牟田先生の「セックスはすでにつねにジェンダーである—「男女平等」の罠」

http://www.lovepiececlub.com/feminism/muta/2014/06/26/entry_005203.html

また毎度毎度の牟田先生でもうしわけない。堀あきこ先生が「わかりやすい」ってほめてたので「わかりやすいなら読もう」ってな感じで(昔読んだのを)読みなおしたけどわからない。私あたまわるすぎ。

一番最初はどうでもいいので飛ばす。

 シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、女性解放を論じた現代の古典として名高い『第二の性』(1949)で「人は女に生まれない、女になるのだ」と言明し、いかにして女が「作られて」いくかを論じました。女性はリーダーシップに欠ける、権力志向が無い、だから政治家には向かない・管理職には向かない、などともっともらしく言われたりしますが、それは、幼い時から、女の子は優しく素直にと、従順でつねに他者を自分より優先するようにしつけられ内面化していくから。このことが、女性が政治家になりにくい要因の一つを作っているのは明らかでしょう。

この「内面化」仮説の真偽や、「女らしい」から政治家になりにくいのかどうかは、それほど明らかではないと思うけど、今回はいいや。

 1960年代後半から70年代にかけて花開いた女性解放運動(第二波フェミニズム運動)の女性たちは、ボーヴォワールのこの考えを、「ジェンダー」という概念で表現しました。生まれつきの性別(セックス)が女・男の「らしさ」を決めるのでなく、生れ落ちてからの社会環境と文化の中で人は、らしさを刷り込まれていく。「母性本能」ということばに典型的なように、妊娠や出産をする身体をもっていれば誰もが母になりたがり子育てが自然にできるかのような思い込みが、いかに女性を縛ってきたことか。そのウソをあばいたのがジェンダーの語でした。

「女性を縛ってきたことか」→「女性と男性を」がいいと思うけど、まあいいや。

「ジェンダー」の定義してないけど「男/女らしさ」でいいのかな?それとも「社会的性差」「格差」かな。

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 この意味でのジェンダーは、今では日本でも一般に知られるようになりました。ジェンダーにとらわれない生き方ができる社会を作り上げていくことは、現在進行形の重要な課題であるのは言うまでもありません。
しかし、1990年代以降のポストモダンフェミニズム理論は、ジェンダーにはもっと深い意味があると大胆に発想しました。すなわち、社会的性差は作られたものであるというのはその通りだとしても、その考え方の背後には、男女の生物学的性差は「自然」なものとして存在しているという暗黙の前提があるのではないか。そこで自明とされている「自然」な性差、「セックス」とはいったい何なのか、という問いを投げかけたのです。

問いとしてはいいと思うんだけど、ここで「自然」っていうので何を言ってるかも分析してほしい。「生得的なもの」だろうか。それとも「本性」だろうか。上で「子育てが自然にできる」っていうのがあって、この「自然」はどういう意味かな。「自動的に」「教えられずに」「訓練なしに」「意識的に考えないで」とかそういうのだろうか。けっこうむずかしいね。でもこれもまあいい。

ジュディス・バトラーは「セックスは、つねにすでにジェンダーである」と言います(バトラー、1999、29頁)。肉体的・所与のものと見える性差すら、時代によってさまざまな「科学」的知識の名の下に、二分法的に男/女の記号を付されてきたものである、セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーであると。

ここで、っていうかここは序文みたいなところなのでうしろの方で「科学がどうのこうの」についてバトラー様が論拠にしているのはファウストスターリング先生の研究なんだけど、あれもずいぶん問題のある研究なのよね。

 これを聞くと、おそらく多くの人がそれはおかしい、と思うでしょう。女と男では体つきが明らかに違う、おっぱいや膣は女性にしかないし、ペニスがあるのは男性。ホルモン分泌も、DNAも異なる。それは、どんな文化・時代でも変わりがないはず、それなのに、セックスがジェンダーだなんて非合理もいいところだ、と。

まあヒトは性的二型がかなりはっきりしてる哺乳類だしねえ。DNA異なるというか、Y染色体以外はDNAは異ならない、っていうのもなんか不正確で、染色体が1本ちがう、ぐらい。

 でも、バトラーは、そういった身体的な差異が無い、と言っているのではないのです。人には、身体的差異はいろいろある。肌や眼の色、人種、性的指向、老若の違い、もって生まれた気質や性格、体格もさまざまです。それなのに私たちは、男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう。そうした認識のあり方が、セックスすらジェンダーであるということの意味なのです。

ここがわからん。バトラー様のあの箇所からこの解釈が本当に出てくるのかどうか。

「男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」はわかるような気はするんだけど、具体例を示してほしい。具体例がないと私わからんのですよ。たいていの学生様もわからんと思う。

ここでたとえば、「車の免許をとるときに生物学的な男女は関係ないはずなのに、公安委員会は男女で違うテストをする」とかそういうのがあるだろうか。これはありそうにない。でも、自働車教習所の教官は男女の違いを意識するかもしれんね。これは真面目な人は男女での統計的な運転の習熟の早さ遅さとか、無謀運転する傾向とか、どういうふうに教えるとわかりやすいかとか、そういうのを考えるかもしれんね。そういうことなの?

ずっと昔にも書いたけど、私は繁華街で向こうから人が歩いてくるときに男女はけっこう意識しますね。男だと危いやつの可能性がある。危険だ。もちろん危険なやつもいれば危険じゃないやつもいる。そういう統計的な危険性の配慮とかのときに、「そいつが男か女か」をつかうのは、正当化できるときもあれば、できないときもあるだろうと思う。(たとえば会社が、女性はごく統計的にではあれ、早期退社しやすいというデータをもっていても、それを就活で使うことは正当化されにくいと思う。)

まあ具体例がないとなんとでも言えるわけですわ。この具体例のなさ、なにがそれであり、なにがそれでないのかを曖昧にしたままにするっていうのがポストモダンとかのいちばん悪いところだと思う。例出してください例。例が出せない話はよくわかってないんです。学部学生様だって3回生ぐらいになると必ず適切な例だしてくれますよ。

また、「人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」っていう我々の傾向を説明するのに、なぜ「セックスはジェンダーだ」みたいなことを言わねばならないのかも私にはわからない。上で牟田先生はセックスもジェンダーもちゃんと定義してないのよね。だからなんとでも言えちゃう。もし「セックスは生物学的な性差(チンチンとか)」「ジェンダーは文化的・環境的に思いこまれてる「らしさ」を指すって定義してれば、この文章のおかしさは明白なのに、そうはしないわけですわ。こういう文章は少なくとも学生様には読ませたくない。

 実は、このように男/女を絶対的な区分として考える考え方は、近代以降もたらされたものです。なぜかといえば、近代以降、「人はみな平等」となったから。身分差が絶対のものだった前近代社会では、人の違いは、まず、身分。身分内での男女の差はそのあとから。身分が低い者、低階層の者は男でも教育機会も自由もないが、身分が高ければ、女性は教育も財産も持てる。それが、近代以降、平等の概念が登場したからこそ、女/男の区分が強調されるようになったのです。帝国主義・植民地主義の時代には、「人種」が人を分ける「自然」なカテゴリーであるとする思考が、黒人を人間以下の扱いをする奴隷制を正当化したように、男女を異なるものとしてまず発想する思考は、近代以降の女性差別を正当化してきたのです。

「人を認識するときにまずはわりと男女を意識することがありますね」って話が、「男/女を絶対的な区分として考える」にすべっていく。この「絶対的な区分と考える」の例もない。それにあてはまる例出してください、例。そして可能ならそうでない例も上げてもらえるともっとよい。

どんな「絶対的な区分」を考えてるんだろう? 男は戦争に行けて、女は家にのこってる、とか? もしこういう例をあげれば、こんな考えかたが「近代以降にもたらされた」なんて馬鹿げた話をしようとする人はいませんわね。そもそも近代っていつから近代かわからんし。ヨーロッパに限っても、16世紀なのか19世紀なのか、なにも具体性がない。学者がそれでいいんですか。

近代がいつかわからんけど、以前にだって「女性は〜できない」みたいなのたくさんあったんちゃうんかな。お寺に入れないとか。バトラー様と牟田先生は、なんか根拠もってるのだろうか。出せますか? 「男女の違いが(身分などの他の違いに比べて)相対的に重視され強調されるようになったのは近代以降である」だともうすこしもっともらしくなるかもしれんけど、それさえ立証するのはかなり難しいように思えるけど、ジェンダー社会学っていうのはそれでいいんでしょうか。歴史学者からの怒られが発生するのではないか。

たとえば、最近読んだ『聖書、コーラン、仏典:原典から宗教の本質をさぐる』ておもしろい本では、コーランには生まれた子が女児だったら殺してしまったりする習俗があることが記録されていて、コーランはそれを禁じているっていう記述がありました。こういう話を前にして、社会学者たちはどういう意味で「近代以降」に絶対的区分になったとかってことが言えるんだろう?

もう一回「自然」が出てきたけど、ここでの自然もわからんねえ。とくに「」をつけて独自の用法で使ってるって明示してるんだから、その「自然」ってなにかを説明する義務が文章を書く側にあると思う。

 このように考えると、「男女平等」という概念にも、違う意味がみえてきます。フェミニズムは、発祥以来、男女間の格差を解消し「男女平等」を実現することをめざしてたたかってきたわけですが、「男」と「女」の平等をめざす、というのは、そもそも、「男」「女」という別々のカテゴリーが存在するという前提に立ってしまっているのではないか。そのこと自体が、人間をまず性の区分で認識するという、近代以降つくられ女性差別を正当化してきた考え方そのものなのに。江原由美子が、「『男』『女』という『ジェンダー化された主体』が最初にあって、その両者の間で支配-被支配の関係がうまれるのでなく、『男』『女』としてジェンダー化されること自体が、権力を内包している」と論じている通り(『ジェンダー秩序』勁草書房 2001、25頁)、「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです。そもそも、「男」「女」は対称でもなんでもないし、「女」と、ひとくくりでくくれるような「女」はどこにも存在しないというのに。

「「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです」はわかりにくい。もちろん、グループを抑圧するためには、そのグループがどういうものかを理解しておく必要がある。そういう意味で、男女に分けることは女性を抑圧するための基本的条件。

でも、たとえば哺乳類を人間と人間以外の哺乳類に分ける、っていうことそれ自体は問題はない。問題なのは、人間と人間以外の哺乳類の間に大きな道徳的地位の差がある、と判断することにある。

政治的参加や、幸福の配慮の問題を考えるときに、男女の違いをもちだして、女性(あるいは男性)は選挙権をもつ必要がないとか、それぞれの幸福の価値に違いがある、と考えるのは不正なのはまちがいない。でもそれは人間には生物学的な男と女という典型的な性的二形がある、という事実についての知識そのものがまちがってるわけではない。

もちろん、我々の心理的な傾向として、なにかをグループに分けたら道徳的地位にも差があると考えやすい、っていうのはあるかもしれないけど、グループに分けること自体は中立であるように思う。ここはむずかしいな。

こうしてみると、あたかも、男女を対等にするというフェミニズムの原点自体が、間違っていたということになりはしないか、それではアンチフェミニストの思うつぼなのでは、と心配にもなるかもしれません。
でもだいじょうぶ、そうではないのです。

フェミニストたちは(自分がフェミニストだとは考えない女性も)、現実に存在するさまざまな女性差別に怒り抗議をするとき、いつも、「では男女の性差がなくなればいいのか」「男女がどのような扱いを受ければ平等なのか」と問い返され、答えられるはずのない「差異か平等か」の二者択一を迫られてきました。そして、女性たちの中での対立をも生んできました。まさにこれこそ、「罠」だったのではないでしょうか。この罠を見抜き、「男」「女」のジェンダーカテゴリーをひらいていくこと(脱構築)で、私たちは新たな未来を構想できる—これがポストモダンフェミニストの提言なのです。

ここで「性差」が出てくるけど、この性差はなんじゃいね。「らしさ」のこと? 上でいろいろ述べてきたことがここにどう効いてるのかわたしにはさっぱりわからんです。
「ジェンダーカテゴリーを開く」も意味わからんし、それが「セックスはジェンダー」とどう関係しているかもわからん。「ジェンダーはいろいろあります」でいいんちゃうのかな。なにを言ってるのだ。

女たちはさまざま。「女」とひとくくりされるわけにはいかない。しかし他方、現実に私たちは、「女」としてくくられて明白にも暗黙にもいろんな不利益を受けている。だから私たちは、女性差別に反対しながらも、めざすべきなのは、すべての女たち、さまざまな女たちの自由と尊厳、そして権利。それは、決して画一的なものではないし、ましてや「男」と一緒でいいなんて、そんな薄っぺらなものじゃない!

わからん。ただのアジテーション? 難しいことをいって混乱させて同意させる攻撃? 私こういうの許せないです。

「すべての男女の自由と尊厳」じゃないのかなあ。なんで「女」なの?脱構築ってどこいったんですか? まあ人がなんと言おうがみんな好きに生きたらいいと思う。そのためになんか難しいポストモダン理論は必要ない。そういうのが必要なのは特殊な人だけだとおもいますね。

上の「差異と平等」ってのは1980年代のラディカルフェミニストたち(特にマッキノン)を悩ませた問題です。男女は同じっていったら女性特有の問題(妊娠就労その他)が見えなくなるし、男女は違うって主張しちゃうと「んじゃ違ってていいじゃん」になっちゃう、という問題。マッキノンの答は、同一か差異かではない、そうではなく、男性が女性を支配していることが問題なのだ!っていさましいやつですわ。上の牟田先生の文章はバトラー様というよりはそうしたマッキノン先生の議論を連想させるけど、バトラー様にもあるのかな。

ものすごく好意的に読むと、マッキノン先生の立場の一解釈では、「女」と呼ばれるのは、必ずしも生物学的な女性ではなく、まさに「支配されている」「従属させられている」人間が「女」なのですわ。牟田先生はどうかわからないけど、このマッキノン解釈はわりと根拠があるかもしれないけど、いまは面倒だからまたあとで。それにこれはマッキノン先生の立場であってバトラー様ではない。でももしこういうことを主張したいのであれば、それはそれで明示してほしいですね。

この「ジェンダー化され従属させられている者が女である」っていう解釈だと、上の牟田先生の「女に課されている不利益に抵抗しよう」「女性差別をなくせ」っていうのが当然のように意味をもってくるんだけど、これってふつうはこうは読めないですよね。

 こんなふうに現代のフェミニズム理論は、ジェンダーをめぐる新たな地平に私たちを招待しています。なんだか刺激的じゃないですか?

わからんです。刺激的っちゃー刺激的ですが、わからなくてイライラして刺激的、ぐらい。堀あきこ先生はよくわかるわけなのだろうか。


あ、バトラー様の原文検討しないとならんかったか。またあとで。

これ読める人はすくないわよねえ。

問題の箇所の直前、culturallyが「社会的」って訳されてるね。 文化的のほうがいいだろう。バトラー様の翻訳は私は質が低いと思う。あちこちで誤訳らしきものが見つかるけど、それ指摘している人々は見たことないですね。(私がちゃんと見たのはExcitable Speechの前半だけだけど、あれはひどい)

「セックスの不変性に疑問を投げかけるとすれば、おそらく「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである」とかわからんけど、このif は
本当は「セックス(生物学的性差)っていうのは歴史的に不変であるってことがさまざまな研究によってくつがえされるってことになるんだったら、このセックスという人間の考えや言説によってつくりあげられた構築物は、「ジェンダー」ってのと同じくらい文化的に構築されたものってことになる」ぐらいだろうと思う。まあ「セックス」も「ジェンダー」も、どちらも我々のあたまのなかにあるっていう意味では同じです、ってことね。この意味では、他にも「地球」も「宇宙」も「ペンギン」もぜんぶ構築物なわけですわ。

ファウストスターリング先生とかの研究が正しければ、なにが男女の生物学的性差であると考えられてきたかということ自体が時代によって変化しているので、我々の「セックス(性差)」という概念は文化的構築物ですってことになります、その点では「ジェンダー」と変わりません、ぐらいね。そりゃわれわれの頭のなかにある概念とか考え方とか言葉の内容とかは時代によって変わるので、そのいみでは「セックス」も文化的な構築物だわいな。あたりまえ。チンチンがついたりなくなったりするわけではない。そしてチンチンや生殖ぐらい基本的な部分についての考え方がどれくらい変わったかな? これも例がないからどのていどまで「生物学的性差」にしているかわからんよね。


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