サーバー移転しました

ほとんどなにも変わりないけど、(仮想)サーバーマシンを移動しました。実際にはwordpressをエクスポート→インポートして、アドレスを振り替えたぐらい。

実は、現在使っているwordpressを動かすためのサーバーの他に、昔のyonosuke.netの不如意掲示板のリンクをリダイレクトするために、ディスク容量大きめのサーバーもう1台借りてたんだけど、そっちに全部移した、ぐらい。これで年間6000円ぐらいの節約になる。

まあ昔の掲示板の音源なんていらないだろうけど、15年も昔のリンクがまだ辿れる、みたいなのはかっこいいかと思って。ははは。

これでもうサーバーを直接いじらなきゃならんのはまた5年ぐらいなくなるのではないか。っていうかもうあぼーんしてるかもしれんしね。懐かしの2ちゃんねるもあぼーんしたみたいだし。

実はこのサーバーでは某学術協会のサイトも動いていて、それ切り離す必要もあるんよね。私とともにあぼーんしちゃったらしょうがないし。まあそういう片づけの時期。

 

yonosuke名義のエントリーをマージしました

http://yonosuke.net/yonosuke/ 以下においてたブログ記事もマージしますた。(授業用のとかは、以前は別サイトにしてたけど春にマージしたのでした。)

なんかこっちでも音楽について書くことが増えそうだし、知命をとうに過ぎて、もう名義つかいわける意味もない。人生マージ計画。あとは過去に蒔いた悪い種を自分で刈り取ったり、密かに張っていた伏線を回収したりするだけ(そんなものはないけど)。

でももうネットであちこちいじったり書いたりするのも疲れました。ツイッタも疲れた感じ。

サルトル先生が夢見たガラス張りの世界

ネットとかでいろいろ書き散らかしていると、自分の思考や感情が他の人に見られるっていうのはどういうことか、みたいなのはよく考えます。次はサルトル先生のインタビューの好きな箇所の勝手な訳。時々授業で使います。

「あなた自身ことについて尋ねられることはいやですか?」
「いや、そんなことはない。誰もが、自分のもっとも内面的な事柄についてもインタビュアーに話すことができなければならないと私は思う。人々のあいだの関係をだめにするものは、お互いが相手に対して何かを隠す、何かを秘密にする──それは、誰に対しても秘密にするというわけでなくても、少なくともそのとき話している相手に対して秘密にする──ということにあるように思われる。

私は、誰もが他人に対して秘密をもたず、外的な生活だけでなく、内的な生活も完全に公開し、人に与えることによって、二人の人間が互いに相手に対してまったく秘密をもたないというようなときが来ることを容易に想像することができる。

……不信、無知、恐怖から生まれるよそよそしさは、他人に対して打ち解けさせない、あるいは、充分に打ち解けさせない原因である。また、個人的に私は会う人々に対してすべての事柄について自分の意見を言ったりはしないが、できるだけ自分をガラス張りにしようとはする。なぜならば、われわれの内にあるこの暗い領域は、自身にとってと同じく他人にとっても暗いのだが、それを他人のために明るみ出そうとすることによってのみ自身にとっても明らかになってくるからだ。

……当然、すべてを話すことはできない。しかし、もっと後、つまり、私が死んだ後、あるいは多分あなたの死んだ後になるかもしれないが、人はもっと自分自身のことについて語るようになり、大きな変化がそのことによって生み出されると私は思う。さらに、こうした変化は本当の革命と結びついていると思う。真の社会的調和の実現のためには、ひとりの人間の存在は、その隣人にとって完全に可視的なものでなければならず、またその逆も言えなくてはならない。」

http://www.nybooks.com/articles/archives/1975/aug/07/sartre-at-seventy-an-interview/ から。

こうしたガラス張りの世界は、すでにツイッタとか普及した我々の世界でもあるよな、みたいな。この「ガラス張り」について知ったのは、グラヴァー先生の訳してる時。この本はおもしろいよ。いま読んでもおもしろいと思う。訳している当時はこの原文を手に入れることは難しかった。いまではGoogle様に頼めば一発。よい世界になった。

 

 

 

 

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クリストファー・ピーターソン『ポジティブ心理学入門』の訳の問題

ちょっと学生様に読ませるためにメモ。
クリストファー・ピーターソン先生の『ポジティブ心理学入門』の「ポジティブ思考」のところをつかってゼミで発表してくれた学生様がいるんですが、なんか本人もよくわからないものになってしまって、原因はなんだろうと訳見たらやっぱり翻訳の問題だってござる。
ピーターソン先生が、ハーバード大の学生の追跡調査をつかって楽観性について研究したのがある。『ポジティブ心理学入門』でもそれが紹介されているんだけど、その翻訳に問題があって読めないものになっている。
っていうか、宇野先生の訳についてはamazonですでに文句つけてて(1)(2)、一部の人には不評だし、商売の邪魔してるみたいで申しわけないんだけどこまるのです。
ピーターソン先生が注目したのは悪い出来事、つらい出来事があった場合、その原因をどういうふうに説明するか、っていう説明スタイルの問題なのね。これはセリグマン先生が『オプティミストはなぜ成功するのか』の中心的な研究対象でもあった。ピーターソン先生は、ハーバード大から在学中あるいは卒業後に従軍した人々の手記を分析したのね。まず、訳書は飛ばし飛ばしで訳されてるから文脈がわかりにくい。まあそれは目をつぶることにして、原文はこう。
I read the essays of a randomly selected 99 young men — which were usually several hundred words long, uniformly sincere, often eloquent, and (I must say) highly legible—on the look out for descriptions of bad events: setbacks, failures, frustrations, and disappointments.  Everyone of course reported such events, but my attention was directed at how each writer explains their causes.  (Peterson 2006, pp.108-109)
私はランダムに選び出した九九人の青年の文章を読んだ。たいていは数百語程度の長さのもので、一様に誠実であり、しばし雄弁で、挫折や失敗、欲求不満、失望といった悪い事柄に関する記述には注意が払われており、極めて読みやすいものであった。もちろん、全員がそのような事柄について報告したのだが、私は各々の書き手が、悪い事柄の原因についてどのように説明するのかという点に注目した。(宇野訳p.118)
ここはOK 1)実はOKじゃなくて、「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」「とても読みやすくて、挫折や失敗、欲求不満、失望といった悪い出来事をさがすにはうってつけだった」「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」みたいな感じのようだ。。問題はその次。
Did he so by pointing to inherent flaws within himself and to factors that were chronic and pervasive? If so, I scored his essay at the pessimistic end of thinking.  “I was not happy in the service [because my] . . .  intrinsic dislike for the military.” Or did he explain bad events by distancing himself from their causes and circumscribing them? “I was in danger during the military attack [because] . . . I was not assigned a specific task that kept me in a single position.” If so, I scored his essays at the optimistic end of thinking.  Appreciate that these ratings capture whether a person believes the future is something that can be different from the negative past (optimism) or simply its relentless reincarnation (pessimism). (Peterson 2006, pp.108-109)
宇野先生の訳ではこう。
「学生は、自分に固有の欠陥についてどのように説明したのだろうか?次のように、慢性的で、広範囲にわたる要因を指摘しながら説明した場合、私はその文章を悲観的な考え方として評価した。「私は従軍が楽しくなかったo[なぜならば私には]……軍隊に対する生来の嫌悪感があるからだった」あるいは、悪い事柄について、それらの原因から距離を置き、限定する形で説明した文章もあった。「私は軍事攻撃中、危険な状態にあった°[なぜならば私には]……―つの場所にとどまる特定の任務が与えられていなかったからだ」このような説明の場合、私はその文章を楽観的な考え方として評価した。未来が、ネガテイプだった過去とは違うものになると信じているのか、または、未来は、ただネガティプなことの容赦なきくり返しであると信じているのかによって、それぞれを楽観と悲観として評価した。」
私も訳してみます。
「その人は、悪い出来事の説明をするときに、それを自分自身の生まれつきの欠陥や、永続的で全般的な要因のせいにしているだろうか? そうしている場合、私はその人のエッセイを極端に悲観的なものとしてカウントした。たとえば次のようなものである。「私は従軍中幸せではなかった。(なぜなら)私は生まれつき軍隊が嫌いだからだ。」あるいはその人は、悪い出来事を説明するとき、その原因から自分自身を切り離して、自分自身からは離れたものとして説明しただろうか?たとえば次のようなものである。 「私は攻撃中危険な状態にあった。(なぜならば)一箇所にとどめてくれる特定の任務を与えられていなかったからだ。」こういう場合、私はその人のエッセイを極端に楽観的な思考としてカウントした。こうして評価すると、その評価は、その人物が、将来は、ネガティブな過去とはちがったものになりえると信じているのか、あるいはネガティブな過去はえんえんとくりかえすものだと信じているかをうまく捉えてくれるのである。」
ピーターソン先生やその協力者のセリグマン先生たちよれば、悲観主義ってのは、悪いことの原因が自分のなかにあり、いつも、そして全部のことについてそうであると考える傾向で、楽観主義ってのは悪いことが起こってもその原因は自分ではなく、外的な要因であり、また一時的なもの、部分的なものであると信じる傾向なんよね。上のピーターソン先生があげてる例は、悲観的な人は「俺は生まれつき軍隊嫌いだから不幸だったし、軍隊にいるかぎるずっと不幸」「いつもそうだ」「なんでもそうなんだ」って考えて、楽観的な人は「不幸だけどそれは任務の運が悪かったからその時は不幸だった、でもそれは俺自身の問題ではなく、司令部が悪かったり、運が悪かったからだ。別の任務与えられたらうまくいったろうし、将来はうまくいくだろう」「今回はだめだった」「次はうまくいく」みたいに考えるってことなわねね。宇野先生の訳は「生まれつきの欠点」inherent flaws within himselfとかdistancing himselfとかの「自分」ってキーワードを訳出してないからよくわからないものになっている。

まあこれ書いてから、尊敬する先生に「いやそこちがうよ」って直してもらったんですが、そういうことしてもらって感謝すると同時に、「私他人の誤訳とか指摘しておきながら、自分もまちがってるし、能力足りないのに余計なことしてダメな男だよな、これって私の能力不足と生まれつきの性格の問題で、どうにもこうにもなおらんよな。これからもずっとそうなのだ、まだまだ同じことをくりかえすだろう」って思ってしまうわけで、これが悲観主義っすわ。ははは。下のセリグマン『オプティミストはなぜ成功するか』読むといい。セリグマン先生があれを書いたとき、悲観主義な人もがんばれば楽観主義になれる、って主張してたんですが、最近の『ポジティブ心理学の挑戦』あたりではなんかもうあきらめちゃってる感じで、「いろいろ勉強して楽観的になるテクニックはぜんぶ知ってるけど、気を抜くとすぐに「俺は負け犬だ」みたいに思っちゃう」みたいなこと書いてて笑えました。まあ社会学者は社会がわからず、倫理学者は倫理がわからず、心理学者は心理がわからん、みたいなのはよく言われるんですが、ポジティブ心理学研究する人はポジティブじゃないんしょね。


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References   [ + ]

1. 実はOKじゃなくて、「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」「とても読みやすくて、挫折や失敗、欲求不満、失望といった悪い出来事をさがすにはうってつけだった」「悪い経験を探して若者たちのエッセイを読んだ」みたいな感じのようだ。

実はZumbaからラテン音楽にはまってました。まずメレンゲ。

実は去年の夏から再度ジムに通っていて、最初はプールで泳いでるだけだったんですが、冬からZumbaっていうダンスエクササイズのクラスに出てるんですわ。体のふつう使わないところを動かしたり、いつもはしない動作をしたり、もうちょっと体に神経を通して動作をふつうにしたい、みたいな。私なんか身のこなしがおかしいんですよね。

んでこのZumbaっていうのは基本的に、ふつうのエアロビクスみたいにアメリカの音楽使うんじゃなくて、ラテンの音楽を使うってんでおもしろいんですよね。創始者のベト先生ってのがコロンビア出身らしくて、クンビアとかレゲトン、メレンゲ、サルサ、レゲエ、最近ではフラメンコやらアフリカンやら中東のベリーダンスやらインドとかワールドワイドで世界が広がりました。音楽とダンスは切っても切れない関係。

サルサは前から聞いてたんだけど、まず最初にはまったのが90後半〜2000年代のメレンゲね。何枚かヒット曲CD入手していろいろ聞いてて、「これ特にいいなあ」ってのがLa Makinaっていうバンドだって気づきました。

こんなの。

このバンドのベースがいい。5弦ベースの一番低いところ使ってミュートしてズっズっズっズグガーってやっててシビれます。低音の出るよい再生装置かヘッドホンで聞いてください。

Zumbaがなんであるかっていうのは、これ買うのが一番です。その価値があると思う。

 

 

まあyoutubeにもころがってますけど。あとZumbaに使われてる曲をyoutubede紹介してくれている  [ZUMBA® Musiccenter] http://goo.gl/OZAa0 さんのページがすばらしい。DVD買わなくても、 http://zumbamusiccenter.blog56.fc2.com/blog-entry-1726.html

のページの動画を一つ一つ見ていけば、だいたいの動きは理解できると思います。基本的なステップやノリを理解すると、ワールド音楽の聞き方が変わるのでおすすめですね。

片づけられない女のためのこんどこそ!

女性というと、掃除が好きで片付けが得意で、みたいな印象をもたれやすいものらしく、男子だったら部屋散らかしてるぐらいではあんまりひどいこと言われませんが、女子はたいへんみたいですね。なんか寮生活とかでもそこらへんで非常にトラブルが多いとかなんとかっていう話を聞いたことがあります。

実際には男性だろうが女性だろうがひどい生活を送っている人々は少なくない。部屋ちらかってるのはみじめだ。必要なものがすぐに出てこず、毎日何時間も書類やらなんやら探して時間つぶすのはつらいし馬鹿だ。いらいらする。時間の使いかたもおかしくて、毎日「あれやんなきゃ、あれしときたい」って思ってるのにいつのまにか夜になってる。いつもなにかに追いたてられてる感じ。心やすまる時がない。毎日毎日みじめで悲惨だ。そういう人々が多いのはよく知っています。そして私もその一人。

そういう人々は自分の生活がなにかおかしい、他の人と違うってことを知っているので、「片付け」本とか「時間管理」とかって本を読むのは好きなことが多い。そして私もその一人。

なのでまあその手の本はいろいろ読んでいるのですが、この前ひさびさのヒットを読みましたね。池田暁子先生の『片づけられない女のためのこんどこそ!片づける技術』。通ってる市立図書館で手にとってしまいますた。これはすごい。

なんというか、生活がうまくいかない人々の生活や考え方、経験をリアルに描いていて、もうどこを読んでもそのみじめさつらさに泣ける。ちょっと多いけど4ページ引用させてもらおう。

池田暁子2池田暁子1

 

 

池田暁子4池田暁子3

最後のコマの八の字の眉毛とか、顔に入った影線とか。みじめな人々はほんとうにこんな感じだと思う。これが描けるっていうのはとてつもない観察力や自己反省力、表現力を感じますね。感動した。

このエッセイマンガは、池田先生がこの生活煉獄からどうやって抜けだすかっていうお話。いくつかのノウハウは、そこらへんでよく見かけるノウハウでそれ自体に目新しさはないんだけど、彼女自身が試行錯誤して発見したり、話には聞いてたことを実感として得たりして感動的。

我々は勉強は学校で教えられるけど生活のしかたっていうのを学ぶ機会は少ない。生活するだれならだれだってできると思われている。でもよく生活することはそんな簡単ではないし、少なくとも一部の人は必死で学ばないとよく生活できない。古代ギリシアの哲学者ソクラテスも、「たんに生活するだけではなく、よく生活することが重要だ」「吟味されない生活は生活するに値しない」と言っておられます1)一部うそ。気になるなら調べててください。。生まれもっての気質や性格、ある種の軽い発達障害みたいなものによって苦しんだりしている人々も多い。そういうのは性格だからしょうがない、って言いたくなるけど、自分自身が苦しいんだからやっぱりなんとかしたい。

こういうのは、ちゃんとできる人からすると「いくらアドバイスしても聞かない」「なんでできないのかわからない」「けっきょくやる気がないからだ」「だめな奴だ」「部屋だけでなく心が腐っている」みたいになっちゃうんですよね。でもできない人はそれなりの言い分がある。できない人ができないのは理由があって、それがなんであるかっていうのはできなかった人でなければわからないし、どう伝えればいいのかわからない。私たちが本当に学ぶことができるのは、整理された知識じゃなく、他人の失敗や試行錯誤の経験談を知り、自分自身で試行錯誤することによってだけだ、みたいなことを言いたくなります。おそらくアカデミックな勉強もそうなんだと思う。

「汚部屋」の人はとりあえずこれ読んでみじめな気持になり、そこから脱出した人もいると知りモチベーションつけましょう。

もうちょっと実用的なのは『整理術』と『時間整理術』。こっちもそれぞれ名作。まあこういうのは実行しないとなにもならんわけですが、図書館とかで読む価値は十分あると思う。

私は汚部屋ってほどじゃないけど整理とか時間管理とかすごい苦手で毎日みじめな思いをしているので、またがんばってみようと思います。汚部屋女子もがんばってください。

あとこういう人にはあんまり言えない生活の悩みみたいのは2ちゃんねるの生活板あたりで互助会みたいな感じでやってることがあるのでそういうところ見てみるのもいいと思う。そういうので時間つかいすぎるのも馬鹿ですけどね。

 

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References   [ + ]

1. 一部うそ。気になるなら調べててください。

女性には男性の性欲がわかりにくいのだろう

前エントリの続き

スティーブン・ピンカー先生の『暴力の人類史』は非常におもしろいので、あらゆる人が読むに値すると思います。暴力の歴史と心理学が延々書いてあってとても楽しい(暴力が楽しいのではなく、各分野の最新の知見が得られる)。最初の方の拷問の話は読むと冷や汗をかくので苦手な人は飛ばしてもいいと思う。そこ飛ばせばあとはそんなひどいのはない。

当然殺人だけじゃなく人種差別、児童虐待、ゲイバッシング、動物虐待とかって話にまじって、女性に対する暴力である性暴力の問題も扱われてます。

『人間の本性を考える』とかではフェミニズム(特にブラウンミラー先生のタイプのやつ)に対してなんか批判的・揶揄的な態度をとってるところもあったんですが、この本ではかなり高く評価してますね。フェミニストたちの運動のおかげで、20世紀後半に性暴力に対して社会は厳しい態度で臨むようになり、数も減ってる、ってのが基本的な立場。

レイプは決して男性性の正常な一部というわけではないが、男性の欲望が基本的に性的パートナーの選り好みに頓着せず、パートナーの内面にも無関心であるという事実によって可能となっているところはある。もっといえば、男性にとっては「パートナー」という言葉より「対象物」(object)という言葉の方が適切なくらいなのである。(下巻 p.58)

こういう男女の性的欲求のあり方の違いはけっこう重要で、性暴力の被害がちゃんと扱われないのには、「求めてもいない突然のセックスを見知らぬ他人とすることになるのは魅力的どころか不快なことであるという心理を、想像することができない男性の視野の狭さ」があるだろうとか。(objectは対象物でもいいけど「モノ」の方がピンとくるかもしれない。)

もっとも、「レイプはセックスではなく暴力」っていう有名なフェミニスト的主張は認めない。ブラウンミラー先生の「先史時代から現代にいたるまで、レイプにはある決定的な機能が担わされてきたと思う。レイプとは意識的な威嚇プロセスにほかならず、このプロセスによって全男性は全女性につねに恐怖をもたせつづけるのだ」っていう有名なフレーズは今回も強烈に否定されちゃう。

このあとが重要で、

もしここで「アド・フェミナム」な〔女性に対する偏見に訴えた〕提言を許されるなら、その気のない他人と人間的感情のないセックス(impersonal sex)をしたがる欲望というのが奇妙すぎて考えるにも及ばない性別にとっては、レイプはセックスとは何の関係もないという説のほうが、もっともらしく感じられるのかもしれない。(下巻 p.59)

てなことを書いてる。(ad feminamは偏見に訴えたというよりは「女性だから論法」の方がよいと思う。impersonal sexは「人間的感情のないセックス」でもOKだけど、「誰か特定できない、お互いを個別の人格とみてないセックス」の意味)

これはワシも昔からそうだと思ってたのじゃ。ワシもワシも。前のエントリで紹介した牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』で、先生はレイプ犯人の動機が性欲だってされることに非常に抵抗があるみたいで、もっと「加害性を追求」しろということを主張しているわけだけど、レイプ犯の動機を性欲だとすることに対する抵抗の一つは女性にはそんなものが性欲だとは思えないからだろう、みたいな。

牧野先生自身はレイプの動機にあるのは性欲というよりは、「自分には力があることを確認」「自信を回復」「「内なる父」を越える」(牧野 p.190)とかだっていうフェミニスト的解釈やフロイト的解釈に共感しているようだ。

研究対象の犯人はこういってるらしいです。

最近考えているのですが、「強姦」という手段に出たのは、私の中では意味を理解していない絶対悪なので、これをクリアすれば力が手に入る、強者になれる。そして、自分のカラを壊るのに性的興奮のいきおいが必要だったのではないか、そして女性を征服できる喜び、達成感があったのではないかと思っているのです。私が考えているこの三つはかなり私にはしっくりくるものであり、今書いている事自体苦しく、つらく、恐いものです。(牧野 p.190)

これはまあ事後的に「自分はあのときなぜそうしたのかな」っていう問いに対する犯罪者なりの答ですわね。どの程度正直なのかはよくわからない。これを牧野先生はこう解釈する。

Yの強姦行為には、異なる水準の力が関わっている。一つは、被害女性に対する強姦行為に見る力であり、女性を強姦することで、自分には力があることを確認し、職場や家庭で喪失している自信を回復させるものである。もう一つは、「内なる父」を超える力としての強姦である。強姦を行うことで、耐えることを強要する「内なる父」、目標だった父を超えて、強者になったと実感し、父の縛りから解放されるのである。(牧野 p.190)

「レイプはセックスには関係なく、関係するのは力(パワー)だけ」っていうピンカー先生が批判するフェミニスト的解釈にのっかってますね。

Yは、家庭や職場で感じていた自信のなさやままならなさを、「内なる父」の足枷をはずしたり、自分の弱さをさらけ出すなどして、現実の世界で自分を変えるのではなく、自分が自由に振る舞える世界を創り出し、そこで別の自分になることで、自分を解放した。その手段として強姦が選ばれた。Yは、性欲によって行われたということは、最初に発信した手紙で「この犯罪は性的欲求だけでは絶対起こりえない犯罪だと思います」と否定してた。捜査・裁判を通じて、Yの強姦はY生来の強い性欲によって起きたと結論づけられていたが、そのことは終始否定していたのである。(牧野 p.190)

犯人は「性欲だけでは起こりえない」と(おそらく)正しく書いているのに、牧野先生は「否定している」と解釈してしまっている。たしかに犯罪とかっていうのは、強い欲望だけでは実行されずに、他にもいろんな条件が必要で、環境や状況の条件もあれば、弱い自制力、弱い道徳心、低い共感力とかそういう個人の条件も必要だろう。私の好きなJ. S. ミル先生はこういうことを言っている。

人々が誤った行動をとるのは、欲望(desire)が強いからではない。良心が弱いからである。強い衝動と弱い良心とのあいだにはなんの自然的つながりもない。自然的つながりはその逆である。ある人の欲望と感情が他の人のそれらより強く変化に富んでいる、ということは、その人のほうが人間性の素材をより多くもっており、したがってより多くの悪もなしうるかもしれぬが、確実により多くの善をもなすことができる、ということにほかならない。強い衝動とは精力(エネルギー)の別名なのだ。(ミル『自由論』第3章、早坂忠先生の訳を一部変更。)

英雄色を好む、とかそういう感じすかね(ミル先生の性欲がどうだったのかというのは伝記的な謎)。こういうの読むと、たしかに「生来の強い欲望によって起きた」みたいな解釈がどの程度正しいかってのは再考してみる価値はある。けっきょくその人の弱い自制心や道徳心その他の心的能力に較べて性欲がそこそこ強い、道徳や自尊心や合理性より性欲を優先しちゃう奴ってだけで、それは他の人々と同じかそれ以下のものかもしれんしね。「性欲なら、あんな犯罪者よりオレ方がずっと強いぞ」みたいな人は少なくないのではないか。ははは。

まあ「自信の回復」とか「内なる父の超克」とかそういうのも部分的にはあるんかもしれないけど、私は原因として一番強いのはやっぱり性欲だろうな、と思いますね。(もちろんレイプ犯のすべてが同じ動機に同じようにもとづいているわけではない。)ふつうに考えてしまえば、「自分が自由に振る舞える世界」で凶器とかちらつかせて女性を脅していったいなんの自信がつくのかわからんし、どういう内なる父を超えてるのかもわからんし。そもそも犯罪犯して自信がつくってだけの話なら、若い女性を狙う必要もない。どうせ凶器使うなら、偉そうな男性大学教員にでもからんで財布カツアゲしたり土下座させたりした方ががずっと自信がつくのではないか。警察官なんだから体鍛えてるだろうし、大学教員を背負い投げするくらい簡単だろう。一般に「ストレスから」とか「自信をつけるため」とかっていう加害者自身の言い分ってのはどのていど信用していいのかよくわからんです。

→続き「男性も女性の不快さを理解していないだろう」

 

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牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』

昼間ちょっと某氏と性犯罪対策みたいなのについて話をする機会があり、牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』読みなおしたり。この本は非常に興味深い本で、元警察官で、警察学校の同期が連続強姦で逮捕されたという経験をもつ方が書いてる。警察内部の取調べマニュアルとか、その連続強姦魔の書簡や聞き取りなんかから構成されていて非常に読みごたえがある。性犯罪とか刑事司法とかそういうのに関心ある人は必読だと思いますね。

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読んだときに書評もどきというかamazonレビューみたいなものを書こうとしたんですが、そのままになってしまってた。ネタは非常におもしろいのに、全体に微妙に理解しにくいところがあるんよね。

性犯罪と性欲

一つ目。牧野先生によれば、性犯罪では操作から立件、裁判に至るまで、加害者の犯罪行為がとにかく「性欲」という動機にもとづいた犯行であったことを立証しようとしていて、その際に「性欲」や「情欲」が「本能」とされていて内実が問われないままになってる、ということらしい。「男の本能だからしょうがない」みたいな感じですかね。まあたしかに「本能」だから「しょうがない」なんて本気で言われちゃったら困っちゃいます。性欲はわれわれが動物と共通にもっている欲望の一つだろうけど、それをコントロールするから人間であってね。

でも「本能」はともかくとして、犯行の動機が性欲であることを立証しようとするのは、刑事司法としてはある程度やむをえないことな気がする。刑法とかぜんぜん知らんのであれなんですが、素人考えからすれば、もしある強姦に該当する行為が、性欲にもとづいたものでなければそれが性犯罪なのかどうかわからないってことにもなるかもしれない。たとえば、加害者はまったく性的な欲求をもっておらず、女性の性器に男性器を挿入することによって来世で蘇えることができるとかそういうことを信じていてそういう行為を行った場合、それって性犯罪なのかどうか。セックスっていうのがなんだか知らないわからないけど男性器を挿入してしまった、みたいなのもどういうタイプの犯罪なのかよくわからない。やっぱり性犯罪が性犯罪であるためには、犯行の主要な動機の一つが性欲である、セックスである、っていうのが必要なんちゃうかな。

まあもちろん、加害者がなにを考えていようが、被害者にとって性的な行為であれば性犯罪である強姦である、っていうのでもOKなのだろうとは思います。でも「なぜその犯罪を犯したのか」っていう問いに対して、いくつかの動機と、その動機にもとづいた犯罪行為を防がなかった理由がないと我々はそれが犯罪だと理解しにくい。それが犯罪だと思ってなかったとか(強姦の場合はありえないと思うけど)、他人の利益や尊厳なんか知ったことはないという邪悪な性格であったとか、捕まらないだろうと思ってたとか、そういうのも理解した上で、そいつの行為が犯罪と呼ばれるものだったのかとか、どの程度の罰を与えねばならないかとか考えるんだと思う。

牧野先生が懸念しているのは、「強姦が性欲にもとづくものだ」ということよりは、「性欲は本能であり自然なものだ」とか「本能だからしょうがない」とかって考え方の方なんだけど、これってそんなに司法の場で認められていることなんすかね。たしかに邪悪な犯罪者たちはそういう自己弁護をするだろうけど、われわれがそれを認める必要はまったくないように思える。「他人のものを取りあげて自分のものにしてしまいたい」「腹が立つ奴は殴りたい」みたいなのも我々の自然的な傾向であって、もし「本能」っていう言い方をすれば本能。でもそういう欲求を野放しにしたら困るから法や罰があるわけで、自然なもの、本能的なものだからって主張されたってつっぱねることはできるわね。

難しいのは「その時私は自分をまったくコントロールすることができなかった」と主張された場合で、これ心神喪失とか心神耗弱とかそういう面倒な問題になりますわね。もしこの手の話をするのであれば、性欲によってわれわれがそうした自分のコントロールをまったく失うことがありえるかっていうおもしろい話になる。牧野先生は本当はこれがしたかったのかしら。刑法学とかの分野でこの問題がどうなってるか私は知らないんですが、衝動的な行動についていくらか情状酌量の予知はあるのかもしれないけど、たいていの性犯罪はそういう衝動的なものではないだろうから関係なさそうな気もする。この点は後半の事例研究でもはっきり出ていると思う。痴漢やセクハラぐらいのことを考えても、たとえば道を歩いていて、白昼人目のあるところで突然衝動的に女性に襲いかかる奴なんてのはいないわけで、おそらく皆捕まらないだろう、セクハラで訴えられないだろうぐらいの計算をしてからやってる気がしますね。少なくとも頭のなかで何回も予行演習していると思う。

 加害性の追求

二つ目。この本の後半では研究対象となった警察学校動機の強姦魔の悪質さが強調されていて、これはなんともすばらしい研究だと思う。理解しにくいのは、第3章「加害性の追求」での議論でなにを目指しているかっていうことなんよね。牧野先生が考えているのは単なる厳罰化じゃないみたいで、んじゃいったいなにか。研究対象になっている強姦魔はまったく悪質凶悪なやつで、これほど悪質な犯罪者は厳罰に処すべきだと思わされるんだけど、逆に読者にはその悪質さがかえってそうした犯罪者の特異性みたいなのを感じさせてしまう。よくいわれるサイコパス的な感じ(よく知らんけど)。こんなに異常なやつを追求するってのはどういうことなのか。もちろん異常人物として研究対象としては興味深いだろうけど、刑事司法の場で他になにをしようというのかがわからない。

「追求」ってのがわからんのんよね。「加害者は取調べにおいてその加害性を十分に追及されることがない」(p.130)っていう文章なんかが典型なんだけど、警察や検察の取調べは建前としては道徳的・法的非難の場ではなく、事実確認の場だろうと思う。「どんな悪い奴かはっきりさせる」ってことかなあ。「あの事件はなぜ起こったのか」(p.198)という問いの答を追求するのかもしれないけど、加害者の性格や生い立ちや考え方をはっきりさせるのだろうか。あるいは性犯罪をとりまく社会的ななにかをはっきりさせるのだろうか。そこらが見えなくて最後まで不満のままだった感じ。

性欲による行動は不可避なの?

あと最後の方はけっっこうあやういことも書いていて、たとえばp.201では若年者の犯罪は構成可能性があるから量刑軽くなることが多いわけだけど、性犯罪だと再犯可能性が高いから若年であることは軽減ファクターではなく、「むしろ加重ファクターであり、裁判所の判断に誤りがある可能性を示している」とかっていうんだけど、こういうの大丈夫なんだろうか。もうちょっと慎重な議論してほしい感じがある。

まあでも一番気になるのは、やっぱり何度もくりかえされる「操作・裁判は、性犯罪は「性欲」によって行われる、男性の生理に基づく不可避の犯罪であるという前提で進められている」(p.202、下線は江口)っていう主張かな。これほんとうにそう考えられているんだろうか。ほんとうに不可避なんだろうか。牧野先生が勝手にそう読みこんでいるという可能性はないだろうか。なんらかの意味で本当に不可避なんだったら罪を問うことさえ不可能に思える。また逆に、本当に不可避なんだったらそんなもんはどっかに閉じ込めておかなきゃならんってことでもある。刑事罰ではなく保安処分の対象ではないのか。

また牧野先生自身は性犯罪の背景に性欲の他にどういう動機を見つけたいのか、どういう筋書なら納得のいく「加害性の追求」になると考えているのか。たとえば性犯罪は性欲ではなく支配欲に基づくものであるとか、女性を家にとじこめておくための男性集団の共謀によるものだとか、そういうやつなんかなあ。

→続き「女性には男性の性欲がわかりにくいのだろう」

サイト構成の見直し

サイトの構成を見直して、ムージサンのyonosuke君にはやはり一個下の階層でやってもらうことにした。クローズドな授業用のサイトもこのサーバーに構築しようと思っていて、ディレクトリ削るとすぐに馬鹿な音楽話があるっていうのはちょっと具合悪いし。やっぱりサイトつくるときはよく考えないとだめね。なにごともトライアンドエラーでやる、っていうのがいつもの私の癖で、これは時々ひどいことになる。でもまあこういうのはどうせ読者なんかいないから好きなようにさせてもらう。

あと加茂直樹先生の自伝サイトも古いサーバーから引越さなきゃならないことに気づいて、まあこれは大学のサーバーに置いてもらってもいいんだけど。

 

寺田先生の自己責任論批判を読んだ

いまごろ(10年前の)寺田先生の「イラク人質事件をめぐる「自己責任論」と世界市民の責任」 http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/583/1/prime21_99-108.pdf を教えてもらって読んだ。まじめな哲学系の研究者はあんまり現実の問題にコメント出さないことが多いような気がするけど、これは当時の人質問題について倫理学研究者としてまじめに考えてまじめに書いてる立派な論説だと思う。今回の件でいろいろ考えてる人は読むべきだ。

主張や結論には文句がないけど、ただ1節から2節の論の運びにはちょっと疑問がある。

一つは、「自己責任論」って言われている意見がいったい誰のものかよくわからなくて、まともな人がそういうことを論じていたのかどうか。もちろん素人というかあんまりよく考えない人が「自己責任だから放っておけ」とか、ああした人々に批判的な人のなかには「ざまー」とか言ってた人もいるだろうけど、まともな議論はあったのかな。自分の好まない人々がひどい目にあっているときに、あんまり考えずに「自業自得だ」みたいに考える人々っていうのはどうしてもある程度はいるんじゃないかとは思う。準備不足の登山で遭難したりしているときにもそういう反応はあるわねえ。なくしたいものです。

もう一つは細かいことだけど、このころ(2000年代前半)よく見かけた「責任」(responsibilityやVerantwortung)という言葉の語源に遡って、それは「問いかけに応答すること」だというタイプの議論をしていることだわね。そりゃ語源的にはそうなんだろうけど、現在の我々がそういう意味で使っているかどうかは微妙なところ。「もともとはこういう意味だった」というのから「本当はこういう意味だ」って論じてしまうのは語源的誤謬の可能性がある。

語源に訴えたくなるのはわからないでもないけど、「責任がある」はH. L. A. ハート先生あたりにしたがってふつうに(1)「悪い結果の原因として道徳的な非難に値する」「悪い結果の賠償をする義務がある」、(2)「役職や地位や立場によってあることをする義務がある」ぐらいに分けて、「自己責任」って言われる場合は(1)の方だろう、ぐらいでよいのではないかと思う1)ハート先生はresponsibilityを(a)因果責任、(b)賠償責任、(c)役割責任、(d)責任能力に分けてるけど、日本語の場合因果責任と責任能力はあんまり関係ないと思う。

もちろんこの(1)のハート先生の賠償責任は「責任がある」の中心的な意味なので面倒で、単に「賠償すればよい」って意味ではないだろうと思う。なにか他人の物を壊した責任があるなら、お金払って弁償だけじゃなくてごめんなさいしたり改心したりすることが必要だし、あるいはそれを壊してしまった理由がやむをえないものなら免責されることもあるだろう。また、悪い結果のコストをその責任のある人が負担するべきだ、ということを意味することもあるだろうと思う。(道徳的な)非難というのも難しいんだけど、これは「お前は/あいつはいやな奴だ/だめな奴だ」って言われたらそれだけで堪えるし、最終的には社会的交際を断たれちゃったりする警告でもある。

んでまあ「自己責任」って言われているときに何が言われているのかといえば、やっぱり「その悪い結果のコストはその人が負うべきであり、他の人にそれを救済したり同情したりする義務や必要はない、っていうことだったんだろうねえ。

寺田先生の論文に戻って、もう一つコメントしておきたいのは、

「自己責任」 という観念自体はたいへん重要なものである。 それは、 誰も自分が行ったこと以外のことについて責任を問われないということであり、 責任を負いうるかぎりどのような自由な決定に基づいて行為してもよい、 という自由な社会の最も根本的な原則の一部である

について。これはJ. S. ミルの『自由論』的な主張で、私も大筋では同意するけど、ちょっとミスリーディングなところがある。もしこれがミル的なものであれば、「責任を負いうる限りで」は at one’s own riskとかat one’s own costとかに対応するはずなんだけど、それが「責任を負う」という言葉で表現されちゃうとちょっと誤解をまねきそうではある。このミルのown riskとかcostとかってのは、「自分自身(の利害)に関わり、他人の利害には関わらない限りで」って意味で使われてるはずなので、それははっきりさせておきたいところ。「俺が弁償するから花瓶壊す」みたいなのは他人の利害がからんでれば自由であるべきではない。

さて、一番言いたいことはこの先。寺田先生は人間の相互依存性と不完全な判断力の話に進んで、そう進むのはよくわかる。ただしその前に、この自由主義の原則「自分にのみ関係することがらについてはその人の判断にまかされるべきだ」っていうのが、(1)「他の人はその結果の不利益についてなにも援助する必要はない」を全然含意してない、(2)「自由であるべきだ」ということがまったくなんの干渉をも排除するということではない、ってことに注意を促してほしかったのよ。

あれがミル的な社会的自由の原則であるならば、それは結局はそういう制度が人々の全体としての幸福を促進する(もちろん個人の幸福を促進する蓋然性も高い)からであって、リスクをとった結果困ったことになった人を放っておいてしかるべきだということは含意していない。どういう経緯であれ、不幸になった人々は可能な限り救うべきだろう。もちろん、どんなリスキーなことをする人をも、他の人々はどんなコストを払っても助けるべきだとは言えないにしても、その時点でできることはするべきだということにミル先生ならばもちろん賛成するだろうと思う。

もう一つ、ミル先生が言っている自由主義の原則っていうのは基本的に負のサンクション、特に政府が法的な罰を与えて人々の行動を制約することを禁じるものであって、忠告や説得や懇願によって誰かの行動を変えようとすることは禁じられてはいない。むしろ推奨すらされている(『自由論』第1章)。また、単なる多数の人々の好悪によるものではない重大な帰結をもたらすことがらについては強制さえ許される(第1章、第3章)。

私自身はある人の行動が大きなリスクを伴うことをおこなって、結果的に誰かに危害や面倒をかけることになったとしたら、そういう行動をとったということについてある程度の非難がなされることはしょうがないと思う。また、我々があらゆるコストを払ってでも生命を救うべきだといったことは誰も本気では信じていないのも明らかだと思う2)よく出される例は、交通事故の防止。。あるリスクのある行動をとった人が結果的にひどい目に会う場合があることは避けられない。

でもそれと、なにも援助しないことは別。政府や人間の結びつきとしての社会はお互いの失敗を許し助けあうものだと思う。だから寺田先生の論説は全体として同意するんだけど、一番大事な、「自分のコストでやることが許されるべきだ」と「誰かがヘマしたときにそれを助ける必要はない」は結びつかないってことをはっきり指摘されるべきだと思う。ともあれ、10年前の寺田先生は立派で、私も見習いたいと思う。

 

 

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References   [ + ]

1. ハート先生はresponsibilityを(a)因果責任、(b)賠償責任、(c)役割責任、(d)責任能力に分けてるけど、日本語の場合因果責任と責任能力はあんまり関係ないと思う。
2. よく出される例は、交通事故の防止。