メンテの日。衣装ケースの中身をいれかえると、大量の下着が。この前買う必要なかった。
一日お休み。もう一日休みたい。
勉強しているつもり。夜プール。
知らん分野の文章を書いているつもり。筆が遅い。「ですます」なら早く書けるのに。
夕方配信授業。下手よねえ。
教材。
昼、家まで少し走る。帰宅だけだと往復で3キロに届かないのでちょっと足りない感じなので、鴨川まで遠回りしてみる。五条〜四条ぐらいまで行ってもよいかもしれない。しかしジョギングはケガがこわいのでやりすぎは禁物。
寝坊。
好天。しかし仕事する。今日終らせないともう終らない。
ということでいったん送る。それにしても反省が多い。自分の能力を超えていること、不安を感じること、自分が最終的な決定できないことはもうしない。
あんまり酒飲みたくなくて夜起きている。かなり昼寝(夕方)したのと、プール行けなかったからだな。
実は1、2週間前にファミコンのミニレプリカみたいなものを買って、スーパーマリオやってる。おもしろいなあ。テレビゲームなんてこのレベルもので十分よね。PS4のFPS(First Person Shooting Game)なんか難しすぎるし、アクションアドバンチャーやRPGも刺激が多すぎる。
お天気。軽くジョギング、と思ったがウォーキングに。
知積院で500円払って庭を見てみる。庭はそれほどでもなく、むしろ長谷川等伯その他の襖絵の方があれね。
努力の成果か、ずいぶん美術関係の見方がわかってきた感じで、人生別のステージにいる感じ。
ちょっと昔の研究室の写真を見ると本が溢れていて、そこからスキャナで3000冊ぐらい読みこんでずいぶんシンプルになった。家で段ボールに入っていた本もぜんぶ捨てたし。いろいろシンプルになりつつある。そういうのは5年前、できれば10年前ぐらいに獲得できた知識や実践かもしれんけど、まあこれが私の人生か。
もうなにもしないでおとなしく最低限の授業だけして暮したいけど、その他の業務とかもありだわよね。そんな楽な人生はない。
実はテレビを新調した。32型。最近目が悪くて小さな画面に微妙なストレスを感じていたのだが、解消された。しかし今度は台座があわなくなってテレビ台が必要になってしまった。
ちょっと焦っている。天気悪く、昼には軽く雨。近所の床屋へ。 ここは2回目だが、なんかなにもかにも微温く、なんだか衛生的に不安で、動作もぬるくて快適でない。別の所探すか。
体調の方は朝苦しむが、この程度ならやむをえないのか。某委員会があったのだが、天王寺まで電車に乗るのが恐怖なのでパスさせてもらった。実際夕方も軽く苦しんだので、休んで正解。
夕方ちょっと苦しむも、某コンサートを聞きに。実はアルコール飲むと苦しいのがなくなる。しかし昼から飲むわけにもいかんしね。ブラームス1番。数百回は聞いている曲だが、やっとこの曲が何であるか理解した感じ。技術的に問題がある演奏だからわかることもある。しかしまあああいう曲を演奏する経験をもてるというのはうらやましい。
午後授業一個。 天気のせいか調子悪い。
夕方東京へ移動。弁当の選択その他に失敗して苦しむ。
早朝ジョギング。やはり心拍上げられず。むしろ歩く。
事務仕事全力。
一日というか丸二日かかって某会計をあわせる。午前と午後学生様にバイト頼んで、記録をぜんぶ洗い直し。ミスだらけ、というかなんだってこういう状態にできるかわからない。夜になってやっとすべて完了。すごく疲れた。もうこういうのはやりたくない。やるならもう全部自分でやるか信頼できる人にまかせる。
やはりトラディショナルでオーセンティックな竹箒は使い勝手がよい。掃く動作のときに、化繊の箒にはない快感がある。
生産性上げないと。
ジョナサンハイトの翻訳読んで気分悪くなったり。
深夜、いきなり調子悪くなる。へんなもの食ったのかなあ?
