英語。 配信授業。教育効果もないし。
昼までになんとかする。やばかった。
3回生、長い会議、配信授業。
2回生と4回生。卒論おおづめが近づいている。
月曜は事務の日、なのだがなんかやる気が出ず。この眠い感じってほんとにだめよなあ。
自分メンテナンスの日。
先送りしていた宅配便出すのに苦労する。 何度目かの禁煙の試み。もうほとほとうんざりしているのよねえ。
講義2個の日。まずまずか。教養ではサロメの一部を見せながら、やはり名作だと感心。ああいうのがわかる学生様は1割ぐらいの感じかな。
湯豆腐。とにかく朝夕はちゃんと食うべし。
採点、読書、ジムで筋トレ、卒論相談。
なんとか51歳をフルに生きた。そう簡単には人生終わりません。
二日酔い。3回生。会議。夕方なにも考えられず早く帰る。
自分がもうなにをやっているかわからない状態で知命の年が終る。まあよくわかりました。全体としてみればよい50年で満足すべき。
本も読み切れなかった感じがあり、もう十分読んだ感じもあり。
前日は早く寝た。とにかく睡眠とらないとなにもできない。しかしとってもなにもできない。
とにかく朝起きるように。
居間件勉強部屋の蛍光灯切れたのを契機にLEDにした。明るい!
心落ちつけて文章を書く。ブログ療法は、他のネタでもとにかく文章を書くきっかけによい。最近はどんな少なくとも毎日一定量を生産するように心がけてはいる。twitterじゃだめなんだよな。
ちょっとだけ早起きできた。
1日某書を読む。まあ十分活動はできてないものの、 コーヒー啜りつつ本読んでられるのは幸運だ。47才はおしまい。後期中年男。
Emacsを24.0.90に。
3回生。お説教大会。
会議。卒論相談。
2回生。
歯医者。正式な入れ歯男に。
簡単な書類が書けない。
寝坊。
衣笠。なんか疲れた。
やっぱりホテルは新聞配ってくれたり、切れるカミソリがあったり、 綿棒があったり、 コーヒー自由に飲めたりするってのが重要なんだな。あんまり ケチらずこの程度のホテル使うことにしよう。
引き続き学会。
帰宅。なんかへとへと。明日動けるだろうか。 なんで人々は飛行機乗ってまで移動しなきゃならんのだろうな。 移動手段がなければ動こうとはしないんじゃないだろうか。
朝から。もう晩秋。
書類書き(だめだめ)、英語、講義。誤植大魔王は今日も行く。ほんとに認知的な問題あるよなあ。とにかく提出。あとは知らん。いろいろ相談、4回生ゼミ。昼寝するヒマがなかった。
次はなんだっけな、あ、大きな仕事が残ってる。ちょっと大きめのミスも発見。あらら。しかし今日はもうだめだな。
なんか体中に疲労感。プール行きたい。
ショートカットキーよりマウスの方が早いのか。まあありそうな話だな。
12時間寝てしまう。馬鹿。
採血。
ついに午前中〜昼はブラインドを閉めざるをえなくなる。 気づいたらまた開けること。
いつもながら中山研一先生は立派だ。法学者の鑑であってほしい。刑法の学者は人数が多いし、現実社会への影響力がけっこうあるからか、トップの方は本当に立派だよな。法哲学は、うーん。
Amazon.comのマーケトプレースで1円とか値段をつけている業者は、どこで利潤を出してるんだろう?「送料」の一部がバックされるのだろうか。それとも総取引数でなんかあるのか。夏ぐらいから、皆が買っているような本はマーケットプレースを使う癖がついてしまった。値段というよりはスピードが魅力。
世界史やらずに高校を卒業してしまうってのはどういう感じなんだろうか。そういうひとの見る世界ととりあえずは勉強した人の見る世界はずいぶん違うんではないのか。世界史を必修にしろ。そのかわり日本史はいまの半分の時間でもいいような気がする。
まあ北陸や東北でそういう科目の履修不足の高校が多いのは、高校が受験予備校の役目もしているからなんだろう。都会では予備校や塾があるから生徒はそっちで勉強するもんだという了解が教師にも生徒にもあるが、あんまり受験産業が発達していない地方では高校教師が予備校教師の役目もしなきゃ、先進地方には勝ち目がない。でも残業したり補習したりするのはいやだろう(というかできないだろう)。とうわけでそういうことになっているんだ、という理解で大丈夫なのではないか。
そういや、私は共通一次終ったあとに特別に数学のチュートリアル受けたのであった。今思えば地方進学校独特の優遇サービス。正規の授業は受けたことがないが、その高校で一番学力のある東北大出の教師がついた。チュートリアルっていっても、ただ問題解いてただけだったが、問題もらえてはげみにはなったよな。そのおかげで、二次試験の数学は満点近かったと思う。当時の文学部ではかなりのアドバンテージだったろう。あれがなければ今の私はないかもしれんなあ。おそらく浪人して予備校通うために東京に出て、その後どうなったかな。ほんとにぜんぜん違う人生だったな。しかしその教師のことは思いだすこともない。高校教師ってのはあんまり感謝されなくて損な商売だ。がんばれ高校教師。
百万遍。
ルネで自宅用に手動シュレッダーを買う。1480円。こういうものが安くなったのはやっぱり個人情報とかってものに皆が敏感になったからなんだろう。研究室にも電動のが欲しい。どういうわけか離れた印刷室にしかない。せめて各階に共同で欲しいのだが。同じ階の教員で金出しあって買えないだろうか。提案してみるか。高性能なやつはどれくらいするのだろう。
中山研一先生は77才にして、新渡戸稲造の座右の銘「Haste Not, Rest Not」に「大いに共鳴するところがあった」のだそうだ。
@Book{中山研一05:心神喪失者等医療観察法, author = {中山研一}, title = {心神喪失者等医療観察法の性格:「医療の必要性」と「再犯のおそれ」のジレンマ}, publisher = {成文堂}, year = 2005, yomi = {なかやま けんいち} }
の序文。すばらしい。まあこの人はそういうふうに地道に勉強してきたんだよな。論文にもそれが表れている。特に人目をひくような新奇なアイディアがあるわけじゃないし、集めた資料や文献を丁寧に読んで紹介しているだけという見方もあるかもしれん。集めた資料を(おそらく)ぜんぶ使っちゃうからなんだか奥行きがない感じがすることもある。でも価値がある。
科研費申請書類書かなきゃならんのだが、今日はお休み。
野球見る。いつのまにか不良少年ダルビッシュはちゃんとしたエースに、新庄はどういうわけかフェイクではなく本物のヒーロになっている。最後まで笑わせてくれる。すばらしい。まあたしかにここ10年ひっぱってきた功労者だな。
明日から読書週間ということで新聞などでおなじみの特集などしている。最近学生と話をしていて、世の中には、なにか初めてのことをするときに、まずハウツー本を調べる人間とそうでない人間がいることに気づいた。ぜんぜん予備知識もたずになにかに取りかかるのは恐いと思うのだが、そういうもんでもないのだろうか。エントリシートの書き方とか就職面接とかだってガイドブックが出ている。そういうのとりあえず読まずにとりかかるなんて信じられん。本を読むってのはそういうとこからはじまるんじゃないのかな。
私の最も初期の読書体験は、『盆栽入門』とか、マンガ『からだの秘密』とか、『小学生のための「古事記」』、『まだわからない科学の10の謎』、『地球滅亡』、『ラジオの製作』、『野球入門』、『スポック博士の性教育』とかそういうんだったと思う。一般に、国語教育とかで読書と文学との関係が強調されすぎているのではないか。ハウツー本が読書の基本だと思う。フィクションなんかとりあえずどうでもよい。(もちろんあってもよいし無いと寂しいが)
国語教育からフィクションと詩を排除するってのはどうか。排除はしないまでも、ちょっと割合が多すぎるとは思う。外国語教育もトムやジュディのお話とかはやめて、サバイバル系ハウツー本からはじめたらどうか。 "His name is Bob. He is a gang. He is very handsome, but very dangerous. He gives you cocain. It is white." とかからはじめたらどうか。あ、これはけっこう効果的な気がするぞ。ちなみに私は英語は宝島でマルコムXやマリファナの話を読んでから興味をもった。
興味ないこと読むのは無理だよな。で、興味あることは自分の未来に関係のあることだけだろう。フィクションなんかは好きな奴が読んでればよろしい。好きなやつは止めても読むし、そのおもしろさは学校教育で教えられるもんではないだろう。だいたい学校で教えられることは消毒されたことだけなんだし。高校の教科書には『こころ』や『舞姫』や中也の詩や和泉式部の和歌なんかが載ってるはずだが、あれの毒を暴いて議論することができる教師は存在するんだろうか。(都会の進学校ならいるのかな)
高校の話続き。一方で、大学進学者が増えて、高校としては「受験」が一番で「教養」は二番ということになったのだということでもあるだろう。私の地元では(私の親の世代ぐらいまでは)高校はその地域の文化的リーダーを育てたりするところだったし、私の世代でもそういう矜持のカケラのようなものが見られたのだ(高校教師は実際に地域の文化的リーダーだったし、高卒で役場で働く人間も少なくなかった)が、おそらく今ではまったく違うだろう。
いっそのこと、世界史や哲学や物理は、短大や大学で必修でやるものだということにしてはどうか。大学はそのつもりでカリキュラム作るべきかもしれん。っていうかおそらくそういう配慮と余裕がない大学は滅びるな。そうするとなんかもう高校は「高等」学校じゃなくなるような気がするが、そういうもんかもしれん。ていうか、実際今の中堅以下の大学は旧制高校以下の教養教育しかしてないだろう。正直なところ、私も自分のところでは、大学っていうよりはリセの哲学教師のようなものだと思っているところがある。 実は文科省も大学院教育とか言いはじめた時点ですでにそういうことを考えてるんじゃないのか。文科省エリートの腕を見せてもらうことになるのかもしれん。
定年近くになったら故郷に帰って受験塾と教養私塾を経営してみたいなあ。お金貯めよう。
ダルビッシュは酒飲んでもいいのかな?ビールを皮膚から摂取するのはどうなんだろう。
荒神口。3回生ゼミ。会議。長い。
左耳が痛い。綿棒でつつきすぎたか・・・これはいかん、頭も痛くなってきた。 早く帰って寝る。
眠い。なんとか起きて授業2個。寒い。
1回生を連れてお食事会。若い人はよく食うなあ。
ひきつづき最悪。
しかしサバイブするのだ。レッスン。人前で楽器を弾くってのは難しいもんだ。私に欠けているのは「確実さ」だな。
まあしかし、3月からまじめに練習と理論の勉強はじめて、数回のレッスンを受けて、ジャズがだいたいどういうことになっているのかは理解できたような気がする。
と、Milesの"Jack Johnson" BOXの猛烈なシャッフルに救われる。マイケル・ヘンダーソンは偉い。
ちなみに科研の書類はLaTeXの「科研費マクロ」で書くのが ふつうだと思うんだが、ワードで書いている人もいるんだろうか。気の毒。
某学会に呼びだされる。うーん。時間がない。
モスクワの劇場人質テロひどい「解決」。 あそこらへんの話って、けっきょく、英米系のニュースしかはいってこない からよくわかんないんだよな。
36才の反省
まあ、午前中に起きてる。禁煙半月。
西の方より某講師来訪。バタバタしていてごめんなさい。
どうにも原稿がアレなので、つい手元の1本吸ってしまう。頭がクラクラするよ。 毒だね。先っちょだけ。
夜ふたたび研究室。
まあしかし、学部のデザインとかカリキュラムとかについて 私のような人間が胸を痛めたりするのってのは、やっぱり おかしいような気がする。小さいとこが人材足りないのはしかたないんだけど。 やっと、一般に「大企業」とよばれる会社に就職することが その人の人生にとってよいことである理由を理解しはじめたと思う。
あ、まだ渋谷陽一ってNHKでDJしてたのか。こりゃなつかしいなあ。 読みあげられる葉書の文体(?)も古い。 今日はパンクリクエスト大会らしく、これまた懐しいというか、 青春じゃよ。実際にはピストルズとかでさえ高校生になってから 教養として聞いたんだけどね。
ピストルズの代表曲として"Pretty Vacant"選ぶってのも渋谷先生で、久 しぶりに聞いてビリビリ来た。そう、それがザ・チューンじゃ。・・・そうい やストーンズもツェッペリンもロキシー・ミュージックもプリンスも渋谷から 習ったような気がしてきた。結局、私にとって「ロック」っていうのはNHKの 渋谷だったのかもしれない。
ところで、読んでない本は、本棚に入れてはいかん。いかん。手元に つみあげておくのじゃ。離れたところに積みあげてはいかん。あくまで手元じゃ。 キーボードより近くに。
こう、ラジオを買ったってのは、あれだ。最近というかここ10年ぐらい、新し い発見ってのがほんとに少なくなってるんだな。音楽でほんとにグっと来る鉱 脈にぶちあたったのはR. Kellyが最後のような気がする(その前はP-FUNK)。趣 味全体にしても、体を動かす習慣がついたのが最後だと思うし、読書習慣にい たっては10年のスパンでもなにか新しいものを発見したという記憶がない。 日の下に新しいものなし? 我万巻の書を読めり? そんなことはないんだけど、 なにか外から暴力的に襲ってくるような、こう、「出会う」とかそんなヌルい ものじゃなくてね。ビリビリ来るような、こう。そういうものが、今必要なん じゃないかな。
CDにしても本にしても、「大人買い」しちゃうようになってるのが これまたダメになる原因。やっぱり立ち読みしたり図書館で1日過ごしたりしないと。 ブランド・ニューななにかが必要なんだと思う。
どうでもいいことだが、合コンしてどうのこうのとか、新しいメディアを 通じて「出会い」がどうのこうの、知的な刺激を求めてどうのこうの、という のになんだかよくわからんものを感じるのは、やっぱりそれが計画されたもの だからなんじゃないかなとかそういうことを思ったりもする。しかし、計画さ れない発見を求めるというのは自己矛盾か。とにかく、おもしろい本なり音楽 なりよこせ。それは1冊、1曲ではなく、こう、群であり塊であるような。マス というか鉱脈というかfabricというか、芋蔓をずるずるひっぱれるような。そ ういうもんだ。
世界はもっと複雑で驚きに満ちたもんでなくてはいかんし、自 分自身ももっと可塑的でありたいもんだ。なんだか今は履き古したスニーカー の底のようだ。いや、もっとわけわからん、なんに使うかわからん3cm平方の ゴムの緩衝材というか。うまい比喩が思いうかばん。
と、こういう風になった人々は旅に出たり、大自然と親しんだりするんだろうな。 そうではなく、こう、なにか。
一つの大学で10コマ近く授業している人ってのは、 将来の不安についてどう思ってるんだろうか。危険すぎる。
人生折りかえして1年目が終わり。やはり駄目な人生のようだ。
委員会。
来週も猛烈に忙しいことが発覚。
昼から。
右往左往。
イカ天が食いたくしかたなくなりチャレンジしてみるが、あえなく失敗。難しい。
うう、明日の某研究会の準備しなければ。
昼前まで寝てしまう。柏原。
DNSの調子が悪い。
qmailは独善的という見方がある。qmailのメーリングリストの管理方法を見ていると、そういう感じもしないでもない。1日マシンが落ちただけで、リストから削除されてしまったような感じ。どうも独善的な人々が使うものなのではないか、とかね。いや、単なる悪口なんじゃが。
といって、やっぱりsendmailを設定しようとすると失敗。うーん、まいった。結局、妥協してMailbox形式をつかうことにした。これならprocmailもxbiffも問題なく動くし。tcp_wrapperをかませて、ほかからはSMTPできないようにしておく。
そういや、昨日の帰りの新幹線のなかで、松本侑子(大昔に小説をひとつ読んで、まずまず読めると思った憶えがあったので)の『愛と性の美学』とか読んだが(キオスクってなんで「性」とかつく本しか置かないんだろう?)、あまりに「正統」っていうか、ふつうなんで、かえっておどろいた。これほどオリジナリティのないことを書くひとってのも少ないな、とか思って著者紹介を読むと、あんまり私と歳がかわらん。同じような本を読んで育っているのね。
31歳最後の日。禁酒1日。時間が足りない。なるべくネットワークには触らないようにしているのだが。
なぜか無性に大根下ろしが食べたくなり、大量に擦りおろして納豆とともに食す。
世の中にはだいたいどれくらいの数であるかをせめて桁だけでも知っておくべき数字があるような気がする。世界の人口とか(57億人ぐらいかな?まだ60億はいってないよな)、日本の出生数とか(110〜120万人ぐらいかな?)、中絶の数とか(40万人(件?)を切るぐらいか)、交通事故死の数とか(わからん。2万ぐらいか?歩行者は5、6000人だったと思う)、自殺の数とか(これもわからん。万のオーダーのような気がする) 1年に失なわれる森林の面積とか(1000万ヘクタールっていうけど、これは具体的にはどれくらいの広さなのかがわからん)、日本の面積とか(これを知らないから前のやつがわからん)、日本の国家予算だとか(ぜんぜん知らん)、女性器削除されている女性の数とか(1億ちょっと!)、アメリカでレイプされている女性の数とか(7人に1人が生涯に1度は経験するそうな)ナチスに殺されたユダヤ人の数だとか(600万ぐらいかなあ)、戦争中に死んだ日本兵とか(うーん、百万の桁だと思うけど。頭に浮ぶ200万って数が兵隊なのか、一般市民なのか)、これまで生きてきたと思われる人間の数とか(これは難しいな。推定人口のグラフとかってのは見たことあるから、計算すればだいたいのオーダーはわかりそうだが)
こういう数字は一度知らべてもすぐに忘れてしまう。その桁までわからんようになってしまうっては恥ずかしい。いかんな。なにかメモを残して蓄積することにしよう。どっかにそういうのがないかな。単位ごとに昇順か降順になっていて、だいたいの桁のオーダーで意味があるような例がのってるってやつがいいな。CGIで皆に適当に書いてもらうってのも企画したが面倒。
ま実は、今ワールドウォッチ研究所の『バイタル・サイン』てのをながめていて、その数字がどの程度の大きさなのかがよくわからないものも多いのだな。恥ずかしいことである。
今日は満月。あとで散歩しよう。
30歳も今日かぎり。 1年よくsurviveしてきた。えらい。 歳をとるたびに、年配のひとは偉いと思うようになってきた。 なんたって彼らはちゃんとsurviveしているのだ。
原稿書き。昼間京大のネットワークが落ちていて、 おかげですこしはかどった。このまま夜も落ちていてくれればよかったのに。
深夜、円山公園を散歩。月は明るい。ウサギさんはさかさになってる。なんで あれをウサギだとおもったのだろうか? 頭の中ではなぜかマーラーの『大地の歌』の一節が鳴っていた。 知恩院の境内に入ると、 この時点ではマーラーと月の連想から シェーンベルグのあの曲が鳴ってた。 警備員が走って寄って来た。 夜間は立ち入り禁止らしい。それは失礼しました。 あぶない人のまねをしたらどうなるか一瞬考えたがやめた。
前に一度紹介した(もちろんおすすめという意味ではない) 痴漢常習者がページを再開していた。 ううむ。
このコーナーのあらゆるメディアへの無断掲載・紹介等は 一切お断り致します。 必ず事前にメールにて許可を取ってください。 なお、株式会社徳間書店の出版物への掲載等は いかなる場合においてもこれを拒否します。なのだそうだ。
ま、確信犯的に直接リンクを貼ろうかと思ったが、 ちと日和ってしまった。
ふとfjを読むと、(いや、そんな暇はないのだが) fj.soc.men-womenでも痴漢が自己を正当化していた。 正当化というか、なんか「女性も実はのぞんでいる」のような 勘ちがいがあるのだよな。こういう人々は。 ま、妄想をどうもとうとそのひとの勝手なのだろうが、 実際に被害にあう人はたまったもんではないだう。
ま、キェルケゴールなんかも思いこみが激しくって、 時代が時代なら「ストーカー」寸前だもんね。 (とか書くとどっかからおこられそうだ。) しかしキェルケゴールの私生活の研究者による評価ってのは 私にとって謎で、彼が 「コペンハーゲンのダンディ」であったはずが ないと思うのだが、研究者たちはそういうことは言わない。 「誘惑者の日記」とか読んでも、私には思いこみのはげしい 危ない男にしか思えないのじゃ。 女性から見て、ああいう男が魅力的に見えるとは思えない (時代の違いを考慮に入れたとしても) 実際、キェルケゴールの実生活でも レギーネさんは「 たいへんなものと知り合ってしまった」 と思っていたはず。 そこらへん、研究者はちゃんと言うべきなんだと思うのだが、 たいていのキェルケゴール研究者はキェルケゴールが好きなので そういうことはしないのだな。 そういや、昔「コーデリアから見た誘惑者ヨハネス」って いう読みものを書こうなんて計画してたころがあったな :-) 男(すくなくとも私)が書くもんではないという結論に達したのであった。