牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』

昼間ちょっと某氏と性犯罪対策みたいなのについて話をする機会があり、牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』読みなおしたり。この本は非常に興味深い本で、元警察官で、警察学校の同期が連続強姦で逮捕されたという経験をもつ方が書いてる。警察内部の取調べマニュアルとか、その連続強姦魔の書簡や聞き取りなんかから構成されていて非常に読みごたえがある。性犯罪とか刑事司法とかそういうのに関心ある人は必読だと思いますね。

読んだときに書評もどきというかamazonレビューみたいなものを書こうとしたんですが、そのままになってしまってた。ネタは非常におもしろいのに、全体に微妙に理解しにくいところがあるんよね。

性犯罪と性欲

一つ目。牧野先生によれば、性犯罪では操作から立件、裁判に至るまで、加害者の犯罪行為がとにかく「性欲」という動機にもとづいた犯行であったことを立証しようとしていて、その際に「性欲」や「情欲」が「本能」とされていて内実が問われないままになってる、ということらしい。「男の本能だからしょうがない」みたいな感じですかね。まあたしかに「本能」だから「しょうがない」なんて本気で言われちゃったら困っちゃいます。性欲はわれわれが動物と共通にもっている欲望の一つだろうけど、それをコントロールするから人間であってね。

でも「本能」はともかくとして、犯行の動機が性欲であることを立証しようとするのは、刑事司法としてはある程度やむをえないことな気がする。刑法とかぜんぜん知らんのであれなんですが、素人考えからすれば、もしある強姦に該当する行為が、性欲にもとづいたものでなければそれが性犯罪なのかどうかわからないってことにもなるかもしれない。たとえば、加害者はまったく性的な欲求をもっておらず、女性の性器に男性器を挿入することによって来世で蘇えることができるとかそういうことを信じていてそういう行為を行った場合、それって性犯罪なのかどうか。セックスっていうのがなんだか知らないわからないけど男性器を挿入してしまった、みたいなのもどういうタイプの犯罪なのかよくわからない。やっぱり性犯罪が性犯罪であるためには、犯行の主要な動機の一つが性欲である、セックスである、っていうのが必要なんちゃうかな。

まあもちろん、加害者がなにを考えていようが、被害者にとって性的な行為であれば性犯罪である強姦である、っていうのでもOKなのだろうとは思います。でも「なぜその犯罪を犯したのか」っていう問いに対して、いくつかの動機と、その動機にもとづいた犯罪行為を防がなかった理由がないと我々はそれが犯罪だと理解しにくい。それが犯罪だと思ってなかったとか(強姦の場合はありえないと思うけど)、他人の利益や尊厳なんか知ったことはないという邪悪な性格であったとか、捕まらないだろうと思ってたとか、そういうのも理解した上で、そいつの行為が犯罪と呼ばれるものだったのかとか、どの程度の罰を与えねばならないかとか考えるんだと思う。

牧野先生が懸念しているのは、「強姦が性欲にもとづくものだ」ということよりは、「性欲は本能であり自然なものだ」とか「本能だからしょうがない」とかって考え方の方なんだけど、これってそんなに司法の場で認められていることなんすかね。たしかに邪悪な犯罪者たちはそういう自己弁護をするだろうけど、われわれがそれを認める必要はまったくないように思える。「他人のものを取りあげて自分のものにしてしまいたい」「腹が立つ奴は殴りたい」みたいなのも我々の自然的な傾向であって、もし「本能」っていう言い方をすれば本能。でもそういう欲求を野放しにしたら困るから法や罰があるわけで、自然なもの、本能的なものだからって主張されたってつっぱねることはできるわね。

難しいのは「その時私は自分をまったくコントロールすることができなかった」と主張された場合で、これ心神喪失とか心神耗弱とかそういう面倒な問題になりますわね。もしこの手の話をするのであれば、性欲によってわれわれがそうした自分のコントロールをまったく失うことがありえるかっていうおもしろい話になる。牧野先生は本当はこれがしたかったのかしら。刑法学とかの分野でこの問題がどうなってるか私は知らないんですが、衝動的な行動についていくらか情状酌量の予知はあるのかもしれないけど、たいていの性犯罪はそういう衝動的なものではないだろうから関係なさそうな気もする。この点は後半の事例研究でもはっきり出ていると思う。痴漢やセクハラぐらいのことを考えても、たとえば道を歩いていて、白昼人目のあるところで突然衝動的に女性に襲いかかる奴なんてのはいないわけで、おそらく皆捕まらないだろう、セクハラで訴えられないだろうぐらいの計算をしてからやってる気がしますね。少なくとも頭のなかで何回も予行演習していると思う。

 加害性の追求

二つ目。この本の後半では研究対象となった警察学校動機の強姦魔の悪質さが強調されていて、これはなんともすばらしい研究だと思う。理解しにくいのは、第3章「加害性の追求」での議論でなにを目指しているかっていうことなんよね。牧野先生が考えているのは単なる厳罰化じゃないみたいで、んじゃいったいなにか。研究対象になっている強姦魔はまったく悪質凶悪なやつで、これほど悪質な犯罪者は厳罰に処すべきだと思わされるんだけど、逆に読者にはその悪質さがかえってそうした犯罪者の特異性みたいなのを感じさせてしまう。よくいわれるサイコパス的な感じ(よく知らんけど)。こんなに異常なやつを追求するってのはどういうことなのか。もちろん異常人物として研究対象としては興味深いだろうけど、刑事司法の場で他になにをしようというのかがわからない。

「追求」ってのがわからんのんよね。「加害者は取調べにおいてその加害性を十分に追及されることがない」(p.130)っていう文章なんかが典型なんだけど、警察や検察の取調べは建前としては道徳的・法的非難の場ではなく、事実確認の場だろうと思う。「どんな悪い奴かはっきりさせる」ってことかなあ。「あの事件はなぜ起こったのか」(p.198)という問いの答を追求するのかもしれないけど、加害者の性格や生い立ちや考え方をはっきりさせるのだろうか。あるいは性犯罪をとりまく社会的ななにかをはっきりさせるのだろうか。そこらが見えなくて最後まで不満のままだった感じ。

性欲による行動は不可避なの?

あと最後の方はけっっこうあやういことも書いていて、たとえばp.201では若年者の犯罪は更生可能性があるから量刑軽くなることが多いわけだけど、性犯罪だと再犯可能性が高いから若年であることは軽減ファクターではなく、「むしろ加重ファクターであり、裁判所の判断に誤りがある可能性を示している」とかっていうんだけど、こういうの大丈夫なんだろうか。もうちょっと慎重な議論してほしい感じがある。

まあでも一番気になるのは、やっぱり何度もくりかえされる「操作・裁判は、性犯罪は「性欲」によって行われる、男性の生理に基づく不可避の犯罪であるという前提で進められている」(p.202、下線は江口)っていう主張かな。これほんとうにそう考えられているんだろうか。ほんとうに不可避なんだろうか。牧野先生が勝手にそう読みこんでいるという可能性はないだろうか。なんらかの意味で本当に不可避なんだったら罪を問うことさえ不可能に思える。また逆に、本当に不可避なんだったらそんなもんはどっかに閉じ込めておかなきゃならんってことでもある。刑事罰ではなく保安処分の対象ではないのか。

また牧野先生自身は性犯罪の背景に性欲の他にどういう動機を見つけたいのか、どういう筋書なら納得のいく「加害性の追求」になると考えているのか。たとえば性犯罪は性欲ではなく支配欲に基づくものであるとか、女性を家にとじこめておくための男性集団の共謀によるものだとか、そういうやつなんかなあ。

→続き「女性には男性の性欲がわかりにくいのだろう」

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