カント先生とおはなしを続けてみる

カント先生おはようございます。

婦人の徳は、美しい徳である。男性の徳は、高貴な徳たるべきである。女性は悪を避けるであろうが、その理由は、それが不正だからではなく、醜いからである。そして有徳な行為が、彼らにあっては、道徳的に美しい行為を意味する。当為もなく、しなければならぬということもなく、負い目もない。婦人は、一切の命令、一切の口やかましい強制に堪えられない。彼らが何かを為すのは、ただそれらが彼らに気に入っているからである。・・・私は、美しい性が原則をよくし得るとはほとんど信じない。私はそれによって、女性を侮辱することにならぬように望む。なぜなら、原則は男性にあっても極度に稀だからである。その代わりに摂理は、女性の胸中に親切で好意的な感覚、礼儀正しさに対する繊細な感情、好ましい魂を与えた。 (p.41)

ちょっと書き方が極端な気がしますが、言っていることは実は「女性は原理原則よりも感情やケアを重視する」で、差異派やケア派のフェミニストとあんまり変わらんような。ギリガンやノディングズを読んでいるのかと思いました。先生のこの論文は非常に有名なので(私は恥ずかしながら初読なのですが)、ギリガンもノディングズも(コールバーグでさえ)アイディアの源として読んでいるんでしょうなあ。

まあ書き方が(優秀な)男性と比べてこうだって形になってるので「劣等観」と呼ばれてもしょうがないのか。上のように読めるとすれば、ギリギリで許せそうな気もします。

続けてカント先生は、女性と男性に求められるさまざまな道徳的徳目が美とか崇高とかとどう関係しているのかをいろいろ観察。手法としては、ルソーよりヒュームの影響を感じる。おもしろかったのは次。

われわれの意図は、感覚について判断することであるから、女性の姿と容貌とが男性に与える印象の差異を、できれば理解することは不愉快ではないだろう。この魅惑全体は、結局、性衝動に上に広がっている。自然はその偉大な意図を追求する、そして、それに仲間入りするすべての優雅さは、それらがどんなに遠くそれらから離れているように見えようと、縁飾にすぎず、それらの魅力を結局はまさに同一の源泉から借りて来ているのである。

 

ふうむ、男性が女性に感じる美はすべて性欲にもとづいているというわけですか。 カミーユ・パーリア?が喜びそうな文章ですね*1。でもこれだと女性が女性に対して感じる美とかどうなるのかな?ラファエル前派の女性画を見て感じる美の内容が男性と女性で違うとかそういうことってあるのかな。

上品な書き方をしていますが、この「女性の姿と容貌とが男性に与える印象の差異」は美人かそうでないか、ナイスバディーかそうでないか、表情がどうか、とかいうことですよね。女の品定めの基準を議論してらっしゃいますね。そういうのが「カントはセクシストだ」と言われちゃう理由なわけですねえ。まあ実際そうだからしょうがないかもしれませんね。でも劣等観・劣等視ってのとはちょっと違うような。

というのはカント先生は品定めの基準を考察しながらも、感情とか道徳性とかが女性の美に及ぼす影響について延々と議論していらっしゃるからなわけで、たんに「ナオンはオメンとパイオツがよくねーとな」「いやオレはツーケの方が重要だと思うね」「アシだよアシ」というわけではない。

 

断然かわいいというのではないから、はじめて見たときは特別な効果を及ぼさないような姿が、よりよく識り合って気に入りはじめるや否や、普通には、遥かに心をひきつけ、かつ耐えず美しくなりまさるように見える、ということがある。これに反して、一度に現われるかわいい外観は、後にだんだん冷淡に見られるようになる。これはどうしてかと言うと、恐らく道徳的魅力は、それが眼に見えるようになる場合により多く心を奪うものであり・・・それとは反対に、全く隠すところのないすべての好ましさは、そのそもの初めにその全効果を及ぼし尽した後、それ以後には、惚れこんだ思い過ぎを冷まし、それを次第に無関心にまでもって行く以上に、何もなし得ないのである。(p. 49)

「美人は三日で飽きる」とか、「女は気立て」とかそういうやつですか。な
んかこういうモラリストとしてのカント先生は、わかりやすいけど通俗っちゃー
通俗、陳腐っちゃー陳腐かもしれませんね。カント先生がこういうこと言った
からその後陳腐になった、ってわけではないですよね。でもまあ江戸時代(宝
暦十四年)の文章だからしょうがないんでしょうか。吉宗死んだあとか。みん
な『女大学』とか読まされてた時代だろうし。むしろこうして女の特性を褒め
たたえて社交しようっていう時代なわけですなあ。マリー・アントワネットが
10歳かそこら。ヨーロッパでは「女性的なもの」がその特性によってむしろ褒
め称えられた時代でもあるんだろう。とかいう理解でよろしいですか、先生?

まあ現代日本の大学教員のなかにも、「女性を称賛・賛美」しているつもりで女性から非難されちゃったり嫌われちゃったり軽蔑されちゃったりしている人はけっこういるようですからね。でもそういう奴もどういうわけか一部からはかえってモテたりするんだ。許さん。女好きは女嫌いで、女嫌いは女好きだというかなんというか。むずかしいものです。

慎しやかにまた親密に社交に加わり、快活で理性的な仕方で歓談し、自分は参加しない若い人たちの楽しみを上品に引き立て、またすべてに心を配りながら、自分の周りの歓喜に満足と適意をあらわす老婦人は、相変わらず同年輩の男子よりも上品な人であり、また恐らく、別の意味においてではあるが、乙女よりもっと愛すべきであろう。ある老哲学者が、彼の恋情の対象について、優美が彼女の皺の中に宿り、そして私が彼女の萎びた口に接吻するとき、私の心は私の唇の上に浮かんでいるように思える、と言ったとき、彼がかこつけたプラトニック・ラヴは、たしかにいくらか神秘的すぎるであろう。しかしそのような自負は捨てられなくてはならない。

後の方はちょっと理解しにくいのですが*2、まあ当時の(貴族・有産階級の)女性の理想像がわかりますね。『高慢と偏見』のベネット夫人も、彼女の人間的な限界のなかで、とりあえずそういう理想の夫人を目指してはいるわけですね。女性蔑視や劣等視かなあ。こういう理想の問題点を多くの人が理解できるようになるには、よくしらないけどウルストンクラフト先生やよくしらないけどメアリ・シェリー先生やよくしらないけどジェーン・オースティン先生あたりの登場が必要になるわけで、それはカント先生の活躍よりあとの話になるわけですね。私の直観では、ヨーロッパ人と現代人が本当につながるのは19世紀になってからなんですよね。19世紀人はわれわれと見分けがつかないのですが、18世紀の人はずいぶん遠い。

まあカント先生も交霊術で呼びだされてお疲れでしょうから、この件これでおしまい。カント先生ありがとうございました。

女性を戯画化しているといえばしてるような気もする。いまとなっては紋切り型。通俗。 陳腐*3。でも第4章の「国民的性格について」では各国人がそれぞれ同じようにステロタイプとして処理され戯画化されているからして、まあこの論文はそういう論文なのだということも理解しておいてほしいとか、『啓蒙とは何か』も読めとかいうようなことをカント先生が霊界への帰り際に述べていったような気がするけどそれは妄想。まあ哲学研究女子も「いやなこと書いてるから読まない」とか言わずに(言わないと思うけど)、一回読んでみるとおもしろいんじゃないだろうか。おそらくぜんぜんいやじゃないだろう。ていうかみんなふつうすでに読んでるのか。勉強不足でした。カント先生ごめんなさい。

*1:そういやパーリアは哲学ってのはドイツの理屈っぽいマッチョなものが一番、はあはあ、とかってこと書いてたな。女子にいる「メガネフェチ」とかもそういう傾向があるような。もし仮に女子が哲学や幾何学を好まなくても、哲学青年や哲学者くずれ中年や老成哲人やハードサイエンティストや剛腕外科医を好む女子はけっこういそうだ。

*2:どういうことなんかね。その老哲学者が言いたいのは、裏を返すと、「若い女に接吻するときは心は唇の上じゃなくてヘソの下に下っているような気がするけどね」とかそういうことかな。下品?それに対してカント先生は、「見栄はんのやめろよ、皺があってもチューしてるとき心はヘソ下だろうが。」ってつっこんでる?やっぱり下品?

*3:というか、あまりに陳腐すぎるのが奇妙に思えるほど陳腐だ。ここまで読んで、なにも新しい発見がない。おかしすぎる。朝までは影響力がある文章だから、それによって陳腐になってしまったのかと思っていたのだが、よく考えれば、ふつう、こんな文章を読めば、カント先生の女性に対する性欲のありかたについてなんかの観念を持つことができるはずだ。どういうタイプが好きだとか、こういう経験をしたとか、そういう破片のようなものが。どうもキルケゴールとかと同じ陳腐さを感じる。表面的で奥行きがない。つまり、カントは現実の女性を見ず、通念や社交の対象としての女性の伝聞を広めているだけに感じる。これは「哲学」の伝統の問題じゃなくてカントの問題だろう。いや、問題じゃないかもしれないけど。


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