シュラミス・ファイアストーン先生がお怒りのようです

ラッセル先生の革命的な著作以降、まあ避妊手段の開発とか映画の普及とか車の普及とか禁酒法の廃止とかロックとかいろいろあって、セックス革命は完成する。まあとにかくばんばんセックスセックス。

ビートルズのPlease Please Meの歌詞は知ってますね? 君はトライさえしようとしないじゃないか。君がやらせてくれないから僕の心には雨が降ってる。僕をよろこばせてくれよ。プリーズプリーズ。

 

 

そのなかで出てきたのが第二派フェミニズム、特に「ラジカル」=急進的、根本的フェミニズムね。これは、第一波が女性の社会参加(参政権や労働市場への参加、財産権etc)を求めるものだったのに対して、男女の関係、恋愛やセックスとかっていう人間生活の私的な領域と思われてたところまで批判の目を向けて、社会を根本から考えなおそうっていう思想の流れだと私は理解している。

FIRESTONE-obit-popup私は特に1970年に出版された 1)同じ年にケイト・ミレット先生の『性の政治学』も出ていてこれも重要な著作とされてるんだけど、私はあんまり評価してない。 シュラミス・ファイアストーン先生の『性の弁証法』がすごいおもしろいと思ってんのよね。ファイアストーン先生25才。早熟すぎる。

「ラジフカルフェミニズムの本が恋愛の問題を扱わないならばそれは政治的に落第である。なぜなら、恋愛は、おそらく出産よりももっと女性を抑圧する中心点となっているからである。……私たちは恋愛を捨ててしまいたいのだろうか?」p.157

フェミニストとして、この視点っていうのは、まあ正直でいいと思うんよね。差別や男女格差とかいろんな問題があるけど、それに深くかかわっている恋愛の問題は避けられない、みたいな。まあネット上のアンチフェミな人々が延々してきているのはこれだもんね。アンチの人は特に女性の上昇婚指向や性的なより好みを問題にしているわけだけど。いわゆる「ただしイケメンに限る」問題。

ファイアストーン先生はラジフェミなので、パーソナルイズポリティカル。恋愛ってパーソナルなもんだしプライベートなものだとされてたけど、そりゃポリティカルでっせ、と。まあこの「ポリティカル」の意味私よくわかってないところがあるんだけど。

恋愛は、十分に体験され、その体験もよく知られているにもかかわらず、いまだかつて理解(understand)されたことがない。……恋愛がなぜ分析されないのかについては理由がある。女と恋愛は、社会を支えている土台なのである。この二つを吟味してみれば、文化の構造そのものをおびやかすことになるからだ。

ファイアストーン先生の結論は「現在の(男性的)文化は、寄生的であって、女性の感情的な強さを餌にしているのだ」ってな感じになる。愛は所有欲や独占欲を含む利己的なものではあるけど、他人に自分を開き他者に屈することでもあり、他者と合一し自我を交換するすばらしいものである、みたいな感じ。それ自体はとてもグッドなもの。恋愛における相手の理想化(スタンダールの「結晶作用」)みたいなのもそんな悪いもんでもない。悪いのは、「愛の政治的、言い換えれば不平等な力関係である」(p.165)。現代社会では、恋愛っていうのは女性にとってのホロコーストになってて、そこで女性は犠牲にされ搾取されちゃってる、みたいな感じ。言いたいのは、女性がたとえば一流の芸術作品作ることができないとかってのは男のために家事したり子供育てたりしているからで、それって「愛」とかの名のもとに搾取されてんのよね、自発的奴隷だわ、ってな感じ。

まあラジフェミらしいわね。っていうか一番ラジフェミらしい。ドゥオーキン先生なんかおそらく彼女自身が直接に性暴力の被害者になっちゃって、男性憎悪みたいなのにまみれているのに対して、ファイアストーン先生はいちおう「恋愛はいい!」みたいなところがある。まあルックス的にもファイアストーン先生はけっこうモテたんではないかという気がする。ていうか少なくともモテを意識したことはあるだろう。

精神分析のテオドール・ライク先生が患者の恋愛に関する悩みとかをつづってるのがあるらしく、それ参照してるんよね。
女性はいろいろ男性と自分の関係のことに悩んでいる。

「男は、女が男を愛するようには、女を愛することができない」「長い間セックスなしで済ませることができるが、愛情なしではやっていけない」「私は、体以外にこの男に与えるものをもたないのかしら?」
「私は服を脱ぎ、ブラジャーをはずして彼のベッドの上に体をのばしてまった。一瞬、私は、自分が祭壇の上のいけにえの動物のような気がした。」

まあラッセル先生とかの影響で、若者はばんばんセックスするようになって、そこらへんで問題がいろいろ出てきているわけです。

「私には、男の気持ちがわからない。彼には私がいる。だのに、なぜほかの女を必要とするの? ほかの女には、私にはないものがあるの?」

これはラッセル先生の奥さんかもしれない。

「私は、何人かに、男も泣きながら寝ることがあるのかたずねたことがある。私は男はそんなことしないと思う。」

ラッセル先生、苦しめてますよ。まあ女泣かしている男はけっこういるようだ。んで男性はどうかっていうとこう。

「女性の外面的な見掛けだけが重要だなんてことはないよ。下着も大事だ。」「女の子とやるのは難しくない。難しいのは縁を切ることだ」「その子は私に、彼女の心(mind)のことを気にしているかと聞いてきた。うっかり、ケツ(behind)の方を気にしていると答えそうになったね」

これは「キモチを大事にしているか/オチチの方が大事だ」ぐらいに訳していいかな。まあとにかくアメリカ人いやですねえ。

「たぶん女を騙して、女を愛しているふりをするのは必要なことなんだろう。しかしなんで自分まで騙さなきゃらんのだ?」「うちの嫁は、話すのをずっと聞いてるだけでは満足しない。何を話しているのか内容まで聞けというんだ。」

それにしてもファイアストーン先生なんでこんなのばっかり拾ってくるんすかね。ライク先生の原文でこういうの不平等で男優位なのばっかり掲載されているのかどうかは不明。まあ60年代とか男性は経済的に優位だったから、ほんとにどんなことでもやれたしできたんすかね。でも、男女関係・夫婦関係の悩みっていうと、こういう感じになりますか。すでに関係ができてるなかでの悩みだから、「モテない」男女の悩みは入ってこない。

しかしまあ私自身は、女性にはこういうモテ男性しか目に入らないんじゃないか、それは60年代も2010年代もかわらんのではないか、みたいな印象をもってますね。女性の悩みのタネになる男はみんなジャーク。でもジャークはモテる。むしろジャークだからもてる。当時のアメリカも非モテも、ナードも、自信ない男もいたろうに。ファイアストーン先生、そういう人あなたの目に入ってましたか?

「シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「愛という言葉は、男と女では、その意味するところが違う。このことが、男と女を隔てる深刻な誤解の一因となっている」と言っている」p.168

まあこれがファイアストーン先生の中心的なテーゼになる。この本自体ボーヴォワール先生に捧げられてんのよね。このボーヴォワール先生の指摘はほんとに大事ですね。実際、ラッセル先生やサルトル先生が語るloveなりamourなりって、女性から見たらただの性欲とセックス、あるいはせいぜいそれに女性からの親密サービスがくっついた程度のものじゃないんすかね。

男と女のあいだの愛に関する伝統的な違いのいくつかを説明した。この違いが、一般に認められている「ダブルスタンダード」であり、しばしば客間の話題になる。つまり、女は一夫一婦的で、独占的で、執着的(clinging)で、セックスそのものよりも、(非常に密な)「関係」に関心がある。そして性欲と愛情を混同している。他方、男は、やる(screw)以外には関心がない。そうでなければこっけいなほど女をロマンチックに祭り上げる。男はひとたび女を手にいれると、今度は、悪名高い女たらしとなり、けっして満足しない。男はセックスを感情ととりちがえている。(pp.168-169)

screwには「Wham, bam, thank you Ma’am!」ってのがついていて、「ドカン、パンパン、どもありがとう」、ぐらいか。訳書では「感情のないす早い性交」とかって訳してる。「出会ってやってんじゃバイバイ」ぐらいか。まあファイアストーン先生自身が60年代にどのていどwhamしてbamしてたのかはわからない。

ラッセル先生なんかは、親密になってセックスして、気が合わなくなったら別れちゃえばいい、とか言うわけだけど、そんな簡単に別れてくれないっしょ。

「セックスを感情ととりちがえてる」、はmistake sex for emotion。これは、女性が求めているのはやさしい感情・コミットメントなのに、女がなんか言ってきたらセックスしてやりゃいい、みたいに考えてるってことだと思う。まあモテる男は釣った魚に餌はやらない。まあというわけで、ファイアストーン先生の結論はこうだ。

「(1) 男は愛することができない。(男性ホルモン? 女性は伝統的に、相手が女性だったら許せないような感情的個人主義を男性に期待し受けいれている)。(2) 女が執着行動は、客観的社会状況によって余儀なくされているからである。(3) こうした状況は(セックス革命以前の)過去とたいして変わっていない。

(1)の「感情的個人主義」は、女どうしだったら「冷たい」とか「自分勝手」とかって言って嫌うような性格特性を、男性には期待するってことね。ジェームズボンドとか怖いわよね。でもすてきー。

まあこの「男は恋愛できない」っていうのを、フロイド的なエディプスコンプレックスや幼児期のしつけみたいなんで説明しちゃう。ここらへん、生物学というよりは文化的な問題と見るのがまあこっからしばらくのフェミニズムね。

「あらゆる正常な男性に残されている問題は、見返りとして彼女が愛しているのと同じように彼も彼女を愛してほしいなどという要求を出さないで彼を愛してくれる人をどうやって得るか、ということである。」p.171

まあ男は(いい女と)やりたいだけだ、というかそういう理解ね。それもなるべく紐付きじゃないのがいい。最高は毎日カジュアルセックスっすかね。ナンパ指南本とかまさにそれだしね。

「女性が「男性に執着する」のは、客観的な社会状況によって必要とされるのである。おたがいの愛情に関して、男性がヒステリーをおこすことに対する女性の反応は、男性から求められるのと同じ愛情を男性に求めるために、巧妙な操作技術の開発であった。この作戦は、何世紀にもわたって工夫され、実験され、内緒話とか茶飲み話のなかで母から娘へと受けつがれてきた。最近では、電話でこれがおこなわれている。これらのおしゃべりは、つまらない井戸端会議ではない。むしろ、女性がその生存をかけた必死の戦略とでもいうべきである。男女共学の四年制大学での勉強よりも、一時間ほど電話で男について語り合うほうが、もっと本当の知識が得られる。」

この「大学より電話の方が勉強になる」の箇所好きなんですよね。実際、女子は酒とか飲むと男とのつきあいかたの相談話ばっかりしてるわけだけど、それって彼女たちにとって非常に重要なのだなということがわかる。そしてそこでの洞察とか非常に鋭い。まあ男とのつきあいは、へたすると人生かかってるわけだしねえ。慎重になるのもわかるし、そもそも男とかなに考えてるのかわからない、みたいな話をしているっぽい。

さて、ここまで恋愛の話だったわけですが、先生セックスはどうなんすか。

「では、どうすれば、女性は、男性からこの反対給付を引き出すことができるのだろうか」p.174。

まあ、もし男を愛することに決めたら、どうやって男を尻にしいて感情的にも経済的にも安定した生活を営むか。その答はセックスだ。

女性のもつもっとも強力な武器はセックスである。女性はさまざまな策略を使って、男性を肉体的な苦痛状態にまで追いやることができる。彼の欲望を拒んだり、からかったり、与えるふりをしてやめたり、嫉妬させたりする。……「どうやって男をじらせようか?」とときおり考えたことない女性は、ほとんどいないだろう。」(pp.174-175)

ファイアストーン先生正直でいいすね。わたしはそういうのやめた方がいいと思うんですけどね。最悪トラブルになる。でもそういうことする女性はいるみたいですね。もう本能といっていいかもしれない。

ところがっすね、ラッセル先生の思想に影響されて生じたかもしれない60年代のセックス革命は、その点で女性に不利になったんですわ。これがこの本の核心部分の一つなんすよ。

「過去50年の間、女性に愛について二重に束縛されてきた。すなわち、すでに起こったとされる「セックス革命」を口実に、彼女たちは、男性に対する武装を解くようにと言われている(「ベイビー、やめてくれよ、いったい今までなにしてたんだい?セックス革命のこと聞いてないの?」)。現代の女性は、彼女たちのおばあさんの時代には、そうなるのが極めて当然のことと思われていた「いじわる女」(bitch) 2)日本語だとビッチは性的にゆるい人を指すけど、英語はいじわるってだけよ。 になるのを非常におそれている。おばあさんの時代には、男性もまた、自尊心の強い女性は男を待たせるものだし、恥ずかしがらずに正々堂々と男とかけ引きするものだということが当然だと思われていた。この方法で、自分の利益を守らない女は尊敬に値しなかった。それは公然の事実だった。だが、セックス革命という言葉は、女性には何も良いものをもたらさなかったとしても、男性にはおおいに役立つことがわかった。男たちは、女性に、彼女たちが普通用いる策略や要求は、卑劣で、不公平で、とりすました、時代遅れで、ピューリタン的で自分自身を殺してしまうものだと言い聞かせ、女性が苦しんで獲得したきたわずかな武装さえも解かせてしまった。その結果、男性の言いなりになる女性集団を創り上げ、伝統的な性的搾取に利用できる商品の不足を補うのに成功した。今日の女性は、この目的のために創り出された新しい言葉を投げつけられるのを恐れて、昔からの要求を言い出せなくなっている。「お固い女」「じらし屋」「退屈な女」等々。要するに男たちにとっては「物わかりのいい娘」が理想なのだ。」pp.171-172

この本が出たのは1970年、50年前ってのは1920年。ラッセル先生は1929年ね。まさにラッセル先生のことを考えてると思う。

「伝統的な性的搾取に利用できる商品」はもちろん売春婦。買春するのはお金かかるけど、ガールフレンドならタダだしね。20世紀に男性たちはロマンチックな口説き文句なんかを開発して、女性にただでセックスさせてもらうことを覚えた、実はそれは12世紀の宮廷風恋愛、18・19世紀のロマンチックラブもそうだ、っていうのが私の仮説。さらにラッセル流の自由恋愛は、性的に堅い女性は古い禁欲的教育の被害者であり、自由でないかっこ悪い存在してしまうことによって、女性のセックスを「解放」し、搾取した(搾取という言い方が適切かどうかは別にして)。堅い女性を形容する単語を大量につくりだす。

けなし言葉は“fucked up”, “ballbreaker”、”cockteaser”、”a real drag”、”a bad trip”

fucked up“はだめ女、頭おかしい、ぐらい? “ballbreaker“は「男性の自信を打ち砕く、過酷な要求をする女性」。でも「玉つぶし」なんちゃうかな。いやちがうか。cockteaserは誘惑はするものの、男を性的に興奮させながら性的な解放を味あわせない人、まあ「ちんちんいじめ」。a real dragは「面倒な女」ぐらい? a bad tripも「ひでー女」ぐらいか。「物わかりのいい娘」はa groovy chick 「ノリのいいカワイコちゃん」ぐらいか。いまでも「あの子ノリよくて」っていうのは性的にゆるいことをほのめかしている場合があるんちゃうかな。

これほんとに難しくて、女性がとりあえず男の「愛情」なりなんなりを確認したらセックスさせる、ってことになってしまえば、他の女性も相手をつかまえておくためにはセックスさせざるをえない。でないと他の女にとられちゃうし。「男を待たせておく」っていうのが無理になったんよね。でも相手選びに失敗して、いろんな男性とつきあう/セックスしたことになってしまうと、市場での値段がものすごく下がってしまう。

今でも、多くの女性は、何が起こりつつあるか知っており、罠を避けようとしている。彼女たちが男性から期待できるわずかなもののためにだまされるよりも、むしろ侮辱されたほうがましだと思っている(もっとも前衛的な男性でさえ、今日、あまり問題にされなくなた「古典的レディー」を望んでいるのは真実なのだ)。しかし、彼女たちは、罠にはまればはまるほど、伝統的な女性の策略は間違っていなかったことに痛烈に気づくが、既に遅すぎる。彼女たちは「男は皆オオカミよ」とか「男はケダモノよ!」とかいう古い表現と酷似した言葉で、こぼしながら、自分がすでに30歳になっているのに気づいてショックを受ける。「彼女たちは、昔の妻が正しかったのだということを認めざるをえなくなる。公平で寛大な女は(せいぜい)尊敬されるが、ほとんど愛されることはないのだということである。p.178」

いいねえ。いい。すばらしいよシュラミス。「男はみんなやりたいだけなんだわ」ですわね。「公平で寛大な女」はすぐにやらせてあげる女ね。

まあこういうのが70年フェミニズムの問題意識。ラッセル先生的な「性の解放」とかってのの男性中心的な偽善みたいなのに対する反抗とか、男性に対する絶望感とか。こっからフェミニズムは女性分離主義みたいなんに行く人々もでてきたり。ファイアストーン先生自身も、けっきょく性と生殖が一番の問題なんであって、将来人工子宮とかできたらいいな、みたいな結論になってるっぽい。

翻訳は偉いけどいまいちよくない。上の引用は勝手に語句訂正させてもらった。

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References   [ + ]

1. 同じ年にケイト・ミレット先生の『性の政治学』も出ていてこれも重要な著作とされてるんだけど、私はあんまり評価してない。
2. 日本語だとビッチは性的にゆるい人を指すけど、英語はいじわるってだけよ。

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