1日研究室。
もっとエネルギーを少数の活動に集中しないとだめだわね。
集中して仕事一つ片づけたい。
連休なのに仕事があります。2回生講義。今年は パワポ使う感じになっている。 プリントするのが面倒なのもあるけど、 もう使い古しのレジュメ使うのがいやなの。その日か前日に話したいことを 書き直す方がよさそう。
連休中に卒論相談6、7件かたづけた。
ここのところマンガ喫茶に通っている。本日は『GANTZ』。
夜更し。
火曜日と木曜日は忙しくて目がまわる。
英語、 1回生、 吉田。 読書会。
長風呂励行。
今日も筋肉痛。おとなしくしていよう。気温上がってほしかったが雨。
50年代前半のストリングス入りのジャズのアレンジってよくできてるよな。 パーカーのとかビリーホリデイのとかシナトラのとか。アレンジャーたちが なにをどうすりゃどう鳴るかをシステマチックに理解しているのがわかる。 まあラヴェルやストラヴィンスキーから 2、30年たってるわけだしな。いろんなことが成熟した時代。 そういやちょっと前に岩城宏之が50年代にNHKのためにアメリカの音楽を耳コピしてアレンジ してたとかって話読んだな。エリントンとかもなに考えてたのかなあ。
ポピュラー音楽家たちがどういう勉強をしてどういう発見をしていったのかっていう 歴史は知りたいなあ。ふつうの読み物では、「とにかく天才、女ドラッグやりまくり」とかって伝記的 情報や逸話か、「代理コードとは」「このコードではこのスケールが」とかって すでにできあがった理論しかわからん。今教えられている理論ができあがる過程が知りたい。
よく指摘されてることなんだろうけど、 レコードの普及以降の音楽体験ってのはそれまでとはまったく違う。 エジソン先生ありがとう、なのかな。 オケ音楽の密室リスナーとかってのは人類史上それまで存在しなかったわけでなあ。 せいぜいピアノ弾けるほんの一部の人が密室にこもることができたにすぎない。 あれ、四畳半で一人で三味線弾いて小唄唸ってるひととかってどういう感じだったんだろう。 唸ってみればいいか。
思いっきり昼寝。
近年では久しぶりに落ちついて過した3日間の終り。 なんか仕事忘れているような気もして不安になってきたり。
一日を充実してい生きるために仕事。あれ、LAMYのペンがどっか行った。
まあでもなんかちゃんと遊ぶのが苦手だってのは大きな弱点だよなあ。メリハリのない男。そういやお祭りやイベントとかも昔から好きじゃなかったような気がする。盆や正月もテレビ番組かわったりいつもと違うもの食わされたりして苦手だったような。軽い(?)自閉症だわな。内省してみると、どうも遊ぶのが苦手というより、なにかが変化したり、なにかに対応したり、なんか判断したりするのがいやみたいだな。旅行や出張が嫌いなのとも同じ原因だ。やはり牛とかラマそういうものに近い。せめてゴリラかボノボに。動物園とかのゴリラも不機嫌そうだわな。
午前中まずまず仕事。
他人の翻訳の手直しは目標と作業量がはっきりしているので 「仕事している」ってな感じがするわな。
夕方LAMYは無事発見された。しかしペリカーノジュニアも行方不明。
さて、片付け。つみあがっている書類はすべてハンガーフォルダに 呑ませればよいのである。様子を見て本棚のフォルダにしまえばよいわけですわ。
『テニミュ』の続きみてたらなんだかおもしろさがわかってきた。
雨。朝から。連休も終りか。なにもしなかったが内的にはけっこう充実していた。 エピクロス派の末端にいるのを感じる。
某所で「総合雑誌」という単語を目にしておかしかった。私がはじめてこの単語を知ったのは1998年11月。まあこの業界に就職すると目にするようになるということなのか。結局読むようにならなかったな。おそらくこれからも読まない。
昼帰宅して昼寝、夕方また出てくる。ちょっと時間が無駄かなあ。
おや、TeXについて素敵なページがあるな。 http://tex.dante.jp/typo/。こういう感じで歴史的な経緯も書いてくれる方がわかりやすいと感じるのは、過去の記憶から離れられないオヤジだからだろう。これまでときどき脱EmacsとかLaTeXはバッドノウハウとか騒いでいたが、けっきょくemacsからもlatexからも脱出することはできなそうだなあ。ここらへんは少なくともあと10年ぐらいでは絶滅しないだろう。もう抵抗するのはやめるか。両方ともUTF-8が使えるようになったのがでかい。Wordがもうちょっとまともだったり、Mac WriteやNISUS Writerが頑張れれば、QOLが違ったのにな。無事定年を迎えたときにemacsのバージョンはどうなっているのだろう。fj読むために百万遍電算機センターの18.55 (nemacs)あたりから使いはじめたと思うが、意外に26.0ぐらいですむか。TeXはまちがいなくVersion πになってるだろうな。
skkの辞書の件は (setq skk-jisyo-code 'utf-8) で解決。
おだやかな日々だったなあとか思っているとまた本が見つからずムキー!この連休に整理するべきだった。とにかくどうにかしないと。
昼前から。大学は事務の人々は働いているようだ。偉い。
目がしょぼしょぼ。
まだ苦しんでいる。
雨。なんとか起きる。あわてて授業準備。しかし頭がはっきりせず。連休ぼけ?
授業2個。案の定非常に調子が悪い。 もうちょっと授業の出来不出来の波を小さくすることはできないものだろうか。 ノートを読みあげるような授業にすれば一定の水準は保てるような気がするが、 それではおもしろくないしなあ。
「鴻池の犬」「千両みかん」「軽業」。
やはりJR西日本宴会報道の件は、ひとびとから反感を買っているようだ。わ れわれはどのくらいの広い集団にまでアイデンティティを感じるべきかっての はほんとうにおもしろい問題だよなあ。むしろわれわれはどの程度広い集団を 非難したくなるか、どの程度の集団を非難したくなるべきかって問いの方がさ らにおもしろいかな。わたしの思考の傾向だと、その集団の粒粒のひとりであ る人間はそういう特殊なケースでどういうことを感じるかとか、わたしがその場におかれたときに「正しい」判断を下すことができるかとか考えちゃうけど。
授業。
早朝に目が醒めてしまう。1コマ目から。数日前心配した予算関係は大丈夫だった。
夜中までコシ・ファン・トゥッテを見てしまったので、2時ごろまで寝てしまう。
散歩。ツツジを見に浄水場に行くが、4時閉門。ほとんど見ることができず。また来年。哲学の道をちょっと歩いたり。帰りに小雨。ジョギングはできず。
連休は終了。授業準備のため夜研究室へ。
ついでにFreeBSD 4.3にするため、まずバックアップ。ひさしぶりに
sudo rdump -0cuaf elektra:/dev/rmt0h /export/homeしておく。現在3.3GBある。2時間ぐらいかかる予定。
Filesystem Size Used Avail Capacity Mounted on /dev/ad0s2a 48M 26M 18M 59% / /dev/ad0s2f 7.6G 3.5G 3.4G 51% /usr /dev/ad0s2e 19M 14M 4.1M 77% /var procfs 4.0K 4.0K 0B 100% /proc /dev/ad0s2g 14G 3.3G 9.5G 26% /export/home linprocfs 4.0K 4.0K 0B 100% /usr/compat/linux/proc /dev/ad2s1f 19G 12G 5.2G 70% /export/home0 /dev/da0s1e 19G 4.4G 13G 26% /export/home1 /dev/ad2s1g 6.3G 2.0G 3.8G 35% /export/home2
/export/home{0,1,2}にはロクでもないデータしかないので バックアップは必要ない
emacsで他のマシン上のファイルをいじるためのTramp。ange-ftpより高機能。
FreeBSD 4.3への移行は、CD-ROMを焼いておいたので10分前後で終る。うーん。srcもいったん消して入れなおす。速攻でカーネル作りなおし。
なんとか午前中起きてキェルケゴール研究会。「脱構築」(うぇ)とか、ドイツ語圏での論文サーヴェイとか。「門」でちょっと。
デンマーク本国ではキェルケゴール研究者は党派性が強くていろいろ問題が多そう。ばからしい。 なんで世界各国でキェルケゴール研究者が政治しているかというと、哲学・宗教学のなかではマイノリティーであって、生き残りのために集団の結束が重要であるということと、政治をするには研究者の人数が適切だからなんだな。
連休は終ってしまった。午前中。 疲れた。ひさしぶりの研究室。やらねばならぬことは山ほどある。
む、Eric Raymondが京都に来るのか。行かねばなるまい。28日金曜日。京産。
やっぱりWINDOWSだのMacintoshだのってマシンを共用するうまい方法がおもいつかん。私が余計な気をつかいすぎているのかもしれん。(プライバシーとか)
これくらい携帯電話が普及してくると、家にある留守番電話の意味がよくわからんようになってくる。携帯電話でも留守電が機能しているわけだから、家の電話はFAXを受けるぐらいしか用はないわけだ。(FAXさえ送られることはめったにない)んじゃ、UNIXマシン入れて、それが直接受けて、外からアクセスできるようにするかね。
前日から徹夜で授業。午前中篠原。一旦帰宅。午後、深草。終了後昏睡。
授業再開。まずまず。さすがに私語はかなり減った。(しかし絶滅させるのをめざす)
水谷助教授が「The BASIC」に連載中の デジタル万華鏡 (電脳曼陀羅は中村正三郎でした)が一部オンライン化されたようです。よろこばしい。
なんと、エッチの話は私の名前が発端だったのか! (<a name=>には空白とかいれても大丈夫だっけ? うまくreferできないような気がする。)
そういや、昔から「えっちさとし」とか「エロ恥」とかよく言われたなあ。しくしく。とくに、「江口恥」(江口聡だってば!)と書くやつはいまだに後をたたないのが悲しい。
まあ、「エッチする」という言葉については私はそれほど抵抗はない。「ムカツク」や「エラソーニ」という敵意ある言葉に抵抗があることを前に書いたが、まあ、そういう言葉とはちょっと違うじゃろ。もともとは女学生の使う言葉だったのではないかな。
そもそも、性にまつわる表現はいろいろ婉曲にしたり冗談めかしたりしたくなるものなので、まあ、ほほえましいと思う。ちょっと反省すると、「セックスする」とかっていう表現もなかなかへんである。なんでそんな基本的な単語に外来の言葉をつかわねばならないのか? すでに「せっくす」という言葉をつかうのにも照れとか入っていたんじゃないかな。40年〜50年代の日本の雑誌などを見ると、そこらへんの表現に苦労しているのがわかる。 (よって私はその行為は「交尾する」「愛をつくる」「ネジをまわす」「それをひたす」「それをもつ」「相互交流をもつ」 などを用いる。「ようよう、ねえちゃん、ネジまわせへん?」とやるわけである。(うそ)「おセックス」とかも好きざます(これもウソ)(あんまり下品で頭が痛くなった))
「寝る」とかってのも実感にそぐわないようになったのかもしれない。(いや、立ってするようになったわけではなく....)
興味深いのは、「セックス」と対比される意味での「ペッティング」という表現や、関係の一元的進行状態を示す「A、B、C」などがほとんど消滅したように見えることで、「高校生はキスまで」「結婚前はセックスはいかんがペッティングは許す」というアメリカ50年代的自己欺瞞的態度(?)が消滅しつつあることを反映しているのだろう。「セックス」という言葉には、上のCを指すという狭い意味があって、「エッチ」はもっと広い身体的交渉を指すのだろうし、そういう意味でつかいたくなるのもわからんではない。
書き忘れたが、「スケベする」という表現は1984年冬〜1985年春には、河原町近辺ですでに使用されていた。また同時に(それに対応して)「エッチする」という表現も用いたことがあると思う。
ちなみに、二人称の「お宅は」という表現は、1975年ごろに多用していた。
こういうネタが続いたが、最近でた度会好一『ヴィクトリア朝の性と結婚』中公新書は当時のイギリス社会に関心をもっているひとは必読。当時の手紙や日記を中心にして、性をめぐる「神話」の真相をあきらかにするという本。ちょっと全体を通しての筋が見にくいけど、資料として十分おもしろい。カーライルを貧乏人よばわりして結婚をこばんだ女やら、すべての功利主義者のマドンナであるハリエットちゃんやらも登場。もちろん、そのほかハーディーやらオースチンやらも出る。もっとも、「偽善に満ちたヴィクトリア朝」という認識はかわらなかったけど。(もちろん私は偽善が大好きなので、そうであってくれてうれしい)