好天。祝日。しかしタスク減らしと授業配信せねば。
飲んだら死にます。
3回生、配信講義。どうもこの授業うまくいかんなあ。残りはなんとかしたい。
スーパーのキムチ鍋パックで鍋作ったらあんまりうまくない。サッカーワールドカップ。前回ロシアはまったく見なかったのだが今回は見る。ドイツに勝てるとは。
雨は上がるがやはりもう冬。祝日だが平常授業。2回生は半分テキスト読んでそのあと智積院へ。今年のここの紅葉はイマイチかな?
4回生は卒論おおづめ。
事務的ないろいろ。しかし覚醒度低い。
快晴。気温も高いので泉涌寺周辺はひとだらけ。
午前は家の、午後は研究室の環境整備。土曜日はとにかくゆっくり体を休めなければならない。
モリサワのUDフォント、月300円で契約する。無料のやつだけ使っててもいいんだけど。
ロスレスのAmazon Musicと契約してクラシックを聞く日々。最近はエサペッカ・サロネン聞いてる。
早々に寝る。
採点。配布の10分前に採点終了。講義2個。
まだあばれている。
朝きむちうどん。昼学食、夜スパゲティ。
3回生。卒業生に来てもらって社会人の実態を話してもらう。これもっと早く必要だったかもね。そういや去年はできなかったんだよな。
会議。
久しぶりにまともな時間に起きる。
午後軽くプール、コースの真ん中泳いでばんばんぶつかってくるオバサンがいて不愉快。避けるしかない。散歩、床屋。2回ぐらい前から眉毛もやってもらっている。この床屋、もう20年以上通っているのではないか。 -->庭の落葉掃き、草むしり。毎年大家さんがこの時期に植木屋さんを呼んでくれるのだが、家賃安いのにもうしわけない。自分でもっときれいにできればいいのだが、毎年チャレンジしては無理なんだよな。
心配していたゼミはまあ定員は埋まりそうだな。むしろ例年より多いかもしれない。
中・短期的な記憶力にかなり自信がなくなってきた。
Selfcontrolのおかげで比較的心穏やか。
口内炎はまだ直っていない。消毒薬でうがい。このアズノールという紫の消毒薬はなかなか優秀で 常備しておきたい。
だらだら。
突然ゼミ1期生2人が来訪。
防寒、防寒。コートもちゃんと着用しましょう。 まともなもの持ってないのだが。
3回生。
過眠。
ぐずぐず克服シートとか利用。こんなものの力を借りねばなにもできないとは。
この冬もすでに睡眠時間が長くなっている。10時間以上寝る必要がある。いくらでも寝られる感じ。
昼お日樣が出てきた。はあ。我々はあなたがいなくてやっていけませんよ。
衣笠。
iPhoneを買う。
ジョギングしてみる。お日さまがうれしい。もう冬の間は日中ひなたでだらだらしていたい。 お日さまがあたる縁側か居間みたいなところでコタツにはいってられたら最高だ。 っていうかそういうジジイになるのだ。もうなってるか。この前まで中年になることを 考えてたけど、今はどういうジジイになるかを考えている。昔だったらもう隠居の歳。
快楽亭ブラック師匠を聞きに。すばらしい腕だ。特に「盃の殿様」はよかった。上品。(「なめる」も 予想よりずっと上品だった。もっとバレるのかと思ってたのだが。)
休日ではありません。勤労できることを感謝する日。ほんとう。私はラッキーである。
哲学的な考え方ってのは、徹底しないとかえって有害で危険なのかもしれな い。たいていの場合は、中途半端に哲学するより、直観に頼った方がよいのかも。
書評って書いたことないけど、難しいもののようだな。 この国には書評文化ってのはあんまりないんじゃないかと思ったり。 あるいはまともな批判と論争の文化がないのかもしれない。いや、 「論壇」ではあるのか。おそらく総合雑誌読まないから知らないだけだな。
なんで英米は日曜版の新聞をあんなに厚く充実させることができるのかな。 むしろ雑誌文化がないからか。国内ではいろんな雑誌がその役目をしているわけだ。
勤労。
ピーター・シンガーといえば生命倫理まわりの大御所ってのはもうこれはぜんぜんだめな紹介だよなあ。森岡先生はシンガーが革新的なのは動物の件だけで、生命倫理は保守的だって書いてたけど、 "Famine and Affluence" こそがシンガーの代表作だろう(次に"All Animals are Equal"が来る)。中絶や移植まわりはシンガーの業績のなかではセカンドクラスだ。だいたい、シンガーに医療倫理の分野での超有名論文なんてないじゃんね。『実践の倫理』でも生命倫理まわりはほかの人々の焼き直しっていうか彼なりの再構成にすぎない。もちろん、「平等な配慮」と功利主義一本で細胞片から地球までぜんぶ首尾一貫して考えてみるって方針はすばらしくラジカル。ラジカルってのはそういうことだわな。これ以上ラジカルなやつは滅多にいないだろう。動物や貧困の件に関するシンガーの議論が国内ではあんまりアレなのは、やっぱりそれをアレすると自分の生活がアレだからだ。脳死とか選択的中絶とかはどっちかっていうとアレだもんね。倫理学者が生命倫理好きなのもそういうアレで。シンガー先生は、鬱とかストレス性胃潰瘍とかならないのかな。やっぱりアルツハイマーはありそうか。やっぱり哲学者はまず身体が資本か。どういうひとだったのか、死んでから評伝が出るのが楽しみだ。自伝も書いてるのかな。とにかくそれまでは生きていることにしよう。
卒論ゼミ。さて、ここでストレスかけてあげないとな。勤労勤労。いやいや、若い女性にかこまれて好きなこと言ったりお説教したりなんてのは、お金払ってもやりたい人がいるでしょうから、どうもこれは勤労とは言えないようですなあ。私はラッキー(のはず)。
うーん、帰って寝たいところだが、いまやっておかないと後で苦労することが。あれ、ずいぶんプロメテウス。
でもビュンビュン時間が過ぎていく。おそらく余計なことをしているのだろう。あるいは主観的に時間の流れが速い = 客観的には意識の動きが遅いってことか。
鈍感であることは道徳的な欠陥かってなことを考えたり。 人を非難するってときもいろんな非難があるんだよな。なんで道徳的な非難が一番重要だと思うのだろうか。っていうか、むしろ一番重要な非難をしたくなるときはその欠陥が道徳的なものであると感じられるわけなんだけど。そもそも道徳的な欠陥ってなんだろう。20年間勉強してもいまだにわかっておらんというのはやっぱりどっかおかしいのではないか。センスがなかったんだなあ。うまくいけばあと20年あるけど、どうもこれはまずい。
とにかく寝るべし!寝るべし!寝るべし!
おや、祝日だ。早くに目が覚めてしまったので早朝から。
と、休みだと思ったら事務室は閉まっているが授業はやっている模様。
"The worth of human life varies." って文章は「人命の価値は多様である」 と訳すべきなのかどうか。lifeが単数なのが気になる。worthは不可算。 たしかにこの日本語のままだと「命に価値あるひともないひともいますよ」と読めてしまうのだが、 そうではないのではないか。 なんか(「倫理的にrelevantな特徴)に依存して 「変化する」ではないのかな。いや、やっぱり「多様」の方がよいか。
本や論文を読みながら赤線やコメント書きこんでいると、 そのスタイルにどうもいまは亡き某森口先生の影響を受けてしまっていることに気づいた。 (亡くなったときに蔵書のうちのゴミのような部分をひきとって読ませてもらった)
昼から大学。ぜんぜんだめ。心落ちつかず仕事をはじめられず、1日まったく無駄にすごす。 せっかくのお休みの作業日だったのに。 死にたい。
前夜は食いすぎか飲みすぎか、寝つけず。
休日。午後遅くまで寝ている。明日の朝一のオムニバス授業に備えて夜研究室。
夜電車に乗ると、皆アルコールを分解しそこねている悪臭を放っている。いつも自分自身が飲んでいるから気づかなかったのね。
着るコートがないと思いこんでいたのだが、レザーのやつ持ってたのね。自分がどんな服を持っているかわからないってのもアレだ。
クラシック曲の形式と耳のよさについて考える。音感とかは別として、音楽の形式の把握にも個人差はあるんだろうかとか。あるんだろうなあ。ポピュラーソングによくあるAABA形式とかは私でもすぐに把握できるわけだが、ソナタとかロンドとかフーガとかは正直あやしい。モツアルトやハイドンならともかく、ベトベンのソナタぐらいでもどこが主題部でどう展開してどこから再現部かってことをちゃんと把握できてるかと言われればあんまりよくわかっていないかもしれない。ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスとか動機のようなものしか覚えられないし、マーラーあたりになると形式感がさっぱりなくて困ってしまう。
しかしある種の人ははじめて聞いた曲でもある程度構成を理解できるんじゃないかという気もする。私はインヴェンション程度でも頭では暗譜できないのだが(指が自動的に動くってのはあるが、なんか違うような気がする)、そういう能力とも関係あるような気がする。ちゃんと構造を把握していないから暗譜もできないのではないか。単純な歌物を暗譜というかコード進行を把握する(いちおうできる)ときには、指で覚えるというよりは度数というかコードの機能というかそういうので覚えているようだし。てなことを考えていると、もしかしたらひとは同じ音楽をまったく違うように聞いている可能性があるよな。バルトークやウェーベルンのような音楽の構造を直接聞きとれる人間というのはいるのだろうか? 彼ら本人はどう聞いてたんだろう。バッハやベトベンやブラムスは音楽をどう聞いてたんだろう。違いがあるんだろうか。意識にのぼらないけど認識してる(?)とかってことがあるんだろうか。とかって話はなにを読めばいいんだろうか。
なんか頭痛。後頭部から首の裏にかけてズキズキ。頭痛持ちではないのだが。
あちこち静電気でバチバチいうようになった。冬だなあ。
最近webでよく見かける「ASIN」という記号がAmazon特有のものであることを知る。ほう、なかなかやるな。
「准教授」の件はめくらましで、助手の扱いを変えるのが本当の目的なのだろう、と邪推をするような人間になってしまった。
なんというか、月曜からずっと、もう指1本動かすのも億劫でどうしようもなかった。
とにかく睡眠睡眠。午後遅くに研究室。往復徒歩で。
墨染大学で学生さん相手の講演会だか研究会だか。 もうちょっとうまく話せるように ならんといかん。
しかし、墨染大学は緑や芝生が多くてよい学舎だと思う。 どうも最近の大学はどこも (今熊野大学、深草大学、百万遍大学すべて) 建物ばっかりきれいにして息苦しいよなあ。友達と 雑談する木陰一つないなんて、大学じゃないわなあ。 柏原大学なんかは山の上なんでそういう場所があるかというと 実はあそこにもそういう場所はない。なんだかなあ。
久しぶりに夜も研究室。仮眠してから活動。 ベースの弦を貼りかえたり。
最近Asahi-netのメールもMacのMailで読むようにしたのだが、 エロダイレクトメールの添付HTMLも直接展開してしまうので アレだ。 なるほど、長年送られてきていたのはこういうメールだったのか、とか。 しかし最近突然数が増えたように見えるのはなんでだ。Asahi-netから 名簿でも漏れたのかなあ。30代後半独身男性とかいうターゲットにされているのか。
明け方までばたばたしてから地べたで寝る。この前持ちこんだカーペットは快適。
早起き。ちょっと仮眠のつもりで寝袋(マリコ号)にくるまると延々寝てしまった。しかし、こりゃ体こわすな。
快晴。こういう日の午後に家や研究室にいるのは犯罪的。よって植物園を散歩。
とんでもない額のクレジットカード請求書が届くが、なんとか払えるだろうと思うところがちょっと余裕がある。しかし、滞納している税金や国民健康保険を払うと、ギリギリだな。
弟の誕生日(のはず)
久しぶりに市内某所に集まって、大きな音を出して遊ぶ。
ダメ人間。児玉師匠のライブを聴きに行けず残念。
やっと7月に3000円で入手した4TrカセットMTRの使い方の概略を知る。なるほど、こういうものか。
筒井康隆の短編に、時間の流れがどんどん速くなっていてって...ってのがあって、まあありがちなんだけど。あれだ。以前は時計をじっと見てると「なかなか進まないなあ」と思ってたけど、今はあっという間だもんな。小学校の習字教室とかが一番時間の進みが遅かったね。中学校のブラスバンドの無駄な基礎練習の時間とかも。あ、廊下に立たされたり正座させられたりとか、ボーイスカウトのキャンプとか。(なんでそんなもんにはいってたんだろう?)
レジュメとか作っていると、有名な画像データとか欲しいよなあ。今欲しいのはジョン・レノンとオノ・ヨーコが二人で裸になってるやつ。「公開ベッドイン」だっけ?
14時間も寝てしまった。最近起きられない。寒いからか?
書類作成など。ついでにCAPの調整。afpfileを書きなおして、ちゃんとsuffixからファイルタイプを推測できるようにしておく。
天一でラーメン食べたあと、中古CDとか買ってしまう。元プリンスのブートレッグ2枚、Harbie HancockのEmpyrean Isles、John ScofieldのFlat Out、George BensonのCalling You。
元プリンスのブートレッグの1枚はHouse of Bluesってやつで、1994年4月21日 Holywoodってことらしい。内容はブルーズ大会でいまいち(実は私は伝統的ブルーズが嫌い)。もうひとつは2枚組のSuper Heroってやつで、これはl 1995年3月18日Berminghamのライブと書いてある。内容はまずまず。ブートレッグでまともなもんなんかあんまり買ったことがない。
ハービー・ハンコックのは、あれだね、こういう「新主流派」のは、でかいスピーカをそなえた薄暗いジャズ喫茶で、でかい音で、文庫本でも読みながら聴きたいね。
Scofieldのは、Terri Lyne Cariringtonのドラムがかっこいい。
Bensonのは、昨日西部講堂前の焼野原ライブで、なかなかよいフュージョンバンドがやってたのを耳にしたので。今、時代はフュージョン:-)(そのバンドはベンソンというよりはサンタナに近かったが)
そういや、学園祭とかでいつも思うんだけど、同じ楽器をやっていても、ロック畑よりジャズ畑の人のほうがずっと達者だよなあ。練習量がちがうんだろうね。(正確に言えば、人前に出て来れるようになるまでの練習量がちがうんじゃろ:-)
私は田舎の弱小高校の出身なのだが、時々ネット上でがんばっているひとがいるのかとgooあたりで検索をかけてみる。ま、出身高校名をwebに出しているひとはめったにいないじゃろうから、あんまりひっかからないのも無理はない。 同窓ネットというのがあるようだが、うちの高校は1人:-)しか書きこみがなかった。小学・中学となると0。ま、こんなもんじゃろ。
押入れから石油ストーブを出す。冬である。ポリタンクもひっぱりだしてきたのだが、フタがないので持ちはこべない。しょうがないのでガソリンスタンドでポリタンクも買うことになる。むう、散財。(たいしたことないけど)
宮台真司の『制服少女たちの選択』(講談社)なんて本がなぜか手元にあったので読んだり。特におもしろいとは思わなかったのだが、ちょっとだけ気になるのが、
「道徳」は「倫理」とはまったく別ものである。倫理というのは、 周囲が自分に悪罵を浴びせようと後ろ指をさされようと、「我これを信ず」と言いつづけられるような「内的確かさ」にかかわるものである。だから「近代市民社会的な倫理」というときには、旧来の村落共同体的な因襲や世間のまなざしとは無関係にみずからを自己操縦できるような、内発性や自発性を意味することになる。」(p. 85)
「道徳」の方は説明されていないが、このパラの「因襲」etc.を指すのだろう。 こういう「道徳」と「倫理」という言葉の使いわけはどこに由来するんだろうと考える。moralはラテン語のmores(custom,習俗)から来てるし、ethicsはギリシア語のETHOS(character)から来てるんだよな。ただしこっちも社会のETHOSとも使うわけじゃから、あんまり違いはないと思うんじゃが。だいたいETHOSの訳語としてmoresが使われたって歴史的経緯もあったはずだし。(ここはちょっと自信ないけど)
もちろん、こういう使いわけや定義は基本的には筆者が勝手にすればいいもんであるわけなのだが、私自身はどっちも同じ言葉を指すものとして使うことが多い上の「道徳」に当たるものははっきり「因襲的道徳」や「習俗」と書くことにしている。
ヘーゲルのMoralitaetとSittlichkkeitかな。ちょっと含みが違うな。社会学者だし、ウェーバーあたりか?社会学者にとってはこういう使いわけは当然のものなのだろうか。
違う分野の人と話すときなんかはこういう使いわけが誤解を生む原因になるので注意しなければ。
それにしても、Netscapeでの西欧文字の扱いはなんとかならんか。äはちゃんとaウムラウトとして表示してほしいところだ。
夕方コタツに襲われ内部にとりこまれる。とりこまれると意識が次第に薄れていく。足げり、空手チョップなどをみまってもヘとも思わぬ強敵である。しばらく思うがままに半睡状態にされたあと、弱点であるコンセント付近を攻撃しやっと自分をとりもどすことができた。
この連休どっかのクラブで大音量でテクノい音を聴きたかったのだが、果せず。
近所のコンビニが1件つぶれて、酒のディスカウントショップになった。ズブロッカが600円弱、ストリチナヤが700円強。買って冷凍庫に入れておく。ジンはあまり安くなかった。これまでよく利用している近所のコンビニではスピリッツ類はあまり充実していなかったのでちょっと助かるような、健康に害があるような。
未だにウォッカ飲んでるのはなんだかアレなかんじがするが、まあ、好きなんだからしょうがない。ウィスキーは精神衛生に悪いし、日本酒は好きじゃないし(おいしいのは高い)、ワインは好きだけどこれまたおいしいものは高い。
放射能とかでウォッカとかピスタチオとか消費されないようになった時期があったと思うが、今だれもそんなこと考えてないんだろうか。(私は考えてない)
マグカップ2脚と安い合成繊維の鞄を買う。 毎日重い(5Kぐらいあるか)カバンを持ちあるいていたので、せめて肩にかけられる軽いものが欲しかったのだ。
今日は昼から塾なので こだま師匠 のライブでの勇姿を見ることができないのが 残念である。かわりに200円のカセットを買ってあげるしね。
ふう、疲れた。一昨年の京都産業大学(?あれ、近大だったかな?)の入試問題に、
「お体に気をつけて」の英訳として正しいものを選べという問題があり、選択枝に
Take care of your body.というのがあって、生徒が「なんでこれであかんの?」と質問してくる。 この文章にはシュールな(あるいは下品な?)おもしろさがある。秀逸。 ネイティブの人はどう感じるのだろうか?
将棋を指したいのだが、将棋敵は留守。残念。つかまったか?(うそ)
最近読んだ本。
清水義範『発言者たち』ちょっとぬるい。
中村方子『ミミズのいる地球』中公新書、おもしろいがちと散慢?
金城清子『生殖革命と人権』中公新書、主張がわからんのでいらいら。
土井全二郎『最近捕鯨白書』中公新書、そうか、『美味しんぼ』のクジラの時の
ネタ本はこれだったんだな。ほんど一方的で独善的な捕鯨賛成派。
源リョウエン『義理と人情』中公新書、古くさい(1969年)日本人論。
こういう日本人論って
『甘えの構造』以来あんまり話題になんないような気がするけど、そういう
「日本人とは」のような問題意識はなくなったのかな?(いや、そういうわけじゃないな)
ひさしぶりにジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアの 『コンチネンタルGay Divorce』を ヴィデオで観る。最高。実は私はこういうハリウッド式 ラブコメが好きである。美男美女で(アステアが美男というのはよくわからんが) くすぐりがたくさん入っていて、起承転結があって、 音楽が素敵(Cole Poterだもんね。Night and Dayだもんね)で、 ダンスが無敵(特にNight and Dayの場面がいいよね)で、言うことなし。
ちなみに、嫌いなのは最後に主人公が死ぬか発狂して終るフランス芸術ものである。 『ニキータ』は、とりあえず気が狂ったり死んだりしないので許す。 発狂して、かつ、死ぬというやつはなにがあっても許さん。