スティーブン・ピンカー「「尊厳」の馬鹿らしさ」の抄訳

最近、事情でまた道徳的地位の問題いろいろ考えてます。まあ昔からことだし、なんとかしないと。「(人間の)尊厳」まわりはちょっとどうかっていう議論が多くて、毎日ものすごく苦しんでます。

ピンカー先生が2008年の大統領生命倫理委員会の「尊厳」報告書を痛烈に批判した一文は国内でも有名なんだけど、翻訳ないみたいだから、ネットのみんなで訳したんですわ。ちなみにDropbox Papersっていうのは複数人で文書いじるにに快適でおもしろいのでみんなも使ってみてください。

ピンカー先生の原文はこれ。https://newrepublic.com/article/64674/the-stupidity-dignit

大統領委員会の報告書本文はこれ。  https://bioethicsarchive.georgetown.edu/pcbe/reports/human_dignity/

ちなみにもっと有名なThe Moral Imperative for Bioethicsすでに翻訳がある

全部訳出したけど、それおおっぴらにブログに貼るわけにもいかんので、先生が「尊厳」dignityの概念を分析している部分だけね。

そこまでは生命倫理の大統領委員会がレオン・カス先生という悪によって運営されていて、そこではカトリックが〜みたいな陰謀論みたいな話をしている。まあそれもおもしろいところがあるんだけど、私はそこまでコミットできないから省略。

あらかじめ注意しておくと、尊厳っていう語は日本だけじゃなく米国でもヨーロッパでも議論されたり批判されたりしていて、さらに英語のdignityっていう言葉と、ドイツ語あたりで のWürdeって言葉は印象がちがうかもしれない。下でのピンカー先生のdignity概念批判と分析みたいなのは、英語のdignityの語感にもとづいたもので、これは王様の「威厳」みたいな「偉い」感じに近い。ドイツ語のWürdeとかはカント先生とかの影響もあって、「偉い」っていう意味とさらに人間はみんなすばらしいものだ、みたいなのがはいっているようです。だからこのピンカー先生の分析を読んで「人間の尊厳」って、おしりの方が割れる緑色の妊婦服みたいなの着せられて、お尻からファイバー入れられたりしたって別に毀損されるもんじゃないっしょ、みたいな印象をもつかもしれないけど、それはそういう事情による。ピンカー先生の「尊厳」論はちょっと狭いので日本国内ではすぐには使えないと思う。

でも尊厳は人間の知覚現象だ、みたいなのはさすが認知科学者って感じでおもしろいですわね。

このピンカー先生の論説を含む英語圏での「尊厳」をめぐるあれやこれやは、石田安実先生という方の「「 尊厳 」 概念は役に立たないか」っていう論文がよく書けてるので参照してみてください。


ピンカー「尊厳の馬鹿らしさ」抄訳

(前略)

公平のためにいっておけば、『尊厳』報告書の各論考の大部分はカトリックの教義に直接訴えるものではないし、当たり前だが議論の妥当性はその擁護者の動機や背後関係からは判断できない。 では、議論の中身だけで判断したとき、著者たちは尊厳の概念をどれくらいうまくわかりやすくしているだろうか?

彼ら自身が認める通り、それほどうまくいってはいない。 ほとんどすべての論考は、尊厳の概念が取り扱いにくく、あいまいであることを認めている。 じっさい、ほとんどすべての箇所ではっきりした矛盾が生じているのだ。 奴隷制度や退廃は道徳的に間違っている、なぜならそれらは誰かの尊厳を奪うからだと書いてある。 しかしまた、奴隷化や退廃を含む、およそ他人にできることはなんであれ当人の尊厳を奪うことができないとも書いてある。 尊厳は卓越性、努力、そして良心を反映しており、ほんの一握りのひとだけが努力と性格によって尊厳を獲得すると書いてある。それと同時に、どのような怠け者でも、邪悪なひとでも、精神的な疾患を抱えていても、誰もが完全に尊厳を持っているとも書いてある。 何人かの著者は「ジェノサイド」のカードを切って、20世紀に起きた恐怖は、ひとが尊厳を神聖不可侵なものとして保持するのをやめたときに起きたものだと主張する。 しかし、600万人のユダヤ人をガスで殺したり、ロシアの反体制派を収容所に送ったりするのがなぜ悪いのかをいうのに、「尊厳」という概念はまったく必要ない。

そうしたわけで、寄稿者の最善の努力にもかかわらず、尊厳の概念は混乱したままだ。 私の思うに、その理由は尊厳にはそれを生命倫理の基礎として用いる可能性を損なう三つの特徴を備えているからだ。

第一に、尊厳は相対的である。 尊厳の帰結が時間、場所、そして見る人によって根本的に異なっていると気づくために別に科学的または道徳的な相対主義者である必要はない。 昔はストッキングがチラッと見えるのはなにかショッキングなことだと見なされていた。 蒸し暑いに日に森の中をハイキングするのに格式ばった襟とウールの服を着ているビクトリア朝時代のひとたちの写真や、皿を持ち上げたり、子供と遊ぶのは尊厳にもとることだと考えるている数多くの社会のバラモンや家長たちを私たちは滑稽に感じる。 ヴェブレン[『有閑階級の理論』]は自らの王座を暖炉のそばから動かすのは王の尊厳にもとることだと考えていたフランス王について書いている。ある夜、家臣が姿を見せなかったせいで、その王は焼け死んでしまった。 カスはアイスクリームのコーンを舐めることが尊厳を損なう恥ずべきことだと思っている。 しかし私はそれは問題はないと思っている。

第二に、尊厳は代替可能である。 委員会とバチカンは、尊厳を神聖な価値として扱い、決して妥協しない姿勢をとっている。 じっさいには、私たちはみな、自発的に、そして繰り返し、人生のなかの他の善いことのために尊厳を放棄している。 小さな車から降りるのはみっともない undignified。 セックスをするのも尊厳を失うことだ。 警備員があなたのズボンの股に腕を突っ込むことができるようにベルトを外して両腕を広げるポーズをとるのは尊厳を失うことだ。 最も大事なのは、現代医学は侮蔑の試練の場だということだ。 この記事の読者の大半は、骨盤または直腸の検査を受けたことがあり、多くのひとはその上、大腸内視鏡検査の「喜び」も知っている。 私たちは、尊厳は人生、健康、および安全とトレードオフの関係にある些細な価値であると、自らの足(と身体の他の部分)を使って〔病院に行くことで〕何度も賛成投票をしている。

第三に、尊厳は有害でありうる。 『尊厳』の報告書に関するコメントで、Jean Bethke Elshtainは修辞的に、「人間の尊厳を否定したり、制限することでなにか良いことがあったためしはあっただろうか」と尋ねている。 この答えははっきりと「イエス」だ。 高いところから軍隊を閲兵する、肩章と勲章をつけた独裁者はみな、尊厳を誇張的に表すことを通じて尊敬を集めようとしている。 政治的、宗教的抑圧は、しばしば国家、指導者、信条の尊厳を守るために合理化されるのだ。サルマン・ラシュディへのファトワー[死刑宣告]、デンマークの風刺漫画に対する暴動、受け持ちのクラスがテディベアにムハンマドと名付けたことを理由に厳しい批判と私刑を求める群衆にさらされたスーダンの英国人教師のことを思い出してみればいい。そう、毛沢東主義下の中国の統一された国民服やタリバンのブルカのように、全体主義はしばしば尊厳について指導者が抱いている考え方を、人々に対して課すのである。

自由な社会では、国家が市民に対して尊厳について一つの考え方を押し付けることを禁じている。 民主主義の政府は、風刺家が指導者、制度、社会的な慣習を物笑いの種にすることを許している。 そして、そうした政府は「「よい人生」についてのなんらかの見解」や「自由をうまく使うことの尊厳」(どちらも委員会の報告書からの引用)を定義しようとするどんな権限も破棄するのである。 自由の代償は、私たち自身の見方では尊厳が失われているかもしれないような他人の行動に寛容であることである。私はブリトニー・スピアーズと「アメリカン・アイドル」がどこかに消えたら嬉しいが、アイスクリーム警察に逮捕されることを心配しなくて済むのであれば我慢する。 このトレードオフは、アメリカのDNAに非常にたくさんあって、文明に対するアメリカの大きな貢献の一つである。「我が国、其は汝のもの、麗しき自由の土地」[“My Country, ’Tis of Thee” の歌いだし]というわけだ。


それでは尊厳は役立たずの概念なのだろうか? 九分通りはそうだ。〔しかし〕この言葉は、限定的ではあっても、我々が道徳的に考慮すべき事柄に関するある要求を与えるような意味をひとつだけもっている。

尊厳は人間の知覚の現象である。世界からのある種のシグナルは、知覚する人の心のなかで、ある特質の帰属のトリガーとなる。図面での集中線が奥行きの知覚のてがかりになり、また二つの耳のあいだでの音の大きさの違いが音源の位置についてのてがかりになるのとちょうど同じように、別の人間のある種の特徴は、重要性(worth)を帰属させることのトリガーになるのだ。こうした特徴に含まれるのは、落ち着き、清潔さ、成熟、魅力、身体のコントロールなどだ。逆に、尊厳の知覚は知覚する人のなかにある反応をひきおこす。パンを焼く匂いがそれを食べたいおという欲求のトリガーになるように、また赤ちゃんの顔を見ることがそれを守りたいという欲求をひきおこすように、尊厳のある見かけは、尊厳を身につけた人物に対する評価と尊敬の欲求のトリガーとなる。

ここからなぜ尊厳が道徳的に意義があるのか理解できる。ある人物に、他の人物の権利と利益に対する敬意をひきおこす現象を我々は無視するべきではない、ということだ。しかしここからまた、なぜ尊厳が相対的で、代替可能で、しばしば有害であるのかも理解できる。尊厳は上辺だけのものなのだ。それはステーキではなく、それを焼く音なのだ。本そのものではなくカバーなのだ。大事なのは究極的には人物に対する尊敬であり、それを典型的にひきおこすような知覚上のシグナルではない。実際のところ、知覚と現実のあいだのギャップが、我々を尊厳原則に対して脆弱にしている。我々はもとになってはずの真価(merit)を知らずに尊厳のサインに圧倒されることがある。たとえばインチキな独裁者の尊厳のサインに。また、尊厳のサインを剥ぎとられてしまったた人の真価を認めそこなうことがある。たとえば難民生活で物乞いせざるをえない人の場合だ。

我々は、正確には尊厳のどの側面に敬意を払うべきなのだろうか? 一つには、人は一般に尊厳あるものと見られたいと思うものだということがある。したがって尊厳は人の利益の一つであり、身体的統合性や個人所有権とならぶものであり、他の人々はそれに敬意を払う必要がある。我々が他人に爪先を踏まれたくない。他人にホイールキャップを盗まれたくない。また便器に座ているときにトイレのドアを開けられたくない。この正確な意味での尊厳の価値は、生命医学にたしかにひとつの適用すべき点がある。つまり、医療措置とあいいれない場合には患者の尊厳にもっと大きな注意を払うべきだ、という点である。報告書には、現代の患者がしばしば耐えることを強制されているような回避できるはずの恥ずかしめ(たとえばおしりから開くようになっている病院のひどいスモック)についての素敵な論説がある。ペレグリノによるのものとレベッカ・レッサーによるよるもののだ。誰もこのような意味での尊厳を価値あるものとみなすことに反対などしない。そしてそれがポイントなのである。尊厳の概念が正確に特定されれば、それは論争のもとになる道徳的な難問ではなく、冷淡さや事務的な怠惰さに対抗するための世俗的な思慮の問題ということになる。そして、これはけっきょくはそう扱って欲しいと人々が願うようにその人々を扱うということになるのだから、究極的には自律の原則をまた別の仕方で応用しているにすぎないことになる。

「尊厳」に、一定の注意深い敬意を払わねばならないもう一つの理由がある。尊厳が減じらてしまうと、それは知覚する人の心を冷やかにし、人を虐待することをに対する禁止の念を緩めてしまうかもしれない。ナチスドイツでのユダヤ人たちが黄色の腕章をつけさせられたり、文化大革命のときに反体制派がグロテスクな髪型と服装をさせられたように、人々が格下げされ辱められると、その傍観者たちはさげすまれた人々を軽蔑しやすくなる。同じように、難民や囚人や他の浮浪者たちなどが、不潔な状態で生活させられるとき、それは非人間化と虐待のスパイラルのはじまりになりうる。これは有名なスタンフォードの刑務所実験で証明されたことだ。この実験では、「囚人」にわりあてられたボランティアはスモックと足枷を着用させられ、名前ではなく番号で呼ばれることになった。「刑務官」にわりあてられたボランティアは、自発的に囚人たちを痛めつけはじめた。ただしここで注意しておきたいのは、これらのケースはすべて強制を含んでいるのだが、これらもまた自律と人々に対する敬意によって排除されるものだということだ。したがって、尊厳の侵害がはっきりそれとわかる危害につながるとき、究極的にはそれを非難する根拠を与えてくれるのは、自律と人々に対する敬意なのだ。

自発的に尊厳を手放すことが、傍観者の冷淡さと第三者への危害につながる──経済学者がネガティブな外部性と呼ぶもの──ということはありえるだろうか?理論的にはイエスだ。おそらく、もし人々が自分の遺体が公の面前で冒涜されることを許すならば、それは生きている人々の身体に対する暴力を推奨することにつながるかもしれない。ひょっとすると、小人投げ(dwarf-tossing)という娯楽は、小人症の人々に対する虐待を促進するかもしれない。ひょっとすると暴力的ポルノは女性に対する暴力を促進するかもしれない。しかし、そうした仮定の話が制限的な法律を正当化するには、経験的なサポートが必要である。人間の想像力のなかでは、なんでもがあらゆるものにつながうる。教会通いをさぼることは怠惰につながる、女性に車を運転させることは性的放蕩につながる、などと。自由な社会では、不快にされた側がなにもないところから仮想的な将来の危害をおもいつくようになったというだけでは、誰かを不快にするような行為を政府が法で禁止するような権力を認めることはできない。毛沢東もサヴォナローラコットン・マザーも、人々が望むことをするように許すことが社会の崩壊につながる理由を山ほどあげることができただろう。

(後略)



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