品川哲彦先生のもゆっくり読もう(4)

今日もちょっとだけ。ノディングスの翻訳発掘した。第8章はゆっくり読みたい。

  • 3.1 よいです。
  • 3.2 よいです。
  • 3.3 「倫理の根拠」(p.177)。根拠ってどういうことなんだろう。

私が相手をケアしはじめるとすれば、私は誰か他のひとからケアされ、他のひとをケアした経験を想起して、その相手をケアしはじめるのだ。ケアする気持ちが自然に発露しないときに、ケアリングを誘発するのが過去のケアリングの記憶だとすれば、先の一文 — 自然なケアリングが倫理的なものを可能にする — は、自然なケアリングは倫理的行為の発生論的な必要条件であるというふうに解釈しなくてはならない。(p.178)

  • OK。でもまあこう限定しなくても、「道徳的な配慮をする根本にはやっぱりもともと他人に対する配慮とか愛情とかそういうのあるっしょ」でもよいような気がする。完全に私的利益のみを目的に道徳的な配慮を行なう、とかなんかへんだしね。ヒューム流のやり方はそれほど悪くないと思う。
  • まあケアの倫理学とかは、ヒュームの伝統の上で考えてみるべきなんだよな。あとシジウィックと対比してみるのもおもしろいだろう。功利主義的な伝統とは相性悪くないはずなんだわ。

ケアしたくないという欲求を克服する契機は自分がケアしケアされた経験の記憶から生じる欲求である。(p.179)

  • もちろんOKだけど、ちょっと言いすぎかもしれない。それ以外にもいろいろあるっしょ。
    たとえばカントに共感的な人びとは定言命法として「ケアすべし」を発見するかもしれんし。
  • 上の引用、「ケア」の実質的な中身にも疑問があるな。この意味のケアは実際になんかすることで、自然的な感情を持つことではないように見える。
  • カントの有名な箇所。

われわれの隣人を、いな敵をさえも、愛せよ、と命ずる聖書のことばもまた、明らかに同様な意味(江口補:傾向にもとづいてではなく義務にもとづいている場合にのみ真の道徳的価値をもつ)に理解すべきである。というのは、傾向としての愛は命令されることはできないからである。義務そのものから他人に親切をつくすこと、たとえそれを促す傾向が存在せぬのみか、もちまえの抑えがたい嫌悪が反対する場合にもやはり他人に親切をつくすことは、実践的愛であって感情的愛ではなく、意志のうちなる愛であって感覚の性癖のうちなる愛でなく、行為の原理のうちにある愛であって、われを忘れた同情のうちにある愛ではない。こういう実践的な愛のみが命令されうるのである。(カント、『基礎づけ』、中公『世界の名著』のp.241)

  • まあカントが極端すぎてだめだめってのはあるし、なんか倒錯してるところは感じるけど。ノディングスの本当の敵はロールズあたりじゃなくてカントだわね。(そしてヒュームはノディングスの友。)
  • カントは同情や共感にもとづいた親切な行為なんかは道徳的には無価値だというわけだけど、いかなる意味でも無価値だと言っているわけじゃないんだよな。ここらへんが問題なんかな。
  • っていうかヒュームでいいじゃん。自然的徳としての共感や愛情やケアと、人為的徳としての正義で。われわれの道徳感情の説明や分析としては十分に見えるけどな。
  • 自然な基礎としての共感とかケアとかないと、人為的徳としての正義とか成立せんです、とかそういう論法でいいんじゃないの?(もちろん正当化としてはまだ弱いかもしれん)

しかし、ケアしケアされた経験の記憶から生じる欲求は、なぜ、ケアしたくないという欲求に打ち勝つののだろうか。(p.179)

  • こういう表現が気になるんだよな。「なんかケアしなきゃならんらしいけど、面倒だからやっぱりケアしない」って人はたくさんいるだろうから、前者の欲求が後者の欲求に打ち勝たないケースはいくらでもあるような気がする。それに、こういう文脈で「なぜ」をたずねるのはなんか奇妙な感じがするのだが、うまく書けない。たんに表現の問題なのかな。「しかし、ケアしケアされた経験の記憶から生じる欲求は、なぜ、ケアしたくないという欲求に打ち勝つことがあるのだろうか」ということかな?それとも「しかし、ケアしケアされた経験の記憶から生じる欲求は、なぜ、ケアしたくないという欲求に打ち勝つべきなのだろうか」なのかな。
  • うーん、ここらへんで品川先生とノディングス先生はなんらかの道徳心理学をやってるんだという理解でいいんだよな。それが実証なんか内観なんかわからんけど。おそらく内観だわね。
  • 3.5~3.8。よいです。
  • 問題は4のとこ。(1)ケアするべき対象は?(2)ケアの葛藤(?)はどう解決されるか?(3)どこまでケアするべきか?あたりは一定の答が必要だろうから、そこらへん知りたい。
  • 4.1。普遍的ケアは不可能。ケアする対象は現実にケアできる範囲にかぎってよろしい。これは答になってないように思う。もちろん現実にケアできる範囲以上をケアするべきだとは言えない(「べし」は「できる」を含意する)けど、現実にケアできる範囲はどの程度ケアするかに依存するわけだし。でもこの解釈はまちがってそうだ。「普遍的なケアの否定は、見知らぬ他人をケアできる範囲は現実にかぎられているという事実上の制約と見るべきである」p.185らしい。ほんとは誰をもケアしなきゃならないけど、ってことかな?まあそんでもやっぱり答にはなってないような。
  • 4.2。ケアしている対象の人どうしがモメたら、攻撃されている方法を応援。(っていう解釈でいいのかな?)チンバンジー社会でケンカが起こったときに、メスたちは負けそうな方をかばってやる、とかって話を思いだしたり。(実際にかなり関係ありそうでもある)「負けそうな」じゃなくて「攻撃されている」なのがポイントか。弱い方が攻撃しかけてたらどうなるんかな。それは攻撃じゃない、ってことになる?
  • 4.3。ここよくわからん。「倫理的自己」を維持できる程度まで。疲れきったりしない程度?4.1とのかかわりで、やっぱりどの程度ケア能力を配分するかって問題は常にあるわな。それについては第5節でやるわけだ。
  • 5節。バベック先生の批判(「やっぱり分配の原理は必要だろうよ」ってことらしい。読んだことないけど)はもっともに見える。

害の最小化、いいかえれば、ニーズの充足の最大化の指針はノディングスも支持するだろう。ただし、ノディングスはそれをを正義の語り口で語ることを拒否すると思われる。というのも、分配を正義によって正当化すれば、ケアされない人間や乏しいケアしかうけられない人間は、そうした処遇に値しており、豊かなケアを受ける権利、ないしはそもそもケアをうける権利や権原がないものとみなさざるをえないからである。(p.189)

  • わからん。どういうことだろう。現にケアを受けてない人間はその資格がない、ってことになる、ってことかな?でもそれおかしすぎるよな。いまだに十分なケアを受けられず食いものない人とかマラリアに苦しんでいるひととかもケアを受ける資格も権利ももってそうに見えるがなあ。