような発想でサインを設計したらしいんですね。ずっと悩んでいらいらが溜っていたので、ついキツい言葉で反応してしまいました。ついでにトギャッタとかでセルフまとめ作ってみたりして。作ったあとに仮眠してたらいきなり3万ビュー、コメント100件とかになっててこれはまずい。ネットリンチを誘発してしまった。反省。

トギャッターの「注目まとめ」とかはてなブックマークの「ホットエントリ」とかに入ってしまうと、あっというまに人が集まってえらいことになってしまうわけですね。問題提起はしたいんだけど、ネットリンチみたいな形になるのは本意ではないので一時閉鎖。

おそろしい時代になりました。ある程度問題提起はしたくても、話題が大きくなりすぎると集団による個人攻撃になってしまう。注目をコントロールするっていうことも考えないとならんわけよねね。

↑この本は非常におもしろいので読んでください。

→ 「悪いデザインは人を苦しめます」に続く。

和訳はこっち。

バトラー様と事実/規範の峻別

前のエントリで『LGBTを読み解く』に言及したのに、このブログでは私がなにを問題にしているか書いてなかった。ずっと前に書いてそのままになってたやつをサルベージ。


森山至貴先生の『LGBTを読み解く』についてoptical frog先生が解説書いてくれていて、私もなんか書きたいんだけど、なんかさしさわりありそうなのでちょっとだけ。

もうバトラー様のフォロワーたちが、言語行為論なんかにはまじめな興味もってないのはわかっているので、オースティン先生とかデリダ先生とかはどうでもいい。パフォーマティブがなにか、とかってのもどうでもいいというか、まあ自分たちの勝手な意味で使ってください。それはもうかまわない。

今興味があるのは、その「ジェンダーのパフォーマティヴィティ」なるものに、いったいどういう価値があるのですか、ってことね。

「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまうという言語のパフォーマティブな特徴は、ジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました。」p.136

これは森山先生がそれまで述べていたこととは違う。その前で言っていたのは、「語や句は、その意味が異なる文脈に流用されてしまう、つまり安定した辞書的な意味が綻びることによってむしろ成立可能となっている」とか「言語の特徴は……辞書的な意味を越えてしまう」ことだとか、語や句が「想定ないし意図されている意味にとどまらないような意味を伝達してしまう」っていうことだけなはず。これと「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまう」がどうつながっているのか私にはわからない。これじゃ学生様読めないでしょ。でもまあいいや。先。

「セックスは生物学的な性差、ジェンダーは社会的な性差と説明され、後者[ジェンダー]は可変的で改善の余地があるが、前者[セックス]は身体のつくりの違いなので変えようがない、と説明されてきました。しかしバトラーは、この「変えようのなさ」は、身体や性に関するわれわれの言語使用の最大公約数的な特徴なのであり、辞書的な意味を越えるという言語のパフォーマティブな特徴ゆえ、もしかしたらこの「変えようのなさ」もずれたり、ほころびたりするかもしれないと考えました。」([]内は江口の補)

「セックス」は「身体の特徴によって割り当てられた性別、男女の間の差異」。「ジェンダー」の方は森山先生の場合は「「男らしさ」「女らしさ」に関する規範の違い」ってことになってる(p.48)。

ここはちょっとトリックがあるように思う。「セックス」という言葉と、その言葉がさす対象としての生物学的な性差が混同されてないかしら?ふつう、「セックスは変えようがない」と言われているのは、身体(あるいは身体的な基盤をもつなにか)は変えようがないということですわね(この主張自体ぼんやりしていて、おそらく正しくない)。でも「セックス」という言葉そのものは、単なる言葉なので、その意味は変えることができる(かもしれない)。

身体の「変えようのなさ」が実際には反復の中で生まれる最大公約数的特徴にすぎないのなら、「けっきょく女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」という「変えようのなさ」に依存した乱暴な議論をそのまま受け入れる必要はなくなります。バトラーの議論は、不変の生物学的「性別」という発想への批判に、哲学的根拠を与える役目を果たしたのです。」

しかし、この文章では、「身体の変えようのなさ」になっている。でも「反復の中でうまれる最大公約数的特徴」は言葉、あるいはジェンダー(「〜らしさ」)の方よね。私は頭が悪いのか、こういうことされるとものすごく混乱する。

さらに、「女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」がなにを意味するのか。先に、「男性」や「女性」といったセックスは、身体に応じて割り当てられるって言っているのだから、生物学的女性がその身体に、生物学的女性としてのなんらかの生物学的特徴をもっているのは当然だろうと思う。

それは例えば女性生殖器官(卵巣や子宮)があるとか、性染色体がXXであるとか、あるいは男性生殖器がないとか染色体にSRY遺伝子がないとか、否定的な形かもしれないし、あんまり性器に注目すると性分化疾患とかのひとはどうなるのかとか問題はあるかもしれないけどね。でも「(生物学的)女性としての特徴」が身体的なものであれば、「(生物学的)女性の身体で生まれたのならその(生物学的)身体に応じた(生物学的)女性としての特徴がある」は当然だ。

当然でないのは「(生物学的)女性の身体で生まれたのなら、その身体に応じた社会的な規範にしたがうべきだ」という判断で、これだけだと、この主張は明確に「である/べし」の間にあるはずのギャップをのりこえてしまっている。だから論証が必要なのね。これを正しい推論・論証にするためには、

(a1) 人はもっている身体に応じた「らしさ」の規範を受け入れるべきだ
(a2) 女性は女性の身体をもっている
———-
(a3) 女性は女性の身体に応じた規範を受け入れるべきだ

の形にする必要がある。この形なら論証としては正しい。しかし(a1)を受け入れるべきかどうかはこの論証自体では論証されていない。(a1)を正当化する論証として、たとえば

(b1) 幸福になりたいなら、身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ
(b2) Aさんは幸福になりたい
————
(b3) 幸福になりたいAさんは身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ

のような論証をする必要があるけど、(b1)はものすごく怪しい前提で、私は受け入れないのでさらに(b1)の論証を求めることになると思う。

なぜ怪しいのかというと、仮に長い人類の経験から、男性や女性が「〜らしく」した方がそれ自体でいろいろ有利で幸福につながりやすいことがわかっているとしても、われわれはそれぞれいろんな個性があるので、「〜らしく」するのが幸福につながるのかどうかは自分でいろいろ考えたりやってみたりしないとわからないからだ。「〜らしく」するとむしろ不幸になるひともたくさんいるだろう。

面倒だから引用しないけどいつも出してるミル先生の『自由論』の第3章参照。「幸福」ではなく「社会の安定のためにそうするべきだ」のような前提をもってきてもなぜそうなのが十分疑える。われわれはくだらない言葉遊びではなく、ほんとうに重要なことを考えるべきだと思う。

つまり、私が思うには、バトラー様のへんちくりんな「哲学的根拠」なるものは少なくとも私には必要ないし、他の人も必要ないと思う。

結局、バトラー様フォロワーはなんらかの「自然主義的誤謬」に非常に弱い思考様式をしているのだと思う。それは倫理学とか論理学とか批判的思考(クリティカルシンキング)とか勉強してほしい。

Spotify楽しいですね

2、3ヶ月前から音楽配信サービスをAppleからSpotifyに乗りかえたんですが、Spotify楽しいですね。いまごろって話になっちゃいますが。すばらしい精度で知らない曲を紹介してくれる。Spotifyの公式のも、知らない他人のプレイリストもおもしろい。

自分でも作ってみたりして。

↑を読むために、参照されてる曲のプレイリスト作ってみました。

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↑で冨田ラボ先生が100曲紹介してたからそれも作ってみてる(まだ途中)

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私のオールタイムベストみたいなのは↓

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昔書いたブログはyoutube音源使ってるけど、かなり消えちゃってわけわかんからSpotifyに入れ替えたいな。

こういうプレイリスト作ったり、つまらないブログ書いたりするのは、なんかボトルにお手紙つめて海に流す、みたいな感じがあって好きですね。おそらく誰の目にも留まらないけどひょっとしたら誰かが拾って読むかもしれない。Spotifyやネットの海に溶けこんでいく感じがある。ボイジャー号にレコード積んで宇宙に流したりするのもそういうロマンよね。あ、パイオニア号につんだ金属板が先だよね。

盛永審一郎先生の『人受精胚と人間の尊厳』

そういや、ちょっと前に敬愛する盛永審一郎先生の『人受精胚と人間の尊厳』の評をわりあてられて、いろいろ文句つけたくなり、やっぱりパーソン論ちゃんとやらないとなあ、みたいなことを考えたりしたのでした。今年はそれの年になりそう。私途中で投げ出しちゃってだめよね。

先生は強硬なヒト胚保護派なので、そういう問題に興味ある人はぜひ読んでみてください。ただし専門家向け。

↓はそのときのやっつけのレジュメ。もっとまじめにやります。このブログで連載することになるかも。

先生とはそのあともネットで楽しく交換日記みたいなのさせてもらっていて(Dropbox Papersは楽しい)、某学会あたりで再戦することになりそう。

(PDF) 盛永審一郎『人受精胚と人間の尊厳』へのコメント

ゼミの書記係をしてもらってWordPressに載せる

ここと同じWordpressで学生用専用サイトを作って、そこでゼミの記録やゼミ生のブログを買いてもらうってのを試しています。

最近短期〜中期的な記憶がだめになってて、授業でなにしたか記録してないとだめなわけですが、それを学生様にやってもらおう、ぐらいの試み。

低学年は文章を書く練習をたくさんしたいわけですが、授業で読み上げて添削するのはとても時間がかかるので全員のは無理です。でもブログの形にしておけば他の学生様がどんなの書いてるのか楽しむこともできるし。学生様は他の学生様に読まれると思うといろいろおもしろいことを積極的に書いてくれます。

このサイトは1〜4回生ゼミ共通にしているので、1回生は上回生ではこんなことしているのだな、とかわかるし、上回生は下級生が見てると思うとすこしはがんばってくれる感じ。

個人名や個人情報が出てしまうのでさすがにネットにフルオープンにはできないので、学外からのアクセスにはプラグインを使って簡単なパスワードをかけています。

学生用のアカウントは手動で発行したのですが、授業内で説明してっさと自分で発行してもらってもいいことに気づきました。

本当は学外にも見える形でやってみたいところはあるけど、現状ではこんなものでしょうな。

あと、ゼミ内容の書記係は2〜3人に同時にやってもらうことで、お互いにいろんなメモの仕方があることもわかるし、モレも少なくなるし、セメスターで当たる回数も増えるのでよいことづくめ。

どうせいわゆる「就活」のグループディスカッションとかでは書記とかしなきゃならないときもあるわけですから、人に見てもらえるメモ・議事録を取る練習になるぞってなことをお説教しておくとやる気出してくれるかもしれません